「終末の裁き」使徒信条十四 マルコ福音書一三章

 使徒信条の告白は、イエス・キリストについての告白の最後に、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と、告白します。
 
イエス・キリストは、この世の終わりの時にもう一度この世に来られるというのです。いや、逆に、イエス・キリストがこの世にもう一度来られる時、それはこの世の終わりの時だというのです。なぜなら、イエス・キリストがこの世にもう一度来られるのは、何のためにこられるかと言えば、それはこの世を裁くために来られるからであります。

 何のために裁くのでしょうか。裁きとはなんでしょうか。それは閻魔大王が何か罰を与えるということなのでしょうか。これは閻魔大王がする裁きではないのです。神がなさる裁きであります。そうであるならば、この裁きはただ悪いことをした人間に罰を与えるということではなく、神が神としてご自身をはっきりとすべての人に現す時だと言ってもいいと思います。つまり、神が神として現れる時、この世に神なんか存在しないとうそぶいている人間に、いや、この世を支配してるのは、神なのだということをはっきりと示される、それが神裁きであります。

 つまり神の裁きとは、神のみこころを行っている人間とそうでない人間とを裁かれるということ、そして神のみこころがどこにあるかを示すための裁きであります。そのためにイエス・キリストがもう一度この世にあらわれるのであります。なぜならば、神のみこころを一番はっきりとあらわしたのが、あの十字架の死と復活だからであります。

 神のみこころを最後に示すためには、もう一度イエス・キリストにきていただく以外にないのです。
 イエス・キリストは捕らえた裁判の席で、大祭司が「お前はメシアなのか」と尋ねられた時に、「そうだ、あなたたちは人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」といわれたのであります。
 
 聖書の一番最後の言葉は、ヨハネの黙示録の最後であります。そこではこう記されております。「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください。」と言ったあと、「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」という言葉で終わっております。最後は祝祷の言葉ですから、聖書の最後の言葉は「主イエスよ、来てください」という言葉であると言ってもいいと思います。これはコリント人の手紙では、「マラナ・タ」という言葉がそのまま使われております。これは「主よ、きてください」というアラム語、つまり主イエスが生きていた時に使われていた言葉、ヘブル語といってもいいですけれど、アーメンという言葉と同じように、そのままギリシャ語に翻訳されないで、残された言葉で、当時の教会の信徒の間で、自分達の信仰をあらわす合い言葉のようになっていたのであります。

 この「マラナ・タ」と言う言葉、「主イエスよ、来てください」と言う言葉は、特に過酷な迫害にあっている教会が痛切に叫んだ言葉であります。それは自分達を迫害するものをどうぞ裁いてください、裁くために早くいらしてくださいという叫び声であります。
 この世の不正義が横行してる時に、そして正義を行っている人々が迫害にあい、苦しめられている時には、われわれはこの終末の裁きを切実にもとめたくなるのであります。

 ヨハネの黙示録には、「神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂をわたしは祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の報復をなさらないのですか』。」という言葉が記されていて、迫害にあっている人々が切実にこの終末の裁きを待ちのぞんでいたということがわかります。

 コリントの信徒の手紙でも、「マラナ・タ」、「主よ、来たりませ」と書かれている箇所の前の句は、「主を愛さない者は神から見捨てられるがよい」とあって、これは口語訳では、「主を愛さない者がれあば呪われよ」と激しい言葉で訳されております、終末の裁きとは、教会を迫害してきた人々が最後に神から報復の裁きを受ける時だというように期待されているのであります。
迫害にあっている状況の中にいれば、それは当然だろうと思います。しかしもし終末の裁きというものが、信仰者が救われ、信仰者でない者たちが裁かれて、地獄に落とされるというのであれば、われわれ人間の世界で繰り返される報復合戦と同じことが起こるのではないかと思われて、なにかがっかりするというか、それが神の裁きなのだろう、それがあの十字架につかれた主イエス・キリストの裁きであるのだろうかと考えてしまうのであります。
 
 主イエスがこの終末の裁きについて預言しているところをみますと、主イエスはこういわれます。マタイによる福音書二四章三六節以下でこう記されてりおます。「その日、その時は、だれも知らない。ただ父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じである」と言って、こう言います。「人の子が来る場合もこのようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから目を覚ましていなさい」と、主イエスはいわれるのであります。

 ここには、良い行いをしている人が残される、つまり救われるとか、信じていた者が救われるとか、そんな価値判断はひとつも考慮されずに、まるで偶然であるかのようにして、たまたま一人の人が救われ、ひとりの人が滅ぼされるというのであります。終末の神の裁きは、もう一切が神の主権が発揮されるのであって、そこに人間側の価値判断が入り込む余地がないのだといわんばかりであります。ここは理不尽な程に神がすべてを決定する、われわれ人間側のほうはその神の裁きに平服する以外にないということであります。

 終末の裁きというものは、人間側の価値判断が排除されるという点では、なにかすがすがしさすら感じられる裁きではないでしょうか。

 終末の裁きは、すべては神の主権が発揮される裁きであります。われわれ人間の価値判断を神に押しつけることはできないのです。人間の目から見て、悪を行っている人々が神からの報復を受け、神に復讐を受けるようにして裁かれていく、そして人間の目から見て、正しい人が救われる、そういう裁きではないのです。

終末の裁き主として来る再臨のイエス・キリストをなにか血なまぐさい剣をもったかた、復讐心にもえるかたとしてイメージしていいのかということなのであります。迫害という状況下ではそうしたイメージをもつことはやむを得ないことかもしれませんが、しかし、それでいいのか。終末の裁き主としてこられるイエス・キリストは、ただ迫害にあっている人々に復讐してあげるためにこられるのではないのです。

 パウロはこういいます。「キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵をご自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として死が滅ぼされます」、そして最後に結論のようにしてこういいます。「神がすべてにおいてすべてととなられるためです」というのです。
 つまり、終末の裁きは、人間のすべての権威、支配を滅ぼして、神がすべてになられる時だというのです。教会といえども、もしその教会が権力を発揮するならば、この終末の時に裁かれるのであります。裁かれるのは、不信仰者、迫害している者だけでなく、信仰者も、迫害されている側の人間もまた神の裁きに服さなくてはならないのであります。

 ヨハネの黙示録は、過酷な迫害の中にあって書かれた書物ですから、終末を期待し、「主よ、早く来てください」と叫ぶ時に、それは自分たちを迫害するものに報復してくださいという叫びであることは当然だと思います。それに答えて、再臨の主イエスも、「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる」といいます。しかしそのあと再臨の主イエスは「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者、初めであり、終わりである」と宣言するのであります。

 ヨハネの黙示録に記されている再臨のキリストは、確かにある意味では、血なまぐさい剣をもったキリスト、復讐するためにこられるイエス・キリストというイメージがありますが、しかしヨハネの黙示録には、もっと崇高な終末の預言がなされております。二一章の一節からみますと、ヨハネがこういう幻を見たというのです。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去っていき、もはや海もなくなった。更にわたしは聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのときわたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神みずから人と共にいて、その神となり、彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。まはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」、と記されているのであります。もはやここには、復讐はない、ただ赦しだけがあると言ってもいいと思います。なぜなら、この時には神がすべの者にあってすべてとなられるからであります。

 そしてこの新しい世界は、「もはや夜はなく、ともし火も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世を限りなく統治するからである」というのであります。

 ヨハネの黙示録も、再臨のキリストが来られるのは、ただ復讐のためではない、復讐を超えて、新しい世界を用意しておられるのだというのであります。

 終末の裁きを考える時に、われわれはただ自分達を迫害している者に対する報復、その裁きだけを考えてはいけないのです。「かしこよりきたりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」というのですから、信仰者もまた裁かれるのでありあます。

 パウロも自分の伝道活動をふりかえってこういうのです。「かの日が火と共に現れ、その火はおのおの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただその人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」というのであります。恐らくパウロは自分自身のことを考えた時に、自分は確かに救われるけれど、それは火の中をくぐってきた者にように救われるのだ、全身やけどだられかもしれない、しかしそれでもイエス・キリストの憐れみによって自分は救われるのだと確信していたと思います。

 主イエスは終末の裁きについて語られる時、こういうのです。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからである」、口語訳では、「あなたがたの救いが近づいているのだから」になっております。そして主イエスはこういわれます。
 「いちじくの木や、ほかの木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことを起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」といいます。
 大変不思議なことに主イエスは終末の裁きについて述べる時に、その時が来たら、「身を起こして頭を上げよ」というのです。そしていちじくの木が枯れてしまう冬が近づくというたとえではなく、いちじくの芽が出始める夏の季節にたとえるのであります。

 なぜこんな楽観的なことを語られるのか。どうして終末の裁きに際して、われわれはこんな楽観的な希望をもてるのか。それはもちろん、われわれは自分の行ってきたわざとか、自分の信仰のことを振り返ったら、到底こんな楽観的な希望は出てこないのです。それはただひたらす、イエス・キリストを見つめる、そこからあたえられる希望であります。このイエス・キリストをみつめて、最後まで耐え忍ぶ者は救われるのだというのです。

 たとえは悪いかもしれませんが、あの仏教の説話の中にたる蜘蛛の糸の話にでてくる、カンダタのことを思い出してください。ある時、お釈迦様が天上から地獄をみていたら、そこに生きている時にさんざん悪いことをして地獄にいるカンダタをみつけた。その男はしかし生きている時に、ただひとつだけ良いことをした。それは目の前にいた蜘蛛をふみつけて殺さなかったことがある、それをお釈迦様は思いだして、そのカンダタのために天上から細い蜘蛛の糸をカンダタの上に垂らした。彼はそれに気づいて、自分が蜘蛛を助けたことがあるのを思いだし、そしてその蜘蛛の糸をよじ登っていく。ふと地獄の連中はどうしているかと思い、下をみるとなんと自分のあとにその細い蜘蛛の糸を頼ってみんながよじ登ってくるのを見る、それで彼はあわてて、これは俺のための糸だ、お前のものではないといって、けおとそうとしますと、その反動で糸はゆれ動き、ぷつんと切れてしまい、カンダタは再び地獄に落ちてしまった、それを天上からお釈迦様が悲しそうな顔で見ていたという話であります。
 
 われわれは終末の裁きの時にただひたすら、見つめなくてはならないのは、主イエス・キリストだけなのです。それ以外のものをみようとしてはいけないのです。自分の功績とか、自分の信仰とか、そんなものはわれわれが終末の裁きに耐えるものにはならないのです。ただ、主イエス・キリストだけを見つめていなければならない、その時に、われわれは身を起こし、頭をあげることができるのであります。その時にわれわれはわたしの救いが近づいたと信じることができるのであります。