「我は聖霊を信ず」 コリント第一 12章1−

 使徒信条の第三の項目は、聖霊に対する告白であります。「我は聖霊を信ず」という告白に始まって、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」と続きます。聖霊を信ずることによって、教会の存在、教会の中での交わり、そして自分の罪が赦され、身体がよみがえり、永遠の生命が与えられることが信じられるようになるという告白であります。
 つまり、教会のこと、また自分の罪の問題のこと、この地上のことは、すべて聖霊を信じることに関わっているということであります。

 この使徒信条は、三位一体の信仰告白になっております。父なる神を信ず、子なるイエス・キリストを信ず、そして聖霊なる神を信ずる、という告白であります。三位一体というのは、聖書の神は、あくまで唯一神、この世にはただひとりの神しかいないという信仰であります、多神教ではないのです、しかしその唯一の神がわれわれを救うために、三つの異なる姿で現れてくださったという信仰であります。
 この三位一体という言葉は、聖書の中にはありません。後の教会が聖書を深く読んでいくと、どうしても一つの神が三つの神として表現されているということに気がつき、三位一体という言葉でそれを表すようになったのであります。
 
 このことでは、竹森満佐一の言葉を紹介しておくのが一番われわれにとっては参考になると思います。こういっております。
 「神を父、子、聖霊として信じることを教会は三位一体という。こういう言い方はいかにも難しくて、どう考えていいか、わからないような気がするものである。しかし、実祭には、別に難しいことではない。現にこの使徒信条には、三位一体などという説明はないし、聖書もこの字を使ってはいない。これはのちに教会が説明するためにつかった言葉だ。しかし、本当は信条が示しているように、父なる神を信じ、子なる主イエス・キリストの救いがわかり、聖霊によって生きることができれば、それ以上の解説がなくても、別に困らない。父、子、聖霊について正しい信仰がないと、三つあって一つであるとはどういうことなのかというようなことが問題になることがあって、それは正しい信仰の仕方をしていない」と言っております。

 要するに三位一体といことでいおうとしていることは、父なる神を信じ、主イエス・キリストの救いがわかり、聖霊によって生きることができる、それを信じればいいのだというのです。

 それで今日から、聖霊についての信仰の告白であります。竹森満佐一は、聖霊について、聖霊によって生きることができる」、それがわかればいいのだと言っておりますが、聖霊を信じるということは、われわれがこの世にあって「生きる」ということに関しての告白であります。もっと正確に言いますと、聖霊によって、「生かされる、生かされている」という告白、それが聖霊を信じるという告白であります。

 聖霊という日本語は、聖霊について誤解を与えるかもしれまんせん。それは聖なる霊ということで、何か特殊な神秘的体験をする、そういう霊感を受けることが聖霊を信じることだと誤解を与えるからであります。現に、それを強調する教会、そういう教派もあります。聖霊派といわれる教会であります。そういう教会では、洗礼を受けただけではまだ救われたことにはならい、聖霊体験という体験をしないと本当に救われたとは言えないというのです。そのためになにかわざわざ人為的にそうした神秘体験に追い込むような集会をしたり、そういう心理操作をするようになるのであります。

 確かに、弟子達が受けた聖霊体験というもののは、聖書の記述によれば大変不思議な体験であります。イエスがよみがえり、天の昇ってしまい、がっかりしているときに、弟子達は五旬節の日に聖霊を受けるという不思議な体験をしたことが使徒言行録に記されておりますから、聖霊を受けるということはそういうことだと思われがちですが、聖書にはそういう特殊な体験だけが聖霊を受けるとか、聖霊を信じるということではないと言っております。

 パウロは、ある意味では、そうした不思議な劇的な聖霊体験をして、ユダヤ教徒から百八十度転換してクリスチャンになった人ですが、そのパウロはこういのうのです。「聖霊によらなければ、誰も、『イエスは主である』とは言えない」と言っております。

 つまり、われわれがイエスを救い主として信じられるようなる、そうして洗礼を受けたいと思うようになる、それはすべて聖霊の働きだというのです。聖霊の促しがなければ、われわれは到底イエスを救い主として信じられるようになはならいというのです。
 それは逆にいいますと、われわれが別に不思議な神秘的な体験を受けていなくても、イエス・キリストを心から信じられるようになったとき、それは聖霊を受けているということなのであります。

 もちろん、この聖霊は神の側からの働きかけですから、ある時には人間的経験を超えて神秘的な現象として現れるということもあると思います。あの弟子達がペンテコステの日に体験した出来事はまさにそういうものだったと思います。しかしそれだけを聖霊体験というように考えることはおかしいのです。

 ある牧師と話をしていて、その牧師が、健康の有り難さというのは、病気になった時にしかわからない、それと同じように神の恵みの有り難さというのは、自分の罪を深く自覚した時にしか分からないと言われて、わたしはそうだろうかと思ったものでした。
 確かに健康のありがたさというのは、病気になった時によくわかるかもしれません。しかし健康のありがたさというのは、何も病気にならなくたって、たとえば山登りをして頂上に登って、あたりのすがすがしい空気を吸い込んだときに、自分が健康を与えられているということはなんとありがたいことだろうと感ずるだろうと思います。あるいは毎朝、ジョギングしている人も、走りながらごく日常的に健康のありがたさを感じられると思います。

 それと同じように、われわれは自分が何か罪を犯した時に、どうしようもなく絶望に陥った時だけ、神の恵みの有り難さがわかるというものではなく、われわれが毎日曜日のこの礼拝においてだって、神の恵みのありがさを感じられるものだと思うのです。夫婦の愛の有り難さだって、何も破局を迎えそうになった時に始めて夫婦の愛の大事さがわかるというものではなく、日常のごくあたり前の静かにな生活の中でもそれは分かるものだと思うのです。

 何か破局を迎えて、絶望した時だけ、神の恵みがわかるとか、神の愛がわかるとか、人の愛がわかるものではなく、毎日の生活においても、健康的な生活を送っている、平凡な信仰生活が送られているということの中にも、神の恵みのありがさというものがわかるようにならないと、その信仰はゆがんだものになるのでなはいかと思います。なぜなら、なにか神の恵みをわかるためには、大罪を犯した人にしか分からないんだということになってしまって、そういう人の証しが重んじられるようになるからであります。

 聖霊を受けるということは、何か特殊な体験をしないとわからないということではないのです。平凡な信仰生活をしているなかで、自分は生かされている、ということを実感する、それが聖霊を受けているということであり、聖霊を信じるということであります。
 聖霊を信じるということは、自分は自分の努力と自分の力だけで生きているのではない、自分を超えたかたがおられて、そのかたの助けを受け、そのかたのとりなしを受けて自分は生きている、つまりそのかたの助けを受けて、生かされて生きているのだということを自覚する、そのかたの働きかけを信じるということであります。
 
 自分がそういう聖霊を信じて生きているかいないかはどうしたらわかるのでしょうか。それは自分の生き方に自由があるかどうかということがひとつの目印になるのではないかと思います。パウロの言葉に「主の霊のあるとこには自由がある」という言葉があります。その前の所は、われわれはこの主の霊がないところでは、律法というものに捕らわれていて、律法という覆いがかけられていて、はなはだ不自由であったというのです。しかし主のほうに向き直れば、この覆いは取り去られる、主の霊のあるところには自由があるというのです。
 
 ここでいう自由というのは、われわれのもっている自由ではないのです。主イエスの聖霊を信じることによって与えられる自由であります。われわれのもっている自由はわれわれのわがままさでしかない場合が多いのです。自由といっても、自由になんでも自分のしたい放題のことをしたい、それが自由だとわれわれは思っている、それは結局は自分のわがままさです。

 しかしわれわれは自分のわがままさのままに生きている時というのは、いかにも自由に生きているようでいて、われわれは結局は自分の欲望の奴隷に捕らわれて、それに引きずりまわされてはなはだ不自由な生き方をしているのではないか。わがままな人を見れば、決して自由に生きているとは思えないのです、いつも自分の欲望を満たそうとして、しかしその欲望を満たし得ない欲求不満にとらわれて、いつもいらいらしているのではないでしょうか。

 しかし、それではそうした自分のわがままさを抑制するために、律法主義的に生きようとしますと、今度はこうしなければならない、ああしなければならないという律法にしばられて、覆いがかけられているような不自由な生活になるのでなはいか。

 しかし主の霊によって生きると言うことは、ただ自分の力だけを信じて、自分努力だけを信じて、自分の欲望を満たすことだけを目指して生きるのではなく、そうしたことを超えて、上から与えられるものによって生かされて生きるということですから、自分に対する執着から解放される、自分の力だけを信じる、自分の努力だけを信じる、そういうことから自由になる、自分の名声、自分の欲望から自由にさせられ、解放させられる、自分に対する執着から解放されたら、われわれはどんなに自由になるかわからないと思います。主の霊のあるところには自由があるというのは、主の霊によって生きる時に、われわれは自分に対する執着から解放される、そこから生じる自由によって生きるということであります。

 聖霊は大変慎み深い霊であります。決してわれわれの前面に立つような働きはしないのです。いわば縁の下の力もちのような姿勢でわれわれを助けてくれる霊であります。たとえば、われわれが祈れないときに、聖霊は弱いわれわれを助けてくれるというのです。「わたしたちはどう祈るべきが知りませんが、霊みずからが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」というのです。執り成してくださる、というのですから、あくまで、われわれを前面に立てて、とりなしてくださるということであります。そして霊自らは、その弱いわれわれを助けるために、うめくようにして、われわれが祈れるようになるまで、じっと我慢して我慢して、決して自分は前に立つことをせず、あくまでわれわれを立ててくださって、われわれが祈れるまで待ってくださるというのです。人をとりなすということは、そういうことであります。執り成す人が前面に出てしまっては、決して執り成しにはならないのです。

 パウロは、若い弟子のテモテに、「わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃え立たせなさい。というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みの霊なのである」といっております。新共同訳聖書では、「おくびょうな霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊」と訳されておりますが、聖霊はわれわれを臆病にしない、力と愛と、慎み、思慮分別を与えてくれる霊だというのです。

 聖霊はあくまで、われわれを生かすために働くのであります。われわれが生かされるということは、われわれがわれわれらしく生きることができるようになるということだと思います。聖霊を与えられて生きるということは、聖霊をあたえられたとたんに、自分が今までの自分と別人のようになって生きるということではないのです。そんなことでは、長続きはする筈はないのです。人間にはそれぞれの個性があります。それは一朝一夕でできたものではなく、生まれた時に既に親から引き継いだものでしょうし、その生まれた時の環境の中で形成された個性であります。それをいきなり、変身することはできないし、変身させられたら、たまったものではないと思います。そんなことは長続きすることではないのです。われわれが生かされるということは、われわれの個性が生かされるということなのです。その個性とは、良い個性とばかりとはいえない個性であります。きちんとしないといられない個性もあれば、きちんとしたらどうしても生きていけない人もおります、だらしのない個性もあります。きれいずきな人もいれば、どうしてもきれいにできない個性もある。きれいにしては息がつまってしま う人もいるのです。

聖霊はそれぞれの個性を生かすようにして働くのだというのです。
パウロはこういっております。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは、同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には同じ霊によって、知恵の言葉が与えられ、ある人にはその同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、」と言って、「これらのすべてのことは、同じ霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださる」というのです。

 ここでは、特に「同じ霊、唯一の霊」といって、霊は一つだということ強調しておりますが、それは教会にきている人がみなそれぞれ違う者がいて、お互いに優劣を競いあって、分裂している現状をふまえて、パウロがいっているからであります。それは逆にいいますと、教会の交わりは、それほどにみな個性的な人の集まりなのだということであります。

 ここでは面白いことに、「同じ霊によって知恵の言葉、同じ霊によって信仰」といっていて、ここでいわれている「信仰」とは何かと考えてしまいますが、これは教会には、いかにも信仰深い人、信仰深そうに見える人もいれば、一見そうはみえないで、議論ばかりする人もいる、知的にものごとを考える人もいる、しかしそれはそれぞれの個性なのであって、聖霊はそれを生かしてくださるのだからケンカしてはいけないということだろうと思います。
 このことでは、この次の説教のところで、「聖徒の交わり」というところで更に学んでいきたいと思います。

 聖霊はそのようにして、聖霊自身が出しゃっぱって前面にでることはなく、あくまで、ひかえめで、慎み深く、われわれの個性を生かし、われわれを下から、内側から働きかけ、生かしてくださるのだというのであります。
 パウロはこういいます。「キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」といいます。そしてその霊に導かれてわれわれが生きる時に、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのである。その霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と祈れるようになるというのであります。

父なる神に、子供が父に対するように全面的に信頼して、「アッバ、父よ」と祈れるようにになれたら、すべての恐れから解放されるのであります。