「聖なる公同の教会・聖徒の交わり」使徒信条十六 コリント第一十二章

 わたしの高校時代からの友人で、敬愛する牧師と話をしていて、あることに気づいたことがあります。それはわたしがキリストの福音がわかり、救われたと思った時は、神とわたしの直接の交わりによって救われたという思いをもっていた。そして救われたあと、この救いを確保するために、より一層この救いを深くするために、どこかいい教会はないかと、教会を探しだすというような感じだったのです。

しかしその友人の話を聞いていると、救われるということは、自分が教会の中にいる、教会の中にいれられるということが救いなのだという思いをもっているのだなということを知らされたのです。自分が救われてから、教会を探すのではなく、一つの教会に入れられる、教会員になる、それが洗礼を受けるということなのだということなのです。彼は牧師の息子なので、また彼が神学校時代出席していた教会がことさら、教会ということを重んじるという教会であったということもあったかもしれません。

 この違いというのは、大変大きいと思います。救われたあと、教会を探し出すというのではなく、救われるということは、教会に属するということと切り離せないという信仰をもつということは、教会に対する考えかたがずいぶん違うように思います。

 わたしは、しかし実際にはもうひとつの教会に所属していて、その牧師の説教と指導をうけているんです。たとえば、わたしがどこの教会にも行ったことがなくて、ただ自分ひとりで聖書を読んで救いがわかり、救われて、それからどこかの教会を探し出すというのではないのです。既にひとつの教会に属しているのです。それなのに、どこか良い教会はないかと探し出す、そして現に所属している教会を自分の教会にするという思いなのです。

つまり、自分が自分に合った教会を探しだすか、教会のほうが主体で、教会が自分を招いてくれて、救いの中に入れられると考えるかということの違いです。もし教会というものを自分に合った教会を探すということであるならば、自分の気に入らない教会ならば、さっさと変えていくということになって、教会というものをひとつも信じていないということになります。教会というのは、ただひとつの便利な組織体であるということなります。それならば、使徒信条が告白するような「われは聖なる公同の教会を信ずる」という告白、これは簡単にいえば、「われは教会を信ず」という告白ですけれど、教会を信じるという告白にはならないし、そういう告白はできないと思います。

 わたし自身は、自分の育てられた教会が開拓教会という教会ということもあって、その牧師が、教会、教会と、ことさら教会を強調する教会主義というか、そうしたことに反発を感じて、自分が信じる教会を開拓していこうという思いがあって建てた教会、あまり教会の伝統ということを強調しない教会で育てられたということもありまして、わたしは教会というものの大事さというものがどうも身についていないという感じを、いろんな牧師との話しあいを通しても感じるのであります。
 
 しかし自分が牧師になって始めて教会というものの大事さというものが身に沁みて感じているのです。たとえば、この暑いのによく日曜日に礼拝にみなさんが足を運んでくる、これはただ牧師の説教を聞きにくるわけではない、もし牧師の説教を聞きにくるだけならば、こんなに長続きする筈はないのです。やはり教会というもの、その中で行われております、礼拝というものを重んじる、礼拝に参加しないと救われない、牧師の説教なんかはその中のごく一部に過ぎないのだということが身に沁みて分かっているのです。

 わたしが聖書を読んでいて、ある時、福音がわかり、救いがわかるということ、それは確かに見た目には、神と自分との直接の接触のようにみえますけれど、実際は聖書というものを介している、そしてその聖書は長い長い教会の伝統の中で形成され、重んじられて来たものであります。そしてわたしは自分ひとりで聖書を読んでいたわけではないのです、その牧師の説教の中で聖書の言葉に触れていて、聖書の言葉がわたしをうったのです。その牧師の背後にはやはり長い長い教会という伝統というものがあるのです。ですから、わたしが救われた背後には、教会というものがあるんです。それにわたしは気がついていないだけなのです。 

 このことでも、竹森満佐一の使徒信条の解説を紹介しておくのが一番いいと思います。「信仰生活において、とかく曖昧にされがちなのは、教会である。無教会という集団があるように、地上の教会は、ただ信仰生活に便利だからあるので、実際はなくてもさしつかえないもののような気がしている。しかし、教会がキリストの体であると言われているのは、ただ、信仰生活の仕方として便利であるというだけでもなければ、キリスト者の団結の固さをあらわすのでもない。それは、キリストを信じるのは、キリストの体の肢になることで、それが信仰の重要な内容になっているということなのだ。教会生活のない信仰生活は考えられないのである。だから、教会は信仰の内容として、大事なものとなり、したがって、教会を信じるというとを告白することになるのである」といっているのであります。
 教会を信じるという告白は、教会が自分の信仰生活に便利だから、それを重んじるというのではないということなのです。教会というものがなければ、自分は救われなかったし、救いを保持していくこもできないということなのです。

 もし教会という組織が自分にとって、便利がどうかということであるならば、自分にとって便利でなくなれば、たとえば、その教会に新しく来た牧師の説教がつまらない、その人柄がどうも自分の肌に合わないといことになったら、さっさと別の教会に変えるということも許されることかもしれません。それでは自分にとって便利かどうか、都合がいいかどうかが、その教会につながるがどうかになってくる、そうしたら最終的には、教会なんかあってもなくてもいいことになるかもしれないのです。
 
 もちろんだからといって、教会を変えてはいけないというのではないのです。私自身、自分が洗礼を受けた教会から離れて、別の教会にいって、つまり、自分が尊敬する牧師のところにいって、いるのですから、教会を絶対に変えてはいけないなどとは到底、いえないのです。第一、主イエスも、聖書も、偽教師に気をつけなさいと繰り返しいっておりますから、この地上の教会には、いくらでも偽牧師というものはおりますから、教会を変えてはいけないなどとは言えない、誰が偽牧師かどうかを判別することは大変難しいことですけれど、信徒が牧師を見分けることは許されるし、またそうしなければならないと思います。

 またそうでなくても、どんなにその牧師が本物の牧師であったとしても、どうしても自分の今までの信仰生活と合わないということもあるのは確かなのです。信仰のあり方に個性があるように、信仰生活の仕方にも個性がある、従ってどうしても自分にとって肌に合わない牧師というのは、いるわけですから、教会を変えるということは、決してマイナスばかりではないと思います。やむを得ないということもあるし、むしろそのほうがいいということはあると思います。

 あるいは、住まいが転居して、今までの教会に通えなくなる、だから近くの教会に転会するということも許されることであります。

 真摯に神を探して求めて、書物を読み、思索し、祈り続けて、真実の神にお会いしようといいう求道心は大事なことだと思います。しかし、そのようにしてどんなに真摯に真剣に神を求めていっても、実は本当の神には出会えないのではないか。むしろ、神にお会いするというのは、そうした自分の真摯な真面目な神追求という努力を放棄した時に、神のほうからそういうわたしに出会ってくださる。自分が神を捕らえるのではなく、神のほうでわたしを選び、わたしを捕らえてくださる、そういう経験をする、その時に本当の神にお会いできたということになると思います。そうでなければ、そこで捕らえたと思った真実の神は、ただ自分の理想でつくりあげた観念の神に過ぎないということになるのではないかと思います。

それと同じように、真実の教会はどこにあるかと、教会を探し続け、いろんな教会にいってみる、それ自体は真摯なものだし、決して間違ったことではないと思います。しかしそのうち、疲れてしまって、どの教会にいっても同じだ、どの教会の牧師の説教も結局は同じだと思うようになって、もうめんどくさいからこの教会にいつこうと思うようになって、その教会に落ち着くようになる、実はそれが真実の教会に出会ったということではないか。

 ある教会が信徒がふえていく、牧師仲間でそれが話題になって、口の悪い牧師どうしで、あんな牧師の説教でどうしてあの教会は成長していくのだろうかと話題になったというのです。そしてその結論は、あの牧師は説教は少しも鋭くはないし、深くもないけれど、ともかくあの牧師は聖書の話しをしている、だからあの教会は成長しているのでなはいかということになったということなのです。

 そこで大事なのは、「聖なる公同の教会を信じる」ということであります。教会は公同の教会ということです。「公同の」というのは、「同じひとつの」ということであります。それは同じキリストを頭とする教会ということであります。ですから、どこの教会にいっても同じキリストを信じ、同じキリストが宣べ伝えられていれば、どこの教会にいってもいいということであります。

 その点で、この使徒信条を告白しているかどうかが問題になってくるのです。カトリック教会もこの使徒信条を告白します。ギリシャ正教も聖公会も告白します。その点で、これは聖なる公同の教会の中にいれることができるわけです。しかし同じキリスト教といいましても、モルモン教やものみの塔、統一教会はこの使徒信条を告白しませんから、到底聖なる公同の教会とはいえないのであります。
 
 われわれはプロテスタントとカトリックとを比較研究して、プロテスタントのほうが正しい、自分の性格にあっていると思って、プロテスタント教会を選んではいないと思います。それこそ、たまたまではないかと思います。あるいは親がそうだったからということかも知れません。そのように自分が選んだのではない、その点が返って、自分がプロテスタントの教会にいるということの大事さがあるのではないかと思います。

 そしてそのようにして入れられた教会は、聖なる教会といえるか。一体聖なるとはどういうことなのか。聖徒の交わりを信じるというのはどういうことなのだろうか。いったい聖徒とは何かということであります。聖なるというのは、聖なるかた、聖なる神、聖なるキリストを頭としているということ、その点でひとつになっているということなのです。教会に来ている人がみな同じ思想、信条、同じ信仰生活の仕方をもっているわけではないのです。しかしそのみな違う生活環境のなかで生きている人が、教会において一つの神、一つのキリスト、一つの御霊、を信じている、それが聖なる公同の教会を信じるということであります。

 パウロが手紙を書いたコリントの教会は、それこそこの世的なものを一杯抱えた教会であります。そこでは、この世でもみられない性の混乱があった、不品行が行われていた。あるいは、この世の政治団体と同じように、指導者どうしの権力争いがあり、わたしはアポロにつく、いやわたしはパウロに、いやわたしはキリストにつくという権力争い、分派活動がある教会だったようであります。そのためにパウロは、身体にはいろいろな肢体があるではないか。頭もあれば心臓もある、耳もあれば、目もある。しかしお前は耳ではないから、もういらないとは言えない。身体の中ではほかよりも弱く見える部分がかえって必要なのだというのです。神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、身体を組み立てられましたといいます。

 しかし考えでみれば、身体だけのことを考えたら、そんなことはないのです。身体はやはり大事な頭脳とか心臓はしっかりした骨格で守られております。身体自体のことをいえば、心臓と頭脳は一番大事なのです。それはもうはっきりとしているです。小指一本なくたって、人間は生きていけますが、心臓がなければ、脳がなければ生きていけないのです。ですから、パウロはもうここでは身体の比喩から離れて、教会の交わりの話に入っているのです。

 身体のことでは、役に立つものと役に立たないものの違いというのは、はっきりとしているのです。そして役に立つものは重んじられる、尊いという価値基準ははっきりしている。しかし教会の交わりはそうではないということなのであります。教会の交わりの中に、そうした役に立つ人か立たない人かで、価値判断をしてはいけないというのです。教会の交わりは、同じキリストに属していると言う点で、どんな教会員も同じ価値を持つというのです。役に立つという価値基準を離れて、同じキリストに属しているかどうかだけが問題だとパウロはいっているのです。
 あなたがたはキリストの身体であり、また、一人一人はその部分であるというのです。

 教会の機能としての部分では、確かに役に立つ人とそうでもない人というのは、いるかも知れない。それはそういう点では確かに違いはあるのです。しかしそれはあくまで機能面であって、教会の交わりのなかでその役に立つたたないという価値基準をもちこんではならないのです。それは特に自分は役に立たないのではないかと思っている人が、その価値判断を教会に持ち込んでしまう場合が多いので気をつけなくてはならないと思います。

 人間に個性があるように、信仰のあらわしたか、その生活の仕方にも個性があります。しかし同じキリストを信じているのですから、その違う個性を排除し、裁き、批判してはならないというのであります。
 
 教会の交わりというのは、やはりこの世の交わりとおなじものが持ち込まれます。だから、ある牧師はもういっそのことそうした交わりを断つために、壮年部も婦人部も廃止しようとした牧師もおります。教会は礼拝だけ、礼拝が終わったら、さっとみな帰る、それが正しい教会生活だというのです。主張として正しいように思えますが、しかしそんなことで本当に教会生活とか信仰生活というものの交わりということが起こるのだろうかと思うのです。やはり、教会の交わりというのは、この世の交わりと同じようにして、いろん世俗的な争いというものを避けることはできない。しかしそうした中でいつも帰っていく原点を持っている。それは、われわれはみなキリストの十字架による罪の赦しの福音を信じているということであります。その事を信じて、あらゆる争いを乗り越えていくのであります。

 ある牧師が、ある人からこういう質問を受けた。教会の中でどうしても赦せない人がいる。どうしたらいいか。そうしたら、その牧師はこう答えた。どうしても教会の中で赦せない人がいても、その人と共に礼拝はできるだろう、その人と共に同じ神、同じキリスト、同じ御霊を信じる礼拝はできる、その礼拝の中ではその人を赦せるだろう。そして礼拝を終えたら、前と同じようにその人を赦せないで、口をきかないで帰ることになるかもしれない。しかし礼拝においてだけは赦せる、それが教会の交わりというものだと答えたというのです。

主イエスも、あなたがたは「立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがの過ちを赦しくださるであろう。」と言っているのであります。せめて、祈る時、祈るときだけでもいいから、赦してあげなさいというのであります。そうしたら父なる神もわれわれの罪を赦しくださるというのであります。

 神はなぜ教会をお造りなり、われわれをその中に入れることによって救われるのでしょうか。それはわれわれがひとりよがりな人間にならないためであります。救われた人間がひとりよがりなっていては、他の人の罪を赦せず、他の人との交わりを具体的にできないならば、それは一つも救われたことにはならないからであります。
 「われは聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信じる」と心から告白したいと思います。