「罪の赦しを信ず」使徒信条十七 ヨハネによる福音書八章一ー一一節

 使徒信条は「われは聖霊を信ず」という項目に入って、われわれの信仰生活のことに関する告白に入ります。そこでまず第一に「教会を信ずる」ということを告白いたしました。信仰生活というのは、教会生活であるという告白であります。それに続いて、「罪の赦しを信ず、身体のよみがえりを信ず、永遠の命を信ず」という告白が続きます。

 信仰生活の問題で、まずなによりもわたしの罪は赦されているということを信ずることが一番大切なのだということであります。ここでは、神の愛を受けて、神を愛しますとか、隣人を愛しますと誓いますとか、そのように愛せるようになることを信じますとか告白されないで、ただひとつ「罪の赦しを信ず」ということだけが告白されているのであります。それはわれわれが神を愛するにせよ、隣人を愛するにせよ、その土台はわたしの罪は赦された、赦されているということを信ずることなのだということであります。すべてはそこから始まるのだということであります。

 わたしの罪は赦された、赦されている、だから神を愛するということは、なによりもその罪赦されたことに対する心からの感謝するということが、神を愛するということなになるのであります。自分の罪が赦された、だからわれわれは人の罪も赦せるようになるのであります。そして人の罪を赦せるようになるということがなによりも、隣人を愛するということなのであります。人の罪を赦す、人のあやまちを赦せるようになるということが、その人を愛するということなのであります。

 それならば、罪赦されるということはどういうことなのかということであります。われわれは第一、本当に罪赦されることを心から願っているだろうかということであります。もしかすると、われわれが切実に願っていることは、ただ、罰が免除されることを願っているのではないか。われわれが願っていることは、罰の免除、罰せられないことであって、本当は罪の赦しではないのではないかということなのであります。

 ところが、使徒信条で告白しているのは、われは罰が免除されたことを信じますという告白ではなく、われは罪の赦しを信じますという告白なのであります。
 
 われわれは罪が赦されるということは、罰が免除されることだと単純に思っていないでしょうか。
 
 旧約聖書にダビデが罪を犯した話しが出てまいります。ダビデは気位の高い奥さんを妻としたたために、ある時から、夫婦仲がうまくいかなくなりました。その心のむなしさのためか、ある時自分の部下の奥さんに心奪われて、その奥さんを部下から奪ってしまうのであります。妊娠したことを知ると、ダビデは非常に卑劣な手段でその夫である部下を戦争の一番激しい先頭に立たせて、敵の手によって戦死させてしまう。いわば敵の手を借りて殺してしまうのであります。そして知らん顔して、その部下の奥さんを自分の妻にしてしまうのであります。こんなことは当時の王としてはごく当たり前のことであったかもしれません。しかし神はそれを赦さなかった。それで神は預言者を遣わして、ダビデを糾弾するのです。ダビデもその自分の罪に気づき、「わたしは主に罪を犯した」と、神の前に悔います。それに対して神もただちに「あなたの罪を取り除かれる」というのであります。あなたの罪は赦されるということであります。しかしそのあと、預言者はこういいます。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰は免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、 生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」といわれるのでりあます。
 
 ここでは神はダビデの罪を赦すといわれるのです。しかし、犯した罪に対する罰が免除されるわけではなく、そのことによって生まれた子は死ぬといわれるのです。確かに、なるほど、ダビデは死の罰は免れるのです、しかし全く罰はないかといえば、その子は死ぬというのです。そういう罰は免除されないというのです。

 これは大変不思議なことだと思います。われわれは罪が赦されるということは、罰が免除されることだと思っているのではないかと思います。しかしここでは罪が赦されるというこは、罰が免除されることではないと平気が語られているのであります。

 しかしこれは考えてみれば、われわれもまた自分の罪の重大性に気づいた瞬間は、どんなに私を罰してもいいですから、私の犯した罪を赦してくださいという気持ちになる時というのはあるのではないかと思うのです。わたしを幾重にも罰してください、そうしてわたしの罪を赦してくださいという気持ちなることはあるのではないか。自分の罪の重大性に気づいた時はです。しかし人間というのは、悲しいもので、それはあくまで一瞬のことで、すぐ次ぎには、なんとかして罰だけは逃れようと思いだすのであります。罪赦されるということは、罰が免除されることで、罰が免除されない罪の赦しなんかないと思いだすのであります。
 
 ダビデはどうだったか。ダビデも確かに自分の子供が病気になると必死に神に祈ります。断食してまで神に自分の子供の病気がいやされることを求めます。しかしその祈りもむなしく子供は死んでしまいます。そのとき、ダビデはただちに断食をやめて、食事をしたというのです。これにはダビデの家来はあきれました。いや怒りました。子供が病気の時には断食してまで、その回復を願ったのに、子供が死んでしまうと断食を中止して食事をするとは何事かと怒ったのであります。しかしダビデはただ断食を中止したのではないのです。子供が死んでしまったことを知らされると、ダビデは地から立ち上がり、身を洗って香油を塗り、衣を換え、主の家に、つまり神殿にいって礼拝したというのです。ここでダビデは神の罰を受け入れたのであります。それでもう断食をするのをやめたのであります。このところの竹森満佐一の説教は見事であります。
 「子供がよくなるかどうかは神様のなさることだ。われわれは手をつくすにしても、どうなるものでもない。神のなさることだと思うからこそ、神に祈ったのだ。しかし、もしそうなら、その神を信頼する以外には、何の方法もない。神に祈りながら、神を信用しないとしたら、これくらい妙な話はない。自分の気に入るような結果が出た時だけは、神を信用し、思うようにならなければ、恨み語をいうのであれば、神を信じている、神を信用している、神に信頼しているとは、絶対に言えない。ダビデは神を信頼していた。だらか子供が死んだら、もう全部終わったと思った。自分はまた神を信じて、もとの生活に帰りさえすればいいと思った。一切を神に任せるというのは、こういうことだ。ここには悲しみはあった。しかし、不平はない。悔いもない。神のなさることに、すべてをお任せするだけだった」といっているのです。

 ダビデは罪が赦されるということと、自分の子供が自分の身代わりに罰を受けて死んでいくことだということを最後には矛盾に感じないで、それを受け入れることができたというのです。ここには「悲しみはあった、しかし不平はなかった」ということであります。

 それにしても、罪を犯した者に対する、神の罰の与え方は不思議であります。神はしばしば罪を犯した本人を罰しないで、罪を犯した本人に何か刑罰というようなこらしめをしないで、罪を犯した者が一番愛している者を痛めつけるという罰の与え方をしているということであります。ダビデが一番愛している子が病気になるのであります。それがダビデが受けた罰でありました。しかもそれは「主があなたの罪を除かれる」、つまり神は罪の赦しを宣言した後に与えられる罰であります。

 こうした罰は、ダビデの場合に彼の晩年にも同じように与えられます。彼が王としての自分の権力を誇るという罪を犯した時に、神が与えた罰はダビデの愛している彼の民が疫病にかかるというものでした。その時にはさすがにダビデは神に文句をいい、「罪を犯したのはわたしです。わたしが悪かったのです。この羊の群、つまり民のことですが、この羊の群れが何をしたのでしょう。どうか御手がわたしとわたしの父の家に降りますように」といったのであります。

 神はご自分の愛する者が罪を犯した時に、そしてその罪を赦される時に与える罰は、しばしば罪を犯した本人を直接苦しめるという罰を与えないで、罪を犯した本人が一番愛ししてる者に罰を与えるのであります。そのことによって、神は何を語ろうとしているのか。それは罪を犯すということがどんなに重大なことかということ、罪というものがどんなに重大なことか、それは自分の愛している者を苦しめることになるということなのであります。

 ですから、神が与える罰といものは、閻魔大王や悪魔が与える罰とは違って、罪というものがどんなに重大なものか、罪というものがどんなに愛する者を傷つけるものか、神を傷つけ、人を傷つけるものかということを知らしめるための罰だということであります。閻魔大王や悪魔が与える罰ならば、それはただ罪を犯した者を地獄に落とすとか、苦しめ痛めつけるだけのものです。しかし神が与える罰は、罪のなんたるかを教え、罪から立ち直らせるための罰であります。
 
 ところが、罪を犯すわれわれ人間は大変邪な人間ですから、その神の本意を理解できずに、ただ自分が罰せられることがこわくて仕方ないのです。だからなんとか罰を逃れることばかり、それしか考えようとしない。そのために自分が罪を犯した相手の傷の深さを思いやることがてぎない。ただ自分の受けなくてはならない罰だけで頭が一杯で、ますます自己中心的になっていくのであります。

われわれは罰がこわいのです。そのために罪のなんたるかがわからなくなってしまうのです。人を車で轢いておいて、われわれがまず思うことは、轢いた人のこと、その家族のことを思うのではなく、ああ、これで自分の人生は終わりだと思ってしまう、そのためにその現場を逃げ出してしまうのであります。
 罰が恐い、そのために自分の犯した罪そのもを見つめられなくなってしまうのであります。
 
 ダビデは神に対する深い信仰がありましたから、自分の愛する子供がとうとう死んでしまったときに、その罰を受け入れることができました。子供の死については、悲しみはありました、しかし不平はなかったのであります。
 しかしわれわれにはそれができないのです。

 そのために、神はわれわれに下すべき罰を、罪に対する呪いとしての罰を、罪を犯したわれわれ人間に与えることをしないで、神が一番愛しているひとり子イエス・キリストを罰することによって、われわれから罰を免除し、そして罪を赦してくださつたのであります。それがイエス・キリストの十字架の償いの死であります。これはダビデが自分の子を愛していたように、そのためにその子が病気になった時には、必死に祈りましたように、もしわれわれがイエス・キリストを愛していないならば、何の意味もない罰になり、従ってこれによって罪が赦されるなんてことは信じられないものになります。

 しかしわれわれはイエス・キリストを愛している、父なる神がこのイエスをどんなに愛しているかよく知っております。その父なる神が一番愛しているイエスをわれわれの身代わりに罰してくださって、われわれの罪を赦してくださったことを知り、われわれは自分の犯した罪の重大性を知らされるのであります。
 そしてまた同時に神がどんなにわれわれ人間を愛しているかを知るのでりあます。
 
 罪を犯した人間から罰の恐怖をまず取り除いてあげることが必要なのであります。

 姦淫の現場で捕らえられた女は今恐怖で身が縮む思いがしていたと思います。みんなから糾弾され、石で打ち殺されそうになっている。こうした女は石で打ち殺しましょうとイエスに迫っている。イエスは黙っていました。それでしつこく更にいわれた時、イエスは「お前たちの中で罪のない者がこの女に石をなげつけるがよい」と言われた。するとそれを聞いて、ひとり去り二人去り、みんないなくなった。その時になって始めてイエスは女を見つめられた。そしてこういうのであります。「お前を罰する者はいないのか」と言われ、女が「主よ、だれもいなません」と答えると、イエスは「わたしもあなたを罰しない」と言われたのであります。新共同訳聖書では「わたしもあなたを罪に定めない」と訳されてりおますが、ここは「罰しない」の方が意味がはっきりします。

 罰の恐怖におののいている女にイエスは何よりもその罰の恐怖を取り除いてあげたのであります。それがこの時の、この女に対する「罪の赦し」だったのであります。ですから、ここでイエスが「わたしもあなたを罰しない」といわれたのは、その内容は「わたしはあなたの罪を赦す」ということであります。

 だから、イエスはそのあと「お帰りなさい、今後はもう罪を犯さないように」と言われたのであります。ここも新共同訳聖書は「行きなさい、もう罪を犯してはならない」と訳しておりますが、訳としては間違いはないのでしょうが、しかしこの状況から訳せば、口語訳の訳のほうがずっとイエスのこの時の気持ちを表していると思います。といいますのは、新共同訳聖書の訳し方では、「今度罪を犯したら今度は罰するぞ」というような意味に受け取られてしまうかもしれないからです。しかしここは、そういう意味でイエスが言われた言葉ではありません。

 「これからは、自分の弱さと戦って、罪を犯さないように」という励ましの言葉であります。そうでなければ、「私もあなたを罪に定めない、罰しない」というイエスの言葉は生きてこないと思います。
 女はこのイエスの言葉、「今後は罪を犯さないように」というイエスの言葉を聞いてどう思ったでしょうか。この言葉を聞いて、女はああ、自分はイエスから見捨てられていないと思ったのではないでしょうか。自分を見捨てないかたがここにはおられると信じたのではないでしょうか。

 なぜなら、もし愛のないかたならば、罰は免除してあげる、だからもう二度とわたしの前に顔を出すなというだろうと思うのです。罰を免ずる人はいくらでもいるかもしれません。しかし罰を免除し、その上でこれからの自分の生き方を心配してくれる人はそうはいないと思います。よほど自分に愛情をかけてくれる人でないとこういう言葉はでてこないと思います。

 女は、「今後はもう罪を犯さないように」というイエスの言葉を聞いて、はっきりと「自分は罪赦された」と信じることができたのてばいなかと思います。

 パウロはこういっています。「誰が神に選ばれた者たちを訴えるのか。人を義としてくださるのは神なのです。誰が私達を罪に定めるのか。死んだかた、否、復活させられた方であるイエス・キリストが、神の右に座っていて、わたしたちのためにとりなしてくださる。誰が、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができるか」というのです。そしてパウロは最後に「どんなものも、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」というのであります。

 罪も、イエス・キリストにおける神の愛から引き離すことはできないというのです。罪の赦しとは、神はわれわれを見捨てない、どんな罪を犯したわれわれであっても、決して見放すことはしないということであります。イエス・キリストがわれわれのためにとりなしてくださるということであります。

 罪の赦しとは、神はわれわれを見捨てることも見放すこともしないということであります。