罪の赦しを信ず その二」 マタイによる福音書一八章二一ー三五節

 竹森満佐一の使徒信条の説明のなかでわたしたが一番教えられたところは、罪についてのところでした。こういうところです。「罪を犯したら、神に対して、人に対しても責任ができる。だから罪を犯した者は、悔い改めて、よい生活をしようとしてみても、なんにもならない。なぜなら、自分がしたことに対してつぐないをしていないからだ。つぐないは訂正ではない。やりなおしではない。文字通り、つぐないである。そのことになると人間にはどうにもできない、自分が他の人に与えた目に見える、あるいは目に見えない損害をどうやってつぐなったらいいか。責任をつぐなうただひとつの道は、赦しもらうことである。」
  
 罪は赦して貰う以外にどうしようもないということであります。罪というのは、自分の汚れとか自分のいたらなさとか、ともかく自分の性格の不完全さとかそういうものではないのです。罪とは他人を傷つけるということであります。罪とは、何か道徳律のようなものがあって、それを完全に守れないというようなことではないのです。聖書には確かに律法というものがあります。しかしその律法は、みな他人との関係について書かれているものであります。

 たとえば、十戒を考えてみましても、十戒の前半は神との関係について書かれております。ただひとりの神を拝しなさいということです、そのために他の神々を拝んではならないとか、神の名をみだりにとなえて神を自分の利益のために利用してはならないとか、とかいわれてりおます。神との関係の問題であります。
 また後半では、人を殺してはならない、盗んではならない、姦淫してはならない、偽証してはならない、他人のものをむさぼってはならない、というように、すべては他の人との関係を損なうこと、傷つけることが罪とされております。

 先日も、インターネットで知らない人からメールが入っていて、自分は教会に通っていて、洗礼も受けているけれど、自分はどうしても信仰のことがよくわからない、自分は罪人だ、いまだに金銭欲がある、性欲が強い、だから自分は罪人だ、どうしたらいいか、なにか指示を与えて欲しいというメールが入っておりました。

 しかし罪を犯すということは、自分には金銭欲が強いということが罪を犯すということではないのです、金銭欲が強いので、人のものを盗んでしまうとか、そうした時に罪人だというのです。
 
 聖書でいう罪というのは、自分ひとりの心の清さの問題ということではなく、はなはだ具体的なもの、神を傷つけ、人を傷つけることであります。もちろん人を傷つけるといいましても、人のものを盗むということだけではなく、人の心を傷つけるということも含んでおります。「ことも」、といいましたが、結局は人の心を傷つけることが罪であります。神が愛している人をないがしろにする、それが罪であります。神の尊厳を傷つける、それが聖書でいう罪であります。

 主イエスは確かに、「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」と言ってるところがあります。そこだけをみると、罪というのは、われわれの心の問題、心の清さの問題ではないかといわれるかもしれませんが、しかし、主イエスは、それは「姦淫するな」ということを取り上げている中でそのことを言っているのであります。心の中で情欲をいだいて女を見るということは、それをほっておいたら、実際に姦淫を犯してしまうから、気をつけなさいということであります。

 罪は他者に対する罪であります。ですから、罪を犯した者は、責任が生じます。償いが必要になります。しかし、ひとたび犯した罪に対してどうやって償うことができるのでしょうか。たとえば、人を車で轢いてしまったという時、どうやってつぐなうことができるか。子供が殺され親にとっては、どんな賠償金を払ってもらったって、つぐなわれたことになはらないでしょう。もうただ赦してくださいと平謝りにあやまるしかないのであります。その人が悔い改めて良い生活をしても、それは決して罪のつぐないをしたことにはならないのです。どんなに刑務所に入って、やがてそこを出て、それから良い立派な生活をしても決してつぐないをしたことにはならないのです。

 罪はつぐなうことができると思っているうちは、われわれはまだ罪のなんたるかを知っていないのです。

わたしが四国にいた時に、教会員の妹が、近くの青年に、乱暴されて殺されてしまうという事件がありました。山の中にある家の近く起こった出来事です。その通夜の席にその娘さんを殺した親が謝りに来たそうです。私自身はちょうどその夜は祈祷会があって、出席できなかったのですが、教会の青年部の人がなんにかが出席していて、そのことを後で聞いたのですが、その殺した青年の親は、その通夜の席で土下座してあやまったそうです。「ゆるしてください」と絶叫したそうです。そうしたら、その殺された娘の姉、その人が教会員なのですが、その姉がその親に向かって「妹を返してくれ」と叫んだそうです。そうしたら、その殺された娘の母親は、「そんなことをいうものではありません」といって、自分の娘を厳しく叱ったということであります。
 わたしはその状況を青年部の人から聞いて、罪というものは、一度犯されてしまうともうどうしようもないものなのだなとしみじみ思ったものです。

 罪を犯したほうから言ったら、もうただ「赦してください」と訴えることしかできない、しかし、罪を犯されたほうからいったら、「妹を返してくれ、なんとしてでもつぐなってくれ」と訴えざるを得ないということであります。そしてそれはできないことを知っている殺された娘の母親は、じっと忍耐する以外にないということであります。

 旧約の時代には、イスラエルでは、罪のつぐないの方法として、燔祭の犠牲を捧げることをいたしました。傷のない小羊をほふって、それを焼いて、その煙は天にのぼっていきますから、その煙は神のところにとどく、そのようにその動物をほふって、本当は罪を犯した自分が死ななくてはならないのだけれど、自分の身代わりとしてこの動物を捧げますといって、燔祭の犠牲を捧げたのです。
 その場合、大切なことは、ただ小羊をほふって、それを犠牲として捧げるのではなく、その時に、本当は自分が死ななくてはならない、しかしせめて自分の身代わりにこの小羊を捧げますといって捧げることが大切だったと思うのです。この「せめて」という気持ちを込めて燔祭の犠牲を捧げるということがこの儀式の一番の眼目だったと思います。

 しかしこうした祭儀というもの、儀式というものは、一番最初に行われた儀式はそこに心が込められていたでしょうが、それが儀式として設定されてしまうと、今度はその儀式さえしておけば、燔祭の犠牲さえ捧げておけば、自分の罪は赦されると思い始めてしまうという逆転が起こってしまうのです。

 そのために預言者達は、その形式化された祭儀を批判して、神が喜ばれるのは燔祭の犠牲の小羊ではない、神が求めておられるのは砕けた魂だ、悔いた心だというのです。つまり、この「せめて」この小羊をささげますという、真摯な心、砕けた魂、砕けたというのは、自分には到底つぐないなどはできないという打ちひしがれた魂であります、その打ちひしがれた砕けた魂を捧げる、それが神が喜ばれることだというのです。

 つまり、小羊でつぐないをするということは、それでつぐないを果たせたということではなく、われわれ人間には完全な罪のつぐないは到底できませんということの表現としてづくないをしているということなのです。

 一度犯された罪は、ただ赦して頂く以外にないのです。そのことを知ることが罪のなんたるかを知る、第一歩であります。

 マタイによる福音書の一八章に、ペテロがイエスに対して「主よ、兄弟が罪を犯した時に、幾たび赦さねばなりませんか、七度までですか」と尋ねたのです。ペテロとしたら、最大限の思いを込めてそういったと思います。それに対してイエスは「七度までとはいわない、七度を七十倍するまでに赦しなさい」というのです。そうしてこういうたとえ話をいたします。
 ある王が家来たちに貸したお金の決済をしようとした。そこに一万タラントの借金している者がいた。彼は返済できなかった。それで王は、自分も妻も、持ち物も全部売って返せと迫った。彼はひれ伏し、「どうぞお待ちください。必ず全部お返しますから」と言って、哀願した。それで王は哀れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてくれた。ところが、彼はその帰り道、自分がたった百デナリ貸している仲間に会い、彼をつかまえて借金を返せと迫った。その男は「どうか待ってくれ」と哀願した。しかし彼は承知せずに、借金を返すまでに獄に入れたというのです。そのことをもうひとりの仲間が見ていて、それを王に話した。それで王は怒って「お前が願ったからこそ、あの借金を全部赦してあげたのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、どうして仲間を憐れんで赦してあげることができなかったのか」と言って、彼が借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡してしまったというのです。

 そのように話したあと、イエスは「あなたがひとりひとりも心から兄弟を赦さないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して同じようになさるであろう」と話されたのであります。

 罪は確かに償わなくてならないものでりあます。ただ赦しもらう以外にないものだなどとたかをくくることなどゆるされることではないのです。このイエスのたとえでも、一万タラントの借金のある者に対して王は、ただ赦したのではなく、まず始めに、借金を返せ、と迫っているのです。お前とお前の妻を売ってまでして借金をかえして償えといわれているのです。しかし彼は到底返すことはできなかったのです。一万タラントという金額は百デナリが百万円だとすると、一万タラントという金額はその何百倍とも言われております。ですから到底返すことはできない額なのです。だから、もう赦して頂く以外にないのです。

 彼はその一万タラントを赦しもらった。その時、彼は本当に罪の赦しとしてそれを受け止めただろうか。そうでなかったことは、彼のその次ぎの行動が示しております。自分が百デナリ貸している者をゆるしてあげることができなかったからです。彼は自分が一万タラントの借金を帳消しにしてもらった時に、しめた、もうけものをしたと思っただけだったに違いないと思います。

 彼にとっては、罪の赦しなんかはどうでもよくて、ただ罰が免除されることだけを必死に願っていたのです。だから、一万タラントの借財が帳消しになった時には、これで罰が免れたと思っただけだったのです。

 彼が願っていたのは、罪の赦しなんかではなく、ただ自分の犯した罪に対する罰を何とか逃れたいと思っていただけでした。だから王の憐れみによって、その一万タラントという借財が帳消しにされた時に、彼は有頂天になって喜んだでしょうが、それは罪ゆるしていただいたという感謝の喜びではなく、ただ罰が免状された、もうけものをしたという思いだけだったのではないかと思います。

 だからすぐその足で、自分が百デナリ貸している者から借金を取り立てようとして、それができないと、自分は獄に入れられないで赦されてりおながら、その仲間を赦すことができなかったのであります。

 罪赦されるということは、先週の説教でふれましたが、確かに、罰が免除されるということを含んでおります。しかし、その罰が免除されるという背後には、その罰は主イエス・キリストが身代わりに、あの十字架の死の贖いによって、われわれが受けなくてはならない罰が免除されているという背景がある、その事実はいっときも忘れることはできないのです。そのイエス・キリストに対する感謝を忘れることはできないのです。

 それは罪にはつぐないが必要だということをどうしても忘れてならないことであります。そうして、同時にわれわれ人間には、その償いを完全に果たすなんてことはできないのだということも、よくよく承知しておかなくてならないことであります。罪は、罪を犯したわれわれはただ赦して頂く以外にないということを肝に銘じて知っておかなくてはならないのです。

 その時に、罪赦してくださった神に対する感謝と、自分は罪をつぐなうことはできないという砕けた魂をもつということであります。そこから、謙遜ということが生まれるのであります。ここには傲慢というものが入り込む余地はないのです。

 この神に対する感謝と、自分自身に対する砕けた魂をもって、人の罪を赦せるようになるのであります。人の罪を赦すということは、
決して自分の人格的な寛容さとか、愛の深さとか、そんなもので人の過ちを赦すのではないのです。自分が罪赦された者である、自分の罪はただ赦して頂く以外にどうしようもなかったという思いから、また人の罪を、人のあやまちをも最終的には赦していこうと決心していくのです。

 何も最初から赦せばいいということではないのです。主イエスのたとえ話にありますように、王は初めは、一万タラントの借財を自分自身と妻を売り、家財を売り払って返せと迫っているのです。ですから、なにも闇雲に人のあやまちを赦さなくてはならないというのではないのです。最終的には、最後的には、そういう決意をもって、人の罪を人のあやまちをゆるしていこうとすることであります。
 
 自分が一万タラントの負債をゆるされておりながら、人の罪をゆるすことができない者を神はどうしても赦すことができないと主イエスはいわれるのです。七度を七十倍にしてまで、つまりとことん赦しなさいといわれた主イエスが、最後に赦せない罪があると語るのであります。それは自分は罪赦されておりながら、人の罪をゆるせないという罪、それだけは主イエスも赦せないといわれるのです。それは逆にいいますと、自分が罪赦された者であることを忘れ、そのことに鈍感になり、そして傲慢になっていく者をどうしても主イエスは赦すことができないというのです。

 主イエスは、どんな罪も赦される、しかし聖霊を汚す罪は赦すことはできないといわれました。聖霊を汚す罪とは、神に罪ゆるされた者である、そのことを信じない、そのことを受け止めることのできない者、その罪だけは赦されないということではないかと思います。