「身体のよみがえりを信ず」 使徒信条一九 第一コリント一五章三五ー五八

 使徒信条は、「罪の赦しを信ず」のあとに、「身体のよみがえり、永遠の命を信ず」と告白します。
 使徒信条は、なぜ「身体のよみがえりを信ず」と告白するのでしょうか。つまり、なぜ、「身体のよみがり」なのか、なぜ、ただ「よみがえりを信ず」と告白しないのか、あるいは、「魂のよみがえり、霊のよみがえり」を信ずと告白しないで、「身体のよみがえり」と告白するのかということなのであります。

 われわれにとっては、「霊のよみがえり」とか、「魂のよみがえり」といわれたほうが、まだ信じやすいのではないか。あるいは、ただ「よみがえりを信ず」といわれたほうがわかりやすいのではないかということなのであります。
 なぜわざわざ「身体のよみがえり」を信ず、と告白するのかということなのであります。

 われわれは死んだら、灰になります。日本では、というよりは、東京ではというのかも知れませんが、死んだらみな火葬されます。灰になってしまいます。その灰を見て、われわれは「からだのよみがえりを信ず」と告白するのであります。 そのために、欧米のクリスチャンは、火葬というものをいやがるのだということを聞いたことがあります。あるいは、アメリカでは、お金のある人は死体を冷凍保存するのだと聞いたことがあります。

 しかしたとえ、土葬したって、その死体は必ず腐って、やがて土に帰るのをみな知っているのであります。ですから、火葬にしようが、土葬にしようが、人間の身体は死んだら、ちりに帰るのは同じことであります。旧約聖書で、アダムが罪を犯したために、土に帰るのだ、「塵にすぎないお前は塵に帰る」と言われているのであります。

 それなのに、使徒信条はどうして「からだのよみがえりを信ず」とわざわざ、「からだ」ということを強調して、そう告白するのでしょうか。使徒信条が「からだのよみがえりを信ず」と告白することによって、なにを告白しようとしているのでしょうか。
 もちろん、からだといっても、あの火葬にしてちりに帰った灰が、ある時立ち上がってからだとして復活することを信じるということではないと思います。

 さきほど読みました聖書の箇所では、そのことは初代教会ではやはり大問題だったようで、信仰者の間でも、よみがえりなどは到底信じられないといっていた人々がいたようで、その根拠のひとつに、あの土に帰った死体がどうしてよみがえるのか、もしよみがえるとしたら、いったいどうやってよみがえるのか、ということが、つまりそんなことは考えられないということが、復活信仰を否定するひとつの強力な論拠になったようであります。

 それに対して、パウロはなんといきなり、「愚かな人だ」と一喝しているのであります。
 そしてパウロは、こういうふうによみがえるのだと述べるのですが、ここはいくら読んでも、よくわからないところです。ただひとつわかることは、「自然の命のからだが蒔かれて、霊のからだが復活するのです。自然の命のからだがあるのですから、霊のからだもあるのです」といっているところです。

 つまり、ここで「からだのよみがえりを信ず」という時の「からだ」というのは、「霊のからだ」だということで、われわれが考えるようなこの地上に生きた自然のからだ、いわば肉体のようなよみがえりとは違うということで、「霊のからだ」といわれていることなのだということであります。ですから、われわれは安心して火葬にすることができるということであります。
 
 「霊のからだ」といわれましても、われわれは具体的にどのようにイメージしていいか、よくわからないかもしれません。実際これは肉のからだとは違うので、霊のからだだから、日本人が想像するように、幽霊のようなからだなのか、ということになります。そんなことをいったら、神学者は必死になって否定するでしょうが、主イエスのよみがえりの姿などについての描写などみますと、正直な話、日本人が考える幽霊とあまり違わないのではないかと思います。それこそシェクスピアにでてくる亡霊ともあまり違わないのではないか。

 たとえば、弟子達がこわがって戸をぴったりと閉めているところに復活の主イエスがそっと入ってくるとか、エマオの途上の弟子達の記事でも、それがイエスだとわかったとたんに、そのイエスの姿がみえなくなったと言う記事、そして現に弟子達は復活の主イエス・キリストを亡霊だと思ったと記してりおます。そして主イエスは「なぜうろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足をみなさい。まさしくわたしなのだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」といわれて、イエスは手と足を見せ、それだけでなく、何か食べ物はあるかといい、弟子達が差し出した焼いた魚を食べたというユーモラスな記事が載っております。  復活の主イエスは亡霊、つまり日本で言えば、幽霊と見間違うような霊のからだだったということであります。それを否定するためにわざわざ焼いた魚をムシャムシャ食べたというのです。
 
 それならば、なぜ、聖書は「霊のからだ」というのか。つまり「霊」だけでいいのに、わざわざ「霊のからだ」と、「からだ」という言葉を付け加えるのか。そして、それを受けて、使徒信条もなぜ「からだのよみがり」を信ずというのか、なぜ「霊のよみがえり」を信ずといわないかのかということであります。

 それはここで特別にわざわざ「からだ」という言葉を付け加えることによって、いいたいことがあるからであります。「からだのよみがえりを信ず」ということで、使徒信条が強調したいのは、使徒信条のあるテキストには、「このからだ」と「この」がついているそうで、つまり「この罪あるわたしのからだ」ということを強調したいのです。

カール・バルトという神学者は、このことでこういうのであります。「身体の復活と永遠の生命に関して語るべき決定的な事柄は、罪の赦しのうちに含まれている」というのです。「使徒信条のこの最後の部分は、別に新しいことを言っているのではなく、前に言われている事柄をもう一事きわめて新しく述べているのである」というのであります。

 つまり、「からだ」ということで使徒信条が言おうとしていることは、「この罪のからだ」ということなのであります。このわたしの罪のからだがよみがえるのだということなのです。だから、それは「罪の赦し」を別の言葉で言い換えたに過ぎないのだということであります。

 そしてその「罪のからだ」は一度死ななくてはならない。パウロは「愚かな人だ」と一喝したあと、「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではないか」というのです。この罪あるからだは一度完全に死ぬのだということであります。それは当時の流行していた考えに、霊魂不滅という考えに対して、対抗していることなのだそうです。霊魂不滅というのは、われわれが死んだ時には、肉体は汚れているから、それは死によって滅びる、しかし魂や霊はその肉体の虜になっていただけで、それ自体は清いものなのだ、だから死によっていまやその肉体から解放されて、その霊や魂は晴れやかに生き続けるのだという考えであります。
 
 それに対して、聖書はそういう考えを否定するのであります。人間はからだも罪であるならば、その魂だって、罪なのだ、第一、人間を肉体と魂とというように分けること自体がおかしいということであります。ですから、聖書は霊魂不滅という考えはとらないで、肉体が死ぬと同時に、その魂も霊も死ななければならないというのです。そうした上で神はその人間全体を示す魂も霊も肉体もよみがえらせるのだということであります。
 
それが「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになる。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき」、死は勝利の呑まれるのだというのであります。

 ですから、パウロは、どのようによみがえるのかという問いに対して、まず種のたとえを用いて、種は必ず死ぬ、種は死なないと、芽ががでないように、一度必ず死ななければならないというのです。人間、罪ある人間は一度かならず死ななければならない、それは肉体を含めて、霊も魂も死ななければならないということであります。

 そうした上で、神は「御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれの体をお与えになる」というのです。そして次ぎに動物のたとえを用いて、どの肉にも同じ肉というわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、あるようにそれぞれ違う。つまり、われわれがよみがえるときには、われわれはこの地上で生きた、このわたしという個性がそのまま生かされてよみがえるのだということであります。みな同じ人間になってよみがえるのではない。一つ一つの種に、それぞれ体を与えるということであります。少し難しい言葉を使えば、復活するわたしは、この地上のわたしと同一性を保持しているのだ、つまり、アイデンティティー、自己同一性があるのだということであります。そうでなければ、よみがえりは意味がないわけです。
 
 臓器移植が行われれるようになって、特にアメリカではそれが当たり前になってきていますが、ひとつの大きな問題は、たとえば、心臓を移植された人は、自分のなかに別の人格のものが移植されたという感じをもたざるを得なくなって、肉体的な違和感ではなく、精神的な違和感の問題が起こって、この臓器移植された人の精神的なカウンセラーが重要な問題になっているということであります。
 人間という存在の不思議さであります。それは決して機械の部品とは違うということであります。人間には自己同一性ということが大切なのであります。
 この地上のからだと復活のからだとアイデンティティー、自己同一性があるということであります。

 しかしそれを聞いてがっかりする人もいるかもしれません。自分というものを嫌っている人は、また同じ自分がよみがえるのならば、よみがえらないほうがいいと思う人もいるかもしれません。それに対してパウロは、天上のからだと地上のからだがある。しかし、天上の体の輝きと地上の輝きとは違うというのです。
わたしたちは「天に属するその人の似姿にもなるのです」というのです。天に属するその人とはイエス・キリストのことであります。

 ヨハネの第一の手紙では、こういわれております。「わたしたちは今既に神の子ですが、自分がどのようになるかはまだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子と似た者となるということを知っています」というのであります。
 だからもう絶望することはないのです。同じわたしとしてよみがえるのですが、それはイエス・キリストに似た者としてのわたしとしてよみがえるのだというのです。

 罪が赦されるということは、ただこの地上だけの問題ではなく、この地上を超えて罪赦されるということなので、それがわれわれが自分のからだが死んだあと、その罪あるからだまるごとが赦されて、からだごとまるまる赦される、それが「われはからだのよみがえりを信ずる」という告白なのであります。

 もしわれわれがこのからだのよみがえりを信じない、復活を信じないとすれば、われわれ罪の赦しの福音を中途半端にしか信じないということになるということであります。もしよみがえりを信じないとすれば、われわれはただこの地上だけ、この世だけの問題の解決のためにイエス・キリストを信じている、とすれば、われわれはすべての人のなかで、もっとも哀れな、もっとも惨めな者になるということであります。

 われわれは自分がよみがえるということは、あまり切実な信仰にはなっていないかもしれないと思います。しかしもしわれわれが自分の愛する者を失った時どうでしょうか。その時にわれわれは切実にその者のよみがえりを信じたくなるのではないでしょうか。その人の命がこの地上だけで終わってしまったら困ると言う切実な願いが起こるのではないでしょうか。
 パウロもそのことをいうのです。
 この手紙の一五章の二九節からみますと、「そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは何をしようとするのか。死者が決して復活しないならば、なぜ死者のために洗礼など受けるのか」というのです。
 初代の教会では、死者のための身代わりの洗礼ということが行われていたようなのです。それは洗礼を受けないで死んだ人は救われないのではないか、地獄にでもいくのではないかと悲しんで、その死んだ人が救われるようにと死者のための身代わりの洗礼というのが行われたらしいのです。そうしたことは間違った洗礼だということで、それはいつのまにか行われなくなりましたが、その気持ちはわれわれにもよくわかるのではないかと思います。
 つまり、からだのよみがえりを信ずるというこの信仰の告白は、愛する者がなくなった時に、切実に身近な信仰の告白になるのでなはいかと思います。
 
 われわれにとって、この告白が切実でないのは、われわれにとって死というものがまだまだ現実的になっていないからかも知れません。パウロはこうもいいます。「またなぜ、わたしたちはいつも危険を冒しているのか」というのです。つまり、伝道するということは、当時は迫害に会うということで、ある時には、野獣と戦うというような死と隣り合わせのことだったのです。パウロは復活信仰があるから、そのような死の危険を顧みず、伝道に励むことができるのだというのです。

 もし死者が復活しないとしたら、「食べたり、飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」と、はなはだ享楽的な生き方になってしまうではないかというのです。

 パウロはその復活信仰を力強く証ししたあと、こういうのです。「死は勝利に呑まれてしまった。死のとげは罪である。罪の力は律法である。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう」と言ったあと、「わたしの愛する兄弟たちよ、こういうわけだから、動かされず、主のわざに常に励みなさい。主にあっては、自分達の労苦は決して無駄になることはない」からだというのです。

 復活信仰に生きるということは、ただ愛する者を失った時だけではなく、また自分の死が近づくという老年になった時の問題ではなく、本当はいつも死にさらされている私達、死のむなしさに脅かされている、今の私達の信仰の生き方にも関わっている問題なのであります。