「全能の父なる神を信ず」使徒信条その二  ヨハネの第一の手紙三章一ー二節

 使徒信条は、日本語訳では、「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と始められております。しかし原文をみますと、原文はラテン語ですが、こうなっております。「われは信ず、神を、全能の父」そして、「造り主、天と地の」となっております。ですから、日本語では、天地の造り主が最初に来ておりますが、原文では、全能の父なる神が始めに来ておりまので、今日は「父なる神」について学びたいと思います。そして今日の説教の題は「父なる神を信ず」にしましたが、本当は「全能の父なる神を信ず」という題にすべきでした。

 第一に考えたいことは、「父なる神を信ず」ということであります。父なる神という言葉は、旧約聖書にはないのです。今度調べてみてそのことを知って驚きました。聖書に出てくる言葉を引く聖書語句大辞典という書物がありますが、それで「父なる神」という項目をひきますと、旧約聖書にはひとつもでてこないで、新約聖書から始まっているのです。

 神を父として表現する箇所は、旧約聖書にもあるのです。そのいくつかを紹介しますと、詩篇の八九篇には「あなたはわが父、わが神、わが救いの岩」とあります。イザヤ書には、「たといアブラハムがわれわれを知らず、イスラエルがわれわれを認めなくても、あなたはわれわれの父です。主よ、あなたはわれわれの父、いにしえらあなたの名はわれわれのあがない主です」とあります。

 このように神を父として表現するところはあります。しかし大変すくないのです。また、父なる神という表現はひとつも出てまいりません。「父なる神」という言葉が出てくるのは、新約聖書に入ってからであります。どうしてそうなのか。それは神のひとり子であるイエスが、神に対して「アバ、父よ」と呼びかけて、神がわれわれの父であるということをはっきりとわれわれに教えて下さった。そしてイエスが「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」といわれたように、神さまのことを述べる時に、「父なる神は」という表現をなさった、それで神を父として呼びかけてもいいのだということがわかって、そういう表現が多くなったのであります。

 それまでは、「あなたはわれわれの父です」と、神を父としてイメージすることはあっても、直接、主なる神に対して「父よ」とよびかけたり、祈ったりすることはなかったのです。イスラエル人にとって、神は遠い遠い存在、高い高いところにおられる神だと思われていたので、到底そのように親しそうによびかけたることなどできなかったのであります。

イエスが神に祈る時に、「アバ、父よ」と祈り、また主イエスが「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じだ」といわれたように、主イエスが神を父としてわれわれに紹介してくださったのであります。ですから、われわれが神を父として理解するためには、まずイエス・キリストの父としての神ということから、この父なる神を理解しなくてはならないのであります。つまり、われわれの人間の父親というイメージがまずあって、そこから神を父なる神として考えてはならないということなのです。

 パウロの言葉にこういう言葉があります。「天上にあり地上にあって、『父』と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る」(エペソ三章一五節)とあります。つまりわれわれ人間の父に対するイメージは、本当はまず神が父として存在しておられ、働いておられる、そこからわれわれは自分達の父親像というものを考えなくてはならないということであります。
 
 今日、特に日本では、父親の権威が喪失しているといわれております。ですから、今日の父親像をもって神をイメージするわけにはかなくなりました。 しかしそれならば、戦前の日本の父親像をもって父なる神をイメージしていいかといわれれば、それもまた困るのであります。戦前の日本人の父親像は、ただやたらに威張り散らし、権力や権威を誇示する父親像でしかなかったからであります。

 そのように、人間の父親像から神とはこういうかただろうと父なる神を想像してはならないということであります。むしろ逆にこの天と地の父親像の源に神があるのだということであります。それを示してくださつたのが、その父なる神のひとり子であるイエス・キリストなのであります。
 
 イエス・キリストは神に祈る時に、「アバ」と祈りました。この「アバ」というのは、イエスのもちいましたヘブル語、厳密にいいますと、アラム語といわれておりますが、そのイエスの使われた言葉では、「アバ」とは、子供が父親に親しみを込めてよびかける言葉であります。今日の日本語でいえば、「パパ」とか「お父さん」という呼びかけであります。

 これは、神に対してそのように親しそうに呼びかけるということは、当時のイスラエルの人々にとっては考えられない呼びかけだったようであります。大変な驚きであった。当時のイスラエル人は神に対してそんな親しそうに呼びかけることはできなかったのです。聖なる神でりあます。それは高い高いところに、遠い遠いところに存在する神というイメージであります。その神に対して、子供が親しみを込めて「アバ」と祈っているイエス姿は大変印象深かったのです。

 それで新約聖書がギリシャ語で書かれる時に、イエスが使われている言葉がイエスが使われたままの言葉で、つまり翻訳されないで、ギリシャ語にされないでそのまま残った言葉がいくつかあります。「アーメン」という言葉はそうであります。そしてこの「アバ」という言葉もそうであります。なぜギリシャ語に翻訳されないで、そのまま残ったのかといいますと、ギリシャ語にしてまうと、イエスが使われた言葉のニュアンスが失われてしまうからであります。それらの言葉はそれほど印象深かったのです。それでそのままにしたのです。
 
 主イエスは神に祈る時に、「アバ」と祈られた。それでわれわれもまたイエスにならって、神に対してわれわれが祈る時に、「アバ」とよびけてもいいのだということを知ったのであります。パウロはこういうのです。神はわれわれに「アバ、父よ」という霊を送ってくださった、だからわれわれは神の子なのだというのです。われわれが神の子であるという証拠は、われわれが天使のような顔つきになったり、天使のような美しい言動ができるようになった時に、神の子になれるのではないのだということです。そうではなくて、われわれが祈る時に、どんに自分自身がいたらない人間であったとしても、なんの誇るべき行いができなくても、どんなに不信仰であったとしても、神に対してお祈りする時には、神に対して父親にすがるようにして「アバ、父よ」と祈るときに、われわれは神の子になるのだというのです。それは逆にいいますと、もしわれわれが神に対して、「アバ、父よ」と祈れないならば、本当に、神を父として信じたことにはならないということであります。

 鈴木正久という大変すぐれた牧師がおりましたが、われわれの教団の総会議長をなさった大変すぐれた牧師でしたが、その牧師が書いておりますが、彼が肝臓ガンだという宣告を医者から受け、それを娘さんを通して聞かされたときに、なんいってもショックだったというのです。そして寝付かれなかった。その時に、祈った。それまではあまりそういう祈りはしなかったのだけど、ただ「天の父よ」というだけでなく、子供の時に自分の父親を呼んだように、「天のお父さん、お父さん」、と何回もなくそう呼びかけたというのです。そして「キリストよ、聖霊よ、どうか私の魂に力を与えてください。そうして私の心に平安を与えてください」と祈ったというのです。なかなか寝付かれなかったけれど、やがて眠れて明け方までかなりよく静かに眠れた。そして目が覚めたら、不思議な力が心の中に与えられていたというのです。

 われわれは人の前では、なかなか神に祈る時に「お父さん」とか「お父様」なんて、とても祈ることはできないのです。なんかあまったれていて、むしろそんな祈りかたはしたくないのです。しかし人前ではともかく、自分ひとりで祈る時に、神に対して「アバ、父よ」と祈ることができないならば、それは本当に神を信じているとはいえないかも知れないと思います。
 
 そのようにしてわれわれは神をまず父なる神として信じなくてはならいない、というよりは、神を、父なる神として信ずるのだということ、それが使徒信条で一番最初に告白すべきことなのです。

 そして使徒信条は、大変不思議なことに、というべきか、おどろくべきことにというべきか、この「父なる神」というイメージに、「全能の父なる神」という言葉がつけられているのであります。
 全能というのは、全知全能というように、神はなんでも知っている、神はなんでもおできになるという意味であります。その全能ということが、父なる神に結びつけられて告白されているのであります。われは全能の父なる神を信ずと使徒信条は告白するのであります。

 われわれの考えからすれば、この全能ということは、むしろその後にある天地の造り主、ということと結びつけられたほうが自然ではないかと思われるのではないかと思います。われは父なる神、全能の天と地の造り主、を信ずと告白したほうが自然な気がいたします。なぜなら、神がこの天と地を造られた時には、無から有を生じさせて、いわば無からの創造をなさっておられるからであります。何にもないところからこの天と地を造られた神、それこそ全知全能の神というイメージにふさわして思いがするのです。

 しかし使徒信条は、この全能ということを、父なる神に結びつけて、全能の父なる神を信ず、とまず告白するのであります。これは大変不思議ではないでしょうか。

 そうしますと、われわれが神の全能ということを理解する時には、なにかノーベル賞を与えられた科学者と結びつけて考えるのではなく、父なる神と結びつけて考えなくてはならないということであります。それはもっとわかりやすくいえば、イエスが語られたのあの放蕩息子の父親の姿のなかに、全能ということを考えなくてはならないということであります。

 それはこういうたとえ話です。ある父親にふたりの息子がいた。そのうちの弟のほうが父親に「あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください」という。つまり生前分与してくれと要求する。それに対してこの父親はおろかにも与えてしまうのであります。そして弟はその財産を受けると幾日も経たないうちに、自分のものを全部とりまとめて父親のところを出てしまい、そのお金で遊びまくってしまった。そしてお金を使い果たしてしまったというのです。そして食べる物にも困り果てて、もう今さら「あなたの息子だ」と言う資格はないから、雇い人の一人として父親にやとってもらおうと思い、父親のもとに帰るのであります。その時、父親はどうしたか。イエスはこう語るのです。「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ」、彼を発見し、父親のほうから歩みより、その息子の首を抱いて接吻したというのであります。息子は「父よ、わたしは天に対しても、あなたに向かっても罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はりあません。」といいますと、父親はその息子に何もしからないで、僕たちを呼んで、彼に最上の着物をきさせ、最高の料理でもてなしたというのであります 。

 そういう父親が、全能の父なる神なのだというのです。それが神の全能だということであります。自分のもとを去った息子、そしてそのために困り果てて帰ってきた息子を黙ってもう一度受け止めて、赦してあげることのできる父親、つまり、人間の罪を赦すということにおいてできないことはひとつもないという意味での全能の父なる神だということであります。

 自分の息子に生前分与してお金を与えたら、息子はなにをしでかすかわかりそうなものであります。この父親はそれもみぬけない親なのでしょうか、それはわれわれが想像するような全知全能ではないのです。

 この父親はあるいは、そのことを見ぬいておりながら、あえてそうしたのかもしれません。そうしますと、この父親像は、われわれ日本人が戦前の父親像にあったような権力をふりまわす父親像は違う姿だということであります。
 
 聖書がいう「全能」とは何か。全能ということは、何でもできるということであります。できないことは一つもないということであります。主イエスはあるとき、神について「人にはできないが、神には何でもできないことはない」といわれたことがあります。それはどういう時にいわれたかといいますと、こういう時なのです。ある金持ちの青年がイエスのところにきて、救われるためにはどうしたらいいですかと質問したときに、イエスはいろいと言われた後に最後に、その青年に、「お前がもっている財産をすべて売り払って貧しい人々に施せ、そしてわたしに従ってきなさい」といわれるます。すると、彼はそれができないで、悲しみながらイエスのもとを去っていくのです。

それを見て、イエスが「富んでいる者が天国にはいるのは難しい。富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」といいます。それで弟子達はびっくりして、そんなことならば、なにも金持ちだげてなく、貧しい者だって、自分たちだって救われことはできないではないかと驚き、「では、だれが救われのですか。そんなに厳しいことならば、救われるものがいるのでしょうか」とイエスにいうのです。その時にイエスがいわれた言葉が「人にはそれはできないが、神にはなんでもできないことはない」という言葉なのです。つまり、人間のほうから、いろいろと功徳を積んで救いに達しようとしてもそれは到底できることではない、人間のほうから、自分の持ち物を全部捨てて、そして貧しい人にそれを与えて、救いを達成しようとしてもできることはできないだろう。
人間のほうから救いを獲得しようとしてもできることない、しかし神のほうからはそれはできる、救いというのは、人間が獲得すべきことではなく、神のほうで救ってくださることなのだ、だからその財産をすてられなくて自分のもとを去ったあの青年も、そしてお前たちも、どんな人間も、人間の目から見て、到底すくわれそうもない人間でも、神がそうしようと思われたら、どんな人間も神は救うことがおできになる、なぜなら、神にはできないことはひとつもないからだということであります。

 つまり、神の全能ということは、神がなにか手品師や魔術師のように人をおどろかすようなことをやってみせるということではなく、そういう意味でのなんでもできる、できないことはひとつもない、ということではなく、人間を救う、どんな人間をも救う、われわれ人間を救うということに関しては、神にできないことはないという意味であります。

だから、この「全能」という言葉は、無から有を生じさせたという天地創造の神に結びつけられての告白ではなく、父なる神、あの放蕩息子にみられる放蕩息子を何も言わないで赦したもう放蕩息子の父、そういう父なる神とむすびつけられて告白されているのであります。
 
 そしてこの全能の父なる神は、全能の父なる神であるが故に、どうしてもできないことがありました。それはわれわれ人間の救いにならないこと、われわれ人間の本当の救いにならないことは、どうしてもできなかったということであります。

主イエスがご自分が十字架で死ななくてならなった前の夜のことであります。自分は十字架で本当に死ななくてはならないのか、そんなことは祭司長たちのいいなりになることで、敵に負けることならないか、サタンに負けることにならないか、本当に自分は十字架で死ななくてはならないのですか、とあのゲッセマネの園で祈られた時であります。その時主イエスはこう祈るのであります。
「アバ、父よ、あなたにはできないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください」と祈るのであります。

 ここでは、「アバ、父よ」ということと、「あなたにはできないことは一つもない」という全能ということが結びつけられて祈られております。この必死の祈りに対して、神はひとつも答えないのであります。それで主イエスはこの神の沈黙の中に神の堅い意志、神のみこころがここにあるのだと受け止めて、十字架の道へと決然と歩み始めるのであります。

 イエスがこの時必死に「アバ」という言葉でよびかけ、そして全能の神とよびかけて祈った時に、この時、神は父なる神であるが故に、どうしてもできないただひとつのことの前にたたされたのであります。それは人間を本当に救うためには、どうしてもご自分のひとり子イエスを十字架で死なせ、十字架で人間の罪をあがなわせなくてはならない、どうしてもイエスを十字架につけなくてはならない
、そうでなければ、人間を救えない、そう思われていたのです。だから、父なる神は人間を正しく救うためには、どうしてもイエスの求めてをしりぞけざるを得なかったのであります。この父なる神は、父なる神であるがに、人間の救いにならないことはできなかったのであります。

 この全能の神は、ただひとつだけできないことがあったのです。それは自分のひとり子を十字架で殺されないで人間の救いの道を見いだすことはできなかったということであります。われわれを救うということは、ただわれわれ人間を幸せにすればいいということではなく、われわれを救うということは、われわれの罪からの救い、われわれのしぶとい自己中心性からの救いだからであります。だからこの十字架以外の救いの道をとることはできなかったのであります。

 それは逆にいえば、この父なる神は、われわれを救うためには、どんなことでもおできになつたということであります。ご自分のひとり子ですから、死なせることができたということであります。そのようにして、神は、父なる神であること、全能の父なる神であることをわれわれに示してくださったということであります。

先ほど読みました聖書の言葉はそのことをわれわれに伝えているのであります。「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんな大きな愛を父から賜ったことか、よく考えなさい。わたしたちはすでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。」

神を父なる神としてわれわれが告白し、神に対して「アバ、父よ」と祈れるようになるためには、このイエス・キリストの十字架の死があったということであります。そして世間の人が十字架を軽蔑し、クリスチャンをあざ笑うのは、神を父として、全能の父なる神として知らないからだというのであります。