「永遠の生命を信ず」 コロサイの信徒への手紙三章一ー四節

 今年の芥川賞をもらった作品の冒頭にこういう話がでてまいります。主人公が地下鉄にのっていて、その地下鉄が霞ヶ関の駅で停車したまま動かなくなってしまって、ドアにもたれたままガラスの窓から広告をみていたというのです。その広告には「死んでからも生き続けるものがあります。それはあなたの意思です」と書かれていたというのです。その広告は何の広告かといいますと、日本臓器移植ネットワークの広告だったというのです。それで彼は背後にいると思っていた友人に「ちょっとあれ見てくださいよ。なんかぞっとしませんか」という。ところがその友人はもう駅を降りていていないので、見知らぬ女に語りかけたことになっていて、その見知らぬ女性はきょとんしていて、辺りのまわりの乗客もそのことを知っていて、失笑がおころうとしている時に、その見知らぬ女が「ほんとねぇ、ぞっとする」と、平然と彼の問いに答えるのです。そしてこう言うのです。「死んでからも生き続けるわたしの臓器ってイメージがちょっと怖いっていうか、不気味な感じがするよね」と続けた。そういうところから、物語が展開していくという小説でした。

 「死んでからも生き続けるものがある。それはあなたの意思です」、本当にそういう広告があるのかどうか、本当に日本臓器移植ネットワークの広告にそういう広告があるのかどうか、確かめてはいないのですが、たぶん本当にあるのだろうと思いますが、これが臓器移植の広告だとしますと、その女がいうように、「ほんとにぞっとする。死んでも生き続けるわたしの臓器というイメージは怖いというか、不気味な思い」がするという気持ちがわかるような気が致します。

 今日は使徒信条の最後のところで、「われは永遠の生命を信ず」というところを学ぼうとしております。正直にいいまして、この項目で説教するということは大変難しい、どう考えてもはっきりしたイメージをもって語れないということが正直なところであります。多くの使徒信条の解説書でも、この「永遠の生命を信ず」というところは、その前のところの「身体のよみがえりを信ず」というところと一緒にして解説しているのであります。ですから、「永遠の生命を信ず」ということを独立して解説しているものは少ないのです。
 「永遠の生命を信ず」ということを説明することの難しさは、そのひとつには、われわれには「永遠」ということを本当は理解できない、イメージできないというところから来ていると思います。

 もともと人間には「永遠」というものをイメージしたり、説明したりできるものではないのではないかと思います。永遠というのは、神と結びつくもので、それだけを取り出して説明することはできないのではないかと思います。
 われわれは永続ということ、永遠に続くという意味の永遠ということならば、あるいは少しはイメージすることができるかもしれません。

 しかしそれならば、永遠の命とは、永続する命だということになったとして、われわれは「永続する生命を信ず」と告白するときに、われわれはどれだけ喜びをもってこのことを告白できるでしょうか。 
 われわれの命が永遠に続くということは、それほど喜ばしいことでしょうか。それはわれわれが望んでいる救いなのでしょうか。むしろ、あの臓器移植のネットワークの広告を見て感じた女性のように、「死んでからも生き続けるわたしの臓器というものは何か怖いというか、ぞっとする、不気味な気がする」という思いをもたないでしょうか。もっともその広告は、「死んでからも生き続けるものがある、それはあなたの臓器です」といわないで、「あなたの意思です」というところが、この広告の巧みさだろうと思います。そのようにして臓器移植を積極的に参加することを促そうとする広告なのでしょう。それならば、われわれの意思が永遠に生き続けるということは、われわれにとってうれしいことでしょうか。

 確かに、「永遠の生命を信ず」ということは、その背後に、われわれの人生はこの地上の生で終わってしまう、死で終わってしまう、という考えを否定する告白として、「死は勝利に呑まれてしまった。死のとげはどこにあるか」ということの別の表現として、つまり、身体のよみがえりということを、別の表現であらわした告白であるということならば、われわれにも理解できることだと思います。
 しかし使徒信条は、ただ「身体のよみがりを信ず」という告白だけではなく、さらに「永遠の生命を信ず」ということで、「身体のよみがえり」ということをもっと積極的にその内容にまでふれて告白しようとしているのではないかと思われます。

 聖書で、「永遠」という言葉を使う時、それは「神」という言葉と同じ言葉として使われているようであります。それは哲学的な抽象的、観念的なものではなく、いつも神と結びつけて考えているようであります。「永遠の生命」というとき、それは「神の命」といってもいいと思います。

 ヨハネによる福音書の一七章の三節には、永遠の命とはなにかとはっきりと定義されているところがあります。イエスはこう言っております。
 「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と定義されております。
 永遠の命とは、ただわれわれの生が死んでからも永遠に生き続ける、そういう永続する命ではなく、神を知り、イエス・キリストを知ること、それが永遠の命なのだと明解に定義されているのであります。それは言葉を換えていいますと、永遠の命とは、われわれの生が死によって一端は中断されるけれど、死を超えて命が与えられる、それはただわれわれの臓器が永続的に続くとか、臓器移植を志したわれわれの意思が永遠に続くということではなくて、全く新しい命が与えられる、それが死を超えて与えられるということ、それは神の命なのだということなのであります。

 ですから、それはただ死んでから永遠の命があたえられのではなく、われわれが神を知り、イエス・キリストを知って、信じて、神を信じられるようになった時に、すでに永遠の命が与えられているのだということなのであります。それがヨハネによる福音書が言おうとしていることであります。ヨハネはラザロの復活の記事のところで、イエスがラザロの姉妹のマルタに「あなたの兄弟は復活する」といいますと、マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」と答えます。すると、イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信ずる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われるのです。
 復活というのは、ただ死んでからのことではなく、今イエス・キリストを信じる時に、死なないという復活の命がすでに始まっているのだというのです。
 
 永遠の命とは、ただわれわれの命が死を超えて永続的に続くということではなく、全く新しい命があたえられる、それは神の命なのだということであります。

 つまり「永遠の生命を信ず」という告白は、「身体のよみがりを信ず」という告白の内容をあらわしているのだといってもいいと思います。身体がよみがるということは、「わたし」という存在が死で終わらない、この地上を超えて存在するのだということ、その内容が神の命なのだということなのであります。

 この「永遠の命」という言葉を、はじめて聖書を日本語に翻訳しようとして、ある宣教師が「永遠」という言葉の日本語が思いつかなくて、苦労して「あらんかぎりの命」と訳した、そういう訳があると聞いたことがあります。大変良い訳だったなあと思います。永遠の命とは、神の命であるということからいえば、それはわれわれのちっけな、我欲に満ちた意思が永続的に続くということではなく、それはあらんかぎりの命、本当の命という意味であります。

 それは具体的には、どういう命なのか。コロサイの信徒への手紙の三章では、こう記されております。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に座についておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神のうちに隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」と言われております。「あなたがたの命は、キリストと共に神のうちに隠されている」というのですから、その永遠の命が具体的にどういうものかは、まだわれわれには隠されているというのですから、終末の時まで楽しみにとっておけばいいということなのかもしれません。

 それではなにもわかならないかと言えば、その片鱗はわれわれにはキリストによって知らされていることは明らかであります。コロサイの信徒への手紙は、そのあと、続けてこういうのです。
 「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、及び貪欲を捨て去りなさい」と勧め、更に「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはならない。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身につけ、日々新たにされて、真の知識に達するのです」と続き、更に「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に付けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主が赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛はすべてを完成させる絆です」と続けていきます。

 確かに永遠の命は、われわれにはまだ神のうちに隠されておりますが、その片鱗はわれわれはキリストの生き方を通して知らされているのですから、その永遠の命をこの地上でも生きることができるのであります。そしてその時に大事なのは、「日々新たにされ」というところであります。

 パウロはコリントの信徒への手紙の第二の手紙の四章でこういいます。
「だから、わたしたちは落胆しない。たとえ、わたしたちの外なる人が滅んでも、わたしたちの内なる人は日々新たにされていく。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれる。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目をそそぐ。見えるものは過ぎ去り、見えないものは永遠に存続するからである」というのです。

 この地上にあって、われわれが永遠の命にあずかって生きる生き方は、まだまだ不完全ものですから、日々新たにされるということが大事であります。日々新たにしていく、古いものを脱ぎ捨てていくという決断、そして日々新たにしていくという決断のなかで生きていくということであります。われわれがこの地上に生きている限りは、まだ永遠の命を自分のものにしきっていないのですから、絶えず古い自分を捨てていく、そして新しくされていく、そういう決断的な生き方、決断的な生き方というのは、古い自分を引きずらない生き方、自分の過去ばかり見て、目に見える自分のことを反省ばかりして、だめだだめだと思うのではなく、そういう自分を見いだしたら、そういう目に見えるものに目を向けるのではなく、その都度その自分を捨てていく、そうして日々新しくされていく、それがこの地上にあって、永遠の命に生きる生き方であります。

 聖書の最後におかれておりますヨハネの黙示録の最後には、その永遠の命についてこのうように美しく記しております。
 「わたしは新しい天と新しい地とを見た。・・そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものが過ぎ去ったからである。」

 最後に触れておきたいことがあります。それは、ここには、永遠の死、永遠の裁きについて言及されていないのはなぜかということであります。使徒信条にはイエス・キリストが「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と告白されているのに、ここには裁かれて地獄にいくという永遠の死について言及されていないのはなぜかということであります。このことでは、カルヴァンがこういっているそうです。「ここには、信仰ある者の慰めに、関わることのみが簡潔に記されているのであって、神がその僕になされるよき事のみを語っている。かくて、御国から除かれた、不義なる者については、何も述べないのである」と書いているそうです。

 それを受けて竹森満佐一はこう書いております。「使徒信条は信ずべきことととだけを書いてるのである。われわれにとって大切なことは、キリストが救ってくださるということだけである。キリストは終わりの裁きの日にも、裁き主であると同時に、われわれのためにとりなしてくださる方だ。そのようにわれわれを愛してくださるのである。それを信じるのである。そうでないと、自分ことを考え、自分の弱さを思い、罪に悩み、死を思うことになる。したがって、地獄や永遠の死を考える必要がでてきてしまう。しかし、キリストを信じる者にとっては、地獄や永遠の死は、キリストが滅ぼされたさまにおいて、示されるだけなのだ。だからこれらのことは信仰告白の中にはでてこないのである」と書いているのであります。

 われわれは「われは永遠の死を信ずるとか、地獄の存在を信ずる」とかもはや告白する必要はないということであります。われわれが信ずるのは、ただただイエス・キリストだけであって、したがって、イエス・キリストが与え下さる救いだけであって、あとのことは、永遠の死や地獄のことは信じる必要もないし、信じてはいけないのであります。