「天地の造り主を信ず」使徒信条三 ローマの信徒への手紙九章一九ー三三節

 使徒信条は、父なる神を信ず、子なるイエス信ず、聖霊を信ずという三位一体の神を信ずるという告白になっておりますが、今日はその父なる神に対する告白の部分になります。

「われは天地の造り主なる神を信ず」という告白であります。ここでひとつ不思議に思うことは、どうして「人間の造り主なる神を信ず」と告白しないで、「天地の造り主なる神を信ず」と告白するのかということであります。といいますのは、「われは天地の造り主なる神を信ず」という告白の内容は、自分が神によって造られ者であることを信ず、わたしを造ってくださったかたがおられることを信ずるという告白だからであります。天地の造り主、と言うとき、その中心はなんといっても人間の造り主、われわれを造ってくださった神を信じるということであります。それなのに、どうしてここにはそのことにひとことも言及されないで、「天地の造り主を信ず」と告白しているのでしょうか。

宗教改革者のマルチン・ルターはここを解説して、この告白は「わたしは神がわたしをあらゆる被造物と共に、造られたことを信ずる」ということであるといっているそうであります。

 そしてこのことについて、カール・バルトという神学者がこう言っております。「神が天と地とを創造したということは、そこに人間に言及しないで、いなむしろ意味深長に人間のことに言及しないことによって、きわめて決定的な事柄を人間について語ろうとしているのだ」と言っているのであります。使徒信条は、人間を神の被造物として明白に際だたせない、あるいはその中心にまでおしやっていないことには意味がある。もし人間があまりにも出過ぎて自らを唯一の造られた物、神のパートナー、神の相手として考え、また体験しよう欲するならば、それは創造者なる神を認識し、被造者として人間を認識することに役立たないというのです。われわれは神を知るときに、伏して地を見、仰いで天を眺め、自らの身体と霊魂について、被造物の中にあってもほとんど取るに足らないものであり、無価値なものであることを認めなくてはならない。それなくして、神を創造者なる神として知ることができるだろうか、そのようにして神を畏れ、愛することができるだろうか、そういう意味のことを言っているのであります。

 つまり、人間はこの天地宇宙の中心なんかではない、そのことを使徒信条はわれわれに教えているのだということなのです。

 旧約聖書の創世記にあります、天地創造の神話によれば、その中心は人間の創造であります。これはもちろん神話でありますが、そのことを通して聖書が語ろうとしていることは、人間とは何かということであります。聖書は何も科学者がこの宇宙の創生を研究するようなことをしているのではありません。聖書があらゆることを通して言っていることは、人間とは何かということであります。

 神は七日間、実際には六日間を通して、この天地をお造りになり、そして六日目に最後に人間を造られたと語ります。いわばすべての準備をととのえてから、いよいよ本丸が登場してくる、それが人間なのだと語ります。しかもその人間だけは、神に似せて造られた栄光ある存在として語られ、この地上を治める課題が与えられたものとして造られたのだと語ります。そこでは確かに天地創造の中心は人間なのです。

 しかしもうひとつの創造神話によれば、人間は一番はじめに神によってつくられのただと語ります。こちらの創造神話では、「主なる神はが地と天とを造られた時、地にはまだ野の木もなく、また野の草も生えていなかった」語るのであります。そしてまだ何もないときに、神が土のちりから人間を造ったと語ります。人間は土のちりでつくられた、つまりそれはいかにも吹けば飛ぶような存在、もし神がその気になればすぐひねりつぶされるようなもろい存在として造られた、しかしその土のちりで造られた物にその鼻から神が命の息を吹き入れた、その時に始めて、人間は生きた、と語るのであります。

その二つの創造神話では、中心は確かに人間なのですが、その人間はもろい存在、弱い存在として記され、ただ神によって栄光を与えられたとき、それを人間のほうで自覚したときに、初めて生きることができる存在として、語られているのであります。人間だけは、他の動物とは違って、自分が神によって造られたものだということを自覚し、それを受け入れ、それを信じて生きない限り、生きることはてぎないのだと語られているのであります。

 「われは天地の造り主なる神を信ずる」という告白は、なによりも自分は造られた存在である、自分を造ったかたがおられるという告白であります。それはなによりもわれわれのひとりよがりな、自己中心的な思い、この宇宙の、この世界の中心は人間だ、自分だ、という、おごり高ぶりを粉砕させる信仰の告白であります。

 パウロはこういっております。「いったいあなたを偉くしてるのは誰なのか。あなたのもっているものでもらっていないものがあるか。もしもらっているのなら、なぜもらっていないもののような顔をして誇るのか」というのです。

 これはコリントの教会で自分が一番偉いと言い出す人がいて、そういう派閥が出てきて、教会が分裂しそうになった時に、パウロが叱りつけた言葉であります。自分のことを考えみなさい、今自分が持っているものは、もとをただせばすべて神から、あるいは人からもらったものばかりではないかとというのです。その自分の持っているもの中には、確かに一見自分の努力でかちとったものもあるかもしれないのです。しかしそれだって、もとをただせばすべて神から人からもらったものではないかというのです。

 ある人がいっておりますが、われわれ人間が造るものは、要するに、ここに与えられているものを用いて造るだけだ、神のように何もないところから、つまり無からの創造というように、何もないところから造るわけではない。われわれは自分を生かしている心臓のことを考えてみても、自分が命令して動かしているわけではない、自分の考えで止めることも本当はできないものであります。それなのにわれわれは自分が造られものであることを忘れて自分のことを誇っているというのです。

そしてパウロはこういいます。「ああ、人よ、あなたは神に言い逆らうとは、いったい何者か。造られた者が造った者に向かって『なぜ、わたしをこのように造ったのか』ということができようか。陶器を造る者は、同じ土くれから、一つの尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのか。もし神が怒りをあらわし、かつご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようされたとしたら、どうであろうか」というのであります。

創造者なる神は、その神の自由さから、滅びの器も造ることができた、しかし神は結局はひとつもそのような器をお造りにならなかった、かえってその器をあわれみの器として造り、神の栄光を伝える器として造られた、それが人間であり、それが教会ではないかというのであります。

 われは天地の造り主を信ず、という使徒信条の告白は、何よりもわれわれ人間の、人間中心主義、自己中心性のおごり高ぶりを粉砕する告白であります。

それならば、この告白は、われわれをただ裁くための信仰の告白なのでしょうか。それはわれわれにとって、ひとつも慰めにならない告白なのでしょうか。それはひとつもわれわれの救いに関わることのない信仰の告白なのでしょうか。

 旧約聖書にヨブ記という書物があります。信仰的にも人間的にも全く正しい人でした。しかしそのヨブにある時突然とんでもない災難がふりかかる。自分の子供たちが突然の災害でみな失ってしまう。財産も失う。それどころか、最後には全身皮膚病になってしまう。自分の身体から悪臭がただよう。自分の奥さんからも嫌われて、あなはもう神さまを呪って死になさいといわれるのです。そのヨブを慰めに友人たちがきます。そのあまりの悲惨さにはじめ何も言えなかった。しかしヨブが自分は今まで正しい生活をしてきた、神様を信じてきた、それなのにどうしてこんな苦難が来たのかと神に問いただしているヨブの姿をみて、黙っているわけにはいかなくなって、「あなたは気がつかないけれど、あなたの中になにか隠れた罪というのがあってこうなったのだ、だからそれを悔い、神様に文句などいってはいけない」とヨブをいさめるのであります。

 しかしもちろんヨブはそんな友人の言葉に納得できない。どうか神よ、答えてくれ、義人が、正しい人間になぜ苦難がおとずれるのか、と神に真っ向から問うのであります。神は答えようとしない。

 しかしとうとう神がそのヨブに答えました。その神の最初の言葉はこういう言葉でした。「無知の言葉をもって、神のはかりごとを暗くするこの者はだれか。お前は腰に帯びして、男らしくせよ、わたしはお前に尋ねる、わたしに答えよ」と言うのです。そして続いて、神はヨブにこう言います。

 「わたしが地の基をすえた時、お前はどこにいたか」というのであります。そして次から次と、この天地を造ったのはわたしだ、お前はこの天地の運用がどのようになっているか知っているか、星の運行を知っているか」と問うのです。そして更に、ヨブの知らない動物、その動物はみな人間のペットになりようがない野生の動物、野ろば、だちょう、野牛、野生の馬、おきな河馬、わにを取り上げて、お前はこれらの動物の生態を知っているか」と問いただすのであります。

 この時、神はヨブに天地創造の神としてご自分を示すのであります。この天地を造ったのは、わたしだ、この天地の中心は人間なんかではない、そのことをヨブに示すのであります。だから人間にわからないこと、ヨブがわからないことは沢山ある、なにもかもわかろうとするなというのです。

 この神はヨブに対して、嵐の中からあらわれるのです。この世の一番悲惨さをこうむっているといってもいい境遇の中にいるヨブに、神はめんどりがひなを暖かく自分の羽のなかにおおってあげるようにして、ヨブを招き、ヨブを慰めたのではないのです。神は嵐の中から激しい言葉で現れ、ヨブをしかりつけたのであります。

 そしてその時、ヨブは救われたのです、慰められたのであります。ヨブはこう告白します。「見よ、わたしはまことに卑しいものです、なんと答えましょうか。ただ手を口におきます」と答えます。そして最後にヨブは「わたしは知ります。あなたはすべてのことをなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。わたしは今まであなたのことをただ耳で聞いていただけでしたが、今はっきりと目でみる思いがいたします。わたしはちり灰のなかで自分を退け、悔います」と告白するのであります。

 自分は今までなんと傲慢であったかと知って、それを神の前で告白できて、彼はただくっしょんとなってしょげたのではなく、ヨブはこの時本当に自分から解放されて、救われ、慰められたのであります。

 世界の中心は、人間ではない、自分ではない、そのことを知ってヨブは救われたのであります。
 人は苦しみがあまりにも深いと、不幸があまり重なりますと、自分の穴の中から一歩も抜け出られなくなってしまいます。悩めば悩むほど、自分という穴の中に深く深く入り込んでしまうものであります。すべてを自分中心に堂々めぐりしてしまう。

 そういう時に、神はヨブをしかりつけ、ヨブの目を天に向けさせた、ヨブの知らない野生の動物に思い走らせたのであります。ヨブを広い広い世界に導いたのであります。

 詩篇の言葉に「わたしが悩みの中から主を呼ぶと、主は答えて、わたしを広い所に置かれた」とありますが、この時のヨブはまさにそのような心境だったのであります。広いところに導かれたのであります。

 ある人が、ヘブル語で、慰めるという言葉は、もともとは「激しい息づかいがする」という言葉から来ていると説明しております。それはまさに嵐の中から現れてヨブをしかりつけた神の慰めであります。

 わたしの先生であります橋本ナホ牧師が神から慰められた経験を語ってりおますが、こういうことを言っております。還暦を迎えて病に倒れた時があった。不安と動揺のなかにあって、ちょうどペンテコステの夕だったので、自分にも聖霊を与えてくださいと祈りつづけていた。その時突然聖書の言葉が心の中に浮かんだ。その聖書の言葉とは、「汝ら、静まりてわれの神たることを知れ」という言葉だった。その言葉を心のなかでなんどとなく繰り返した。そうしたらこの不安の波は静まった。そして神の前にひれ伏す自分を感じた。それからは不安動揺が起こるたびにこのみ言葉を仰ぎ見るときに心は静まったというのです。

 ところが橋本先生はこの言葉が聖書のどこにあるのかいろいろ調べたけれどどうしてもわからない。辞書を引いてもわからない。しまいには、これは自分が造った言葉ではないかと思った。それで仕方なく、自分の先生である旧約聖書の大家である渡辺善太に葉書を出して、この聖句はどこにあるかと聞いたというのです。そうしたらまもなく、渡辺善太から電話がかかってきて、「あなたはいい言葉を与えられた。聖書の言葉がわかなかったというのが残念だけれど、大変いい言葉が与えられた、この言葉は旧約聖書の中心聖句だよ」と、言われて、この言葉が詩篇の四六篇にある言葉だと教えてくれたというのです。今日礼拝で交読した詩篇の一節です。
 橋本ナホはそれまでは弱い者を神をやさしく慰める神として受け止めてきたけれど、このときに始めて、その病の中で、造り主なる神に出会い、神を神として崇めることができて、救われ、慰められたというのであります。

 あまりに深い絶望にいる時には、優しい言葉で慰められるよりは、激しい息づかいをもってどやしつけられたほうが慰められるかもしれないと思います。
 
 イスラエル民族が国が破れて、バビロンという遠い地に補囚生活を強いられてもうすっかり望みを失っているときに、神はひとりの預言者を民に使わして慰めるのであります。旧約聖書の第二イザヤといわれております、イザヤ書の四十章から始まるところであります。
 「慰めよ、わが民を慰めよ」という言葉で始まる預言書であります。そこで登場してくる神も、天地創造の神であります。「目を高くあげて、だれがこの天地を創造したかを見よ」というのであります。そしてこういいます。「ヤコブよ、なにゆえお前は『我が道は主に隠れている』というか。イスラエルよ、何ゆえお前は『わが訴えはわが神に顧みられない』というか。お前は知らなかったのか。聞かなかったのか。主はとこしえの神、地の果ての創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加える。年若いものも弱り、疲れ、壮年の者も疲れ果てて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わたしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」、そう言ってバビロンの補囚の民に慰めを語るのであります。ここでも天地の造り主なる神という信仰がバビロン捕囚にいるイスラエルの人々をたちあがらせたのであります。

 そして続けて、「ヤコブよ、あなたを創造された主はこういわれる、イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこうわれる」と言って「恐れるな、わたしはあなたをあがなった、わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ」というのであります。

 主イエスはこの創造主、天地の造り主について弟子達にこう語ります。「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな、むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れよ。二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることない。あなたがたの頭の髪の毛までもみな数えられている。それだから恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも勝った者である。」

 天地の造り主である神は、地獄をも支配したもうかただというのです。その神はあの価値のない一羽の雀の死にも関わっておられるというのです。父のゆるしがなけばその一羽も地に落ちることはないというのです。神はわれわれひとりひとりの死にも関わっておられる。どんな死にも、絶望しきって、もういっそうのこと、自分で自分の命を絶ってしまおうと思っている人の死にも、神は関わっておられる、父なる神の許しがなければ、自殺もできないのだというのです。自殺もその人が自分勝手にしたことではなく、その背後に神の許しがあったのだというのです。

 この天地の造り主なる神を本当に信じられた時には、もうわれわれは占いというものに煩わされる必要はなくなるのであります。もう得たいの知れない悪魔と悪霊にもおびやかされないのであります。

 最後にイザヤ書の言葉を読んで終わります。「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ。生まれ出た時からわたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け、わたしはあなたがの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたをもち運ぶ、わたしは造った故、必ず持ち運ぶ。持ち運び、かつ救う」。「わたしは造ったゆえ、必ず最後まで責任を持って持ち運ぶ」というのであります。