「イエス・キリストを信ず」 ヨハネによる福音書一章一四ー一八節

 使徒信条の中心は、「われはイエス・キリストを信ず」であります。イエス・キリストの項目のところが一番多くのことが告白されております。「われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみ、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と、告白されております。

 なぜわれわれの信仰の告白の中心がイエス・キリストなのか、神ではないのか。それはヨハネによる福音書一章の一八節に「いまだかって、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、このかたが神を示されたのである」とありますように、イエス・キリストを通してしか父なる神のことを知ることはできないからであります。

 このイエス・キリストを通さないで、自分勝手に神を信じるわけにはいかないのです。このイエス・キリストを通さないで、自分勝手に神をイメージしたり、想像したりしてはならないのであります。このイエス・キリストが与えてくださる救い以外の救いをわれわれはもう期待してはならないということであります。

 前にマルコによる福音書の講解説教の冒頭にこういうことを説教したことがあります。神の子イエスがこの地上に来たということはどういうことか。それは東京で下宿してる学生のところにいきなり親が来たようなものだ。学生はいつも田舎にいる親に「金を送ってくれ」と手紙や電報で依頼していた。しかし、ある時いきなり親自身が東京の下宿に訪ねてきた。それは学生にとって有り難いことだろうか。うれしいことだろうか。かえってそれは迷惑なことなのではないか。なぜなら、それは自分のだらしない生活があらわにされてしまうことだからだ。学生の願いから言えば、ただお金だけを送ってくれたほうがずっと都合がいい。

 われわれも自分の救いということを考えた時に、本当はそう思っていないか。神はいて欲しい、しかしその神は自分がお願いした時だけ、姿をみせてくれて、自分の願いをきいてくれるかたであってほしい。そういう「打ち出の小槌」のようなかた、そういう神を望んでいる。

 しかし神はお金を現金封筒で送っているだけでは、ひとつも人間の救いにはならないと思われた。それで神はご自分のひとり子をこの地上に送って、このひとり子イエス・キリストを通して、神の与えようとしている救いがどのような救いであるかを示されたのだ、そういうことを説教したのであります。

 だからわれわれが本当に救われるためには、ただ祈っていればいいというわけにはいかなくなった。この地上にいらしたイエスが何を語り、何をなし、どのように生きたか、そして死んだか、そしてよみがえったか、その事を学ばなくてはならない、そのためにこれからマルコによる福音書を学んでいくのだということを述べて、マルコによる福音書の講解説教を始めたのであります。

 われわれにとって、このひとり子であるイエス・キリストだけが父なる神をあらわしたのだということは、ありがたいようでいて、実はありがた迷惑なことなのではないか、そのことをまずわれわれは認めなくてはならないと思います。

 イエスが十字架につく前に、祭司長たち、ファリサイ派の人々に対してこういう話をされております。ぶどう園の農夫のたとえであります。
 「ある家の主人がぶどう園を造り、これを農夫に貸していた。収穫の時が来て、収穫を受けるために僕をおくったところ、農夫たちはひとりをふくろだたきにして、ひとりを殺してしまって、収穫を主人に返そうとしなかった。他のしもべを送っても、同じことをされた。それで主人は最後に自分の息子だったならば、敬ってくれるだろうと思って、息子を送った。そうしたら農夫たちは、『これは跡取りだ、さあこいつを殺して彼の相続財産を自分のものにしてしまおう』と考えて、彼をぶどう園の外に連れ出して殺してしまった」という話をするのであります。そしてこう人々に問うのであります。「その主人は当然そうしたことをした農夫たちをひどい目にあわせ、殺すだろう」、そのように問いかけたあと、イエスは不思議なことをいいます。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石になった。これは主がなされたことであって、わたしたちの目には不思議に見える」と聖書に予言されているではないか、というのです。

 これはいうまでもなく、イエスがご自分の十字架の死について語られたことであります。人々は神のぶどう園を自分たちのものにするために神のひとり子であるイエス・キリストを今殺そうとしているということであります。だから、人々にとって、神がひとり子をこの世に送ったということは、大変迷惑なことだったのだということであります。

 そしてさらにイエスが語ることは、主人のひとり息子を殺した農夫達を主人は本当なら、殺し返すのがことのなりゆきの筈である、しかしこの主人はそうしない、その農夫達が殺した主人のひとり息子が、そのぶどう園を救うものになるのだ、ちょうど家を建てる者がこの石は役に立たない、この石はかえって邪魔だといって捨てた石がいつのまにかその建物全体を支える隅の頭石になっているように、と語るのであります。

 われわれはイエス・キリストは本当はこの地上にいらしてくださらないほうが有り難いのです。神はただ現金封筒でお金を送ってくださればいい存在なのです。イエス・キリストがいなければ、われわれはもっと自由に想像力豊かに神様をイメージし、想像できたからであります。自分にとって都合のよい神さまを造って、そしてその神様を、神様、神様といって祈り、あがめられたからであります。

 しかしもうそうはいかなくなったということであります。このひとり子だけが父なる神をわれわれに示してくださったのだというのです。しかもそのかたを通さないで、神を自分勝手に想像してならないということなのです。このかたを通さない限り、もうわれわれは神を知ることはできないというのです。
 
 しかもそのひとり子であるイエス・キリストは、われわれがこんな救い主なら、われわれの救いには役に立たないといって、一度は捨てた石なのです。
 われわれはあのぶどう園のたとえを読んでいて、この家造りらによって捨てられた石が隅の頭石になったというところに来た時に、この石は、つまりイエス・キリストなのですが、それは誰かがもう役に立たないといって捨てた石、あの祭司長、ファリサイ派の人々律法学者たちが捨てた石、他の人々によって捨てられた石が、われわれを救う石になっったのだと読んでしまいますが、本当はそうではなく、あの譬えでイエスが語ろうとしていることは、われわれが捨てた石が、他のどこかの他人ではなく、われわれ自身がこんな救い主はいらない、こんな石は役に立たないといって捨てた石、それがわれわれの救いになったのだということであります。

 ですから、われわれは一度イエス・キリストを捨てているのです。他の誰かによって捨てられたのではなく、自分達が捨てているのです、自覚的にか意識的にかはともかく、一度捨てているのです、その自分達が捨てた石、そのかた、そのイエス・キリストをあらためて、そうだこのかたこそわれわれの本当の救い主だったのだ、このかたを通して神を信じようと告白する、それがわれはイエス・キリストを信ずという告白なのであります。
 
 イエスの弟子達がまさにそうでした。ペテロがそうでした。彼らはあんなに慕っていたイエスが逮捕され、十字架で殺される時にはみなそのイエスを見捨てていっているのです。その自分たちが見捨てたイエスを彼らはあらためて、自分たちの救い主として受け入れ、信じるようになったのであります。

それはパウロも同じであります。パウロも十字架で死んだイエス・キリストなぞ救い主である筈はないと思って、クリスチャンを迫害していたのであります。
 
 イエス・キリストご自身が、わたしにつまずかない者はさいわいである、といわれております。それは逆にいいますと、みんなが一度はわたしにつまずくのだということであります。われわれは「われはイエス・キリストを信ず」という告白をそれほどストレートに、素朴に告白するわけにはいかないのではないか。一度はこんな石は自分たちには役には立たないと言って捨てた石、それが自分たちを支える隅の親石になってくださった、そしてそれは自分たちがそうしたのではなく、神がなされたことで本当に不思議だという驚きをもって、この告白しなくてはならないとも思うのです。

 そうでなければ、われわれは自分のいだいている理想主義をイエス・キリストに押し込んでいることになっている。イエスは殉教者だった、自分もそういう正義の理想に燃える殉教者になりたいと思って、「われはイエス・キリストを信ず」と告白していないか。そういうヒロイズムによって、イエスを尊敬しようとしていないか。しかしイエスは十字架につく前に、自分は十字架で死にたくない、それを避けてください、と必死に父なる神に祈っているのであります。そしてイエスは最後には「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」と絶叫して死んでいるのです。それがどうして英雄的な、われわれの心をひきつけるような殉教者と言えるでしょうか。

 あるいは、イエス・キリストは禁欲主義者で聖人のような生涯を送ったかただった、祈りの人だった、そういうイエス・キリストにあこがれて、「われはイエス・キリストを信ず」と告白していないか。しかし実際のイエスはどうだったか。彼は大食漢、大酒のみと悪口をいわれるくらい人と食事をすることを好まれたかたであります。そしてファリサイ派、律法学者たちの断食や祈りを偽善的なものだと批判しているのであります。もっとも、この「大食漢」とか「大酒のみ」という悪口は当時は、父親なしの子に対する悪口だったともいわれております。イエスの父親ヨセフは早いうちになくなったと思われるからであります。それはともかく、イエスは決して禁欲主義者でもなかった、実に自由なふるまいをなさったかたであります。

 イエスは人を絶対に傷つけない、人を絶対に裁かない人、そういう善人で愛の人だったとわれわれは思っているかもしれない、しかし福音書をみますと、イエスくらい人を鋭く裁いた人はいないかも知れない。十字架に追いやられるほどに人を徹底的に批判し、裁いているのでりあます。ある時には暴力的に宮きよめをしているのであります。しかしその時イエスはご自分が裁いたその相手の罪を自分が担う、その罪に最後は責任を取るという覚悟をもって裁いておられるのです。

 かつては、イエスに対して「このかたこそ神の小羊、救い主だ」と証ししたバプテスマのヨハネは、そのあと「あなたが本当にキリストなのですか」と自分の弟子をイエスのところに聞きにいかせたというのであります。そのヨハネに対して、イエスは「わたしにつまずかない者はさいわいである」といわれたのであります。

 ですから、われわれは実際にイエスをこんな救い主なんかはいらない、役に立たないと捨てている筈なのです。そのことを知っておかなくてはならない、そうした上で、このかたがわれわれの救い主なのだと告白することが大切なのではないかと思います。自分達のイエスに対するイメージを一度捨てて、この地上にいらしてくださたイエス・キリスト、最初はありがためいわくかも知れないイエス・キリストを我らの救い主と受け入れ、告白しなくてはならないと思います。
 そのためには、われわれはそのイエス・キリストがどのようなかたで、そのイエスが何を語ったかを、福音書を通して学ばなければならないと思います。

 「いまだかって神を見たものはいない。父のふところにいる独り子である神、このかたが神を示されたのであります。」
われわれはすでに使徒信条の、第一の項目、父なる神についての告白について学びました。その時にすでに、全能の父なる神を信ず、というところで、この全能というのは、なにか魔術師や手品師がやるような全能ではない、われわれを救うということに関して神にできないことはないという意味の全能なのだということを、イエス・キリストの語られた言葉を通して学んだのです。そしてこの父なる神はひとり子であるイエス・キリストを十字架で殺さないでわれわれ人間を救うことはできないかただった、この父なる神の全能は、人間の救いに、人間の本当の救いにならないことはどうしてもおできにならない、そういう制限付きの全能なのだということを学んだのであります。

 天地の造り主なる神を信ずということでもやはり同じであります。
 父なる神についての信仰の告白もみなイエス・キリストを通して見、そして知った全能の父なる神であり、天地の造り主なる神に対する信仰の告白だったのであります。

 東京で下宿している学生にとっては、ふだんはただ現金封筒で現金だけを送ってくれるほうが本当はありがたいのです。しかしもしその学生が病気なっていて、下宿先でにっちもさっちもいかない時はどうでしょうか。そのときに親自身が乗り込んでき来てくれた、こんなにありがたいことはないのではないではないでしょうか。それは現金を送ってくれるよりもどんなに心強いかわからないと思います。
 主イエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」というのは、そのことをわれわれに告げているのであります。

 そしてこのかたはヘブル人への手紙では、大祭司としていらしてくださったというのです。「わたしたちには、もろもろの天をとおっていかれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司はわたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われた。だから私達はあわれみを受け、また恵みにあずかって時期を得た助けを受けるためにはばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」と記されております。

 われわれが救われるのは、ただ自分ひとり力ではない、自分の宗教的な修業とか、あるいは善行とか、献金とか、断食とか熱心な敬虔な祈りとか、そういうわたしひとりの力業によって救われるのでなはい、わたしのことをなにもかも知りつくしておられるかたがわたしの傍らにいて、とりなしてくださる、弁護してくださる、そういう助け手がいて、そういう大祭司がいて、われわれは救われる。このことはどんなにありがたいことであるか。そうでなくて、われわれはただ自分ひとりの力だけで救われたり、悟りを開いたとしたら、救われたあと、われわれはいつのまにか聖人になってみたり、偉人になってみたり、傲慢になることからはのがれらなれないのではないかと思います。

 しかしそうではなくて、われわれには、こういうイエス・キリストという大祭司がいて、とりなし手がいてくれて、救われるということは、われわれが救われたあと、われわれを限りなく謙虚にしてくれる、そのようにして救われるということはどんなにありがたいことかということなのであります。

 われはイエス・キリストを信ずと心から告白したいと思います。