「神のひとり子」 ヨハネによる福音書三章一六ー二一節

 「われはイエス・キリストを信ず」というところで、学びましたようにヨハネによる福音書の一章には、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、このかたが神を示されたのである」と記されておりました。そして、この神の独り子であるイエス・キリストを通さないで父なる神を知ることはできないことを学びました。そうであるならば、このかたを通さないと神を知ることのできないという、そのかたとはどんなかたなのかをわれわれはよく知りたくなりますし、また知らなくてはならないと思います。
  
 ヨハネよる福音書には、その前のところに、「律法はモーセを通して与えられれ、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」と記されております。
 
このイエス・キリストというかたは、神の恵みと真理があらわれたかただというのであります。それはイエス・キリストがただ神の恵みと神の真理、真実を語ったというのではなく、このかたに、このイエス・キリストという存在自体のなかに、その生き方において、その死に方において、このかたの中に神の恵みと真理があらわれたというのであります。
しばらくのあいだ、このイエス・キリストについて学んでいくわけであります。

 まずこのかたは神の独り子であるといわれております。カトリック教会では、礼拝のなかで使徒信条を告白するということはないのだそうです。洗礼を受ける者に対する教育には用いられるということですが、礼拝においては、使徒信条ではなく、その使徒信条とは少し違ったニケア信条というものを告白するのだそうです。そのニケア信条ではイエス・キリストについてこう告白するそうです。
「主イエス・キリストが神の子である。神より生まれしただひとりの御子、すべての世に先立ち父より生まれ、神より生まれし神、光より生まれし光、まことの神より生まれしまことの神、造られずして生まれ、父と実体を一つにし、万物これよりて成る」と告白されているそうであります。
 
そこで告白されていることのひとつは、イエス・キリストだけは、神から生まれた独り子、他の人間は神から造られた存在、しかしイエス・キリストだけは神から生まれた存在なのだと告白されているのであります。

 われわれ人間はみな神によって造られたものであって、神から直接生まれたものではないということであります。ですから、われわれが神を信じ、そしてその父なる神に対して「アバ、父よ」と呼べる時に、われわれは神の子になったのだといわれておりますが、その時の神の子というのは、神から生まれた子という意味ではなく、神に子として認められたという意味での「養子」という意味での神の子という意味です。
 しかし、神から生まれたイエスはいわば実子としての神の子なのであります。

 しかも、このかたは神の独り子だというのです。独り子というのは、いうまでもなく、ほかに子はいない、一人っ子ということです。ほかに兄弟はいないということであります。神の実子はこのイエス・キリスト以外にいない、ひとりであるということは、言葉をかえますと、他に代えることができない、かけがえのない存在だということであります。それだけこの独り子には父なる神の愛が集中的に注がれているということであります。

そういう父なる神の愛を一杯受けた独り子であるイエス・キリストが父なる神をわれわれに示してくださったということであります。
われわれは旧約聖書だけを読んでおりますと、時には神というかたがなにか閻魔大王にようなかた、罪を犯した人間をすぐ地獄に投げ込むようなかたというイメージをもってしまうかもしれませんが、そうではないということが、このイエス・キリストを通して神を考えるとわかるのであります。旧約聖書をよく読んでみれば、そこで示される神は決してそんな閻魔大王のようなかたではなく、愛の溢れる神だということは分かるのですが、しかし神の独り子であるイエス・キリストが来てくださつたことによって、われわれの神がどんなに愛の深いかたであるかということが一層明らかにされたということであります。

 われわれはイエス・キリストを通して父なる神の愛を知るのですが、それはイエス・キリストが父なる神について語ることによって、神の愛を知るということもできます。あるいは、イエスがなさったわざと行いを通して、そしてイエス・キリストが罪人に対して、病んでいる人に対して、望みを失っている者に対して、そして重荷を負うて苦労してる者に対して、命のことで思い煩っているものに対してどんなに深い愛をもって接してくださったかということを通して、父なる神を知ることもできます。

 しかし今日は特に、イエス・キリストの語る言葉と行いを通してではなく、父なる神が自分のかけがえのないひとり子をこの世に派遣してくださったその父なる神のなさったことを通して、父なる神の愛について学びたいと思っております。
それは今日のテキストでありますヨハネによる福音書の三章の一六節の言葉であります。
 「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣われたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない」というのであります。

 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛されたというのです。
「与えた」というと、聞こえはいいですが、内容的には、「捨てた」ということではないかと思います。イエス・キリストが十字架の上で、最後に絶叫した言葉は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てなったのですか」と言う言葉です。父なる神に捨てられたという言葉です。父なる神がご自分の独り子をこの世に送ったとき、神はこの独り子を、この世を愛するために、われわれ人間を愛するために捨てよう、と決断したということであります。

 ですから、この独り子はその父なる神の意志をくんで「キリストは神の身分でありながら、神と等しく者であることに固執しようとは思わないで、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であられた」というのであります。

 父なる神がこの独り子イエスをこの世に送ったとき、この独り子である神の子をこの世の汚れの中に送り、お前はこの世の汚れの中に汚染されてきなさい、もうお前は神の栄光の座を捨てて地上に降りていきなさいということであります。それは父なる神はこの独り子をこの世に賜ったとか与えたというよりは、この独り子を捨てた、それほどにわれわれを神は愛そうとしたということであります。そうしなければ神はご自分の愛をわれわれ人間に示し得なかったということであります。
  
 このことでわれわれが思い浮かべるのは、旧約聖書にあるアブラハムが自分のひとり子イサクを神に捧げたと言う記事であります。アブラハムはようやく念願かなって生まれた独り子なるイサクを神に捧げた、捧げたというと聞こえはいいですが、実際は殺したということであります。少なくも殺そうとしたということであります。

アブラハムとサラとの間には、長い間子供が与えられなかった。聖書の話によればようやく百歳になってイサクという実子が与えられた。それまでは子が生まれるという約束は受けていたのですが、ちっともその兆しがないので、アブラハムとサラはいろいろと策をねって、養子をとったりするのです。その度に神からしかられる。そうしてようやく百歳になった時に実子が与えられた。これでもう自分たちの将来は安心だと思っている矢先に、ある時いきなり神から、「お前の子、お前の愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」といわれるのです。聖書はその時のアブラハムの心の動きは何一つ記してはりおませんが、もう断腸の思いであっただろうと思います。

 われわれはここの記事を読む時に、神というかたはなんと残酷なことを命ずるかただろうかと思うのです。
 そしてアブラハムがいざイサクを燔祭として捧げようとして、刃物をとってイサクを殺そうとした時、御使があらわれて「その子に手を下すな。何もしてはならない。お前が神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。お前は自分の独り子である息子すら、わたしに捧げることを惜しまなかった」というのです。これでは、もうアブラハムにとって、イサクを殺したと同じであります。もう心理的には殺したと同じであります。だからこそ、御使は「お前は自分の独り子である息子すら、わたしに捧げることを惜しまなかった」と言っているのです。

 われわれはこの記事を読む時に、神というかたはなんという残酷なかたかと思います。これはイサクの教育のために、つまり、かわいい子には旅をさせるとか、ライオンは我が子を崖から突き落として、子を訓練するとか、そういう教育のために我が子を捧げるというようなことではないのです。ここでは捧げるということですが、実際は殺すことなのですから、それはもう子供のため、イサクの教育のため、子離れのため、親離れのためにではなく、もう殺してしまうのですから、子離れも親離れもないのです。

 なんと残酷な話かと思うのです。旧約聖書の神さまというのは、なんと残酷な神かと思うかもしれません。それならば、新約聖書の神はどうでしょうか。アブラハムに対して自分の独り子を捧げよ、といわれた神は、ここでは、神ご自身が同じことをご自分の独り子に対してなさっているのです。しかもアブラハムには途中でやめさせましたが、ここでは神は実際に神のひとり子イエスを十字架で殺しているのです。

 神はなぜそんなことをなさったのか。それは「世を愛された」からだというのです。この世を救うためにそうなさったのだというのです。そうしないと、この世は救えない、そうしないと神のみこころは示せない、神の愛は人間にはわからないと思われたからであります。
 神がアブラハムにひとり子イサクを神に捧げよ、と命ぜられたのは、アブラハムが神を本当に畏れるものであるかを知ろうするためだったといのうです。神よりもわが子を愛そうとしているか、我が子に執着しているかどうかを試そうとしたというのです。それは神よりも自分を愛そうとしているかを試そうとしたということであります。それがアブラハムが試されたことであります。創世記の説教の時にも言いましたが、後にアブラハムがイサクから「お父さん、あの時わたしを殺そうとしましたね」といわれた時に、アブラハムはイサクに対してなんと答えるだろう、アブラハムは我が子イサクに対して一生負い目を抱き続けたのだろうか、後ろめたさを感じつづけたのだろうか、そうではないだろう。我が子からそう問われた時に、アブラハムは「そうだ確かにわたしはお前をあの時殺そうとした。しかしその時、同時に私自身を殺していたのだ、わたし自身を捧げていたのだ」と答えただろうということを申しました。

 あそこでアブラハムが試されたことは、自分自身を愛するよりも神を愛するかということなのです。その信仰がためされた。そのように本当に神を畏れるかどうか、神を愛するかどうかが試されたのであります。

 アブラハムの場合は、自分よりも神を愛するかどうかが試された。つまり、アブラハムは神に従い、神を愛するためにわが子を捧げたのです。それと同じように、ここでは神はわれわれ人間を愛するために、神のひとり子を捧げたのです。
 
 神はその独り子を与えたほどにこの世を愛されたというです。われわれ人間を愛するために、そうしてもっと正確にいえば、神の愛というものがどういものかを人間に分かってもらうためには、この方法しかなかったということであります。つまり、神の愛というのは、ご自分のかけがえのないもの、ご自分の独り子であるイエスを十字架で殺す、その様な自己犠牲をともなう愛だということであります。アブラハムがわが子イサクを殺そうとした時に、アブラハムは同時に自分自身を殺したのと同じように、神がご自身のひとり子イエスをこの世に与え、十字架で殺した時には、いわば神ご自身がご自分を殺して、ご自分を犠牲にして、その愛を示されたということであります。

 愛は自己犠牲が伴うのです。自己犠牲が伴わない愛は愛ではないのです。それは自己犠牲そのものが目的ではないのです。自己犠牲は愛を示すためのひとつの、しかし究極的な手段なのです。「神はそのひとり子をお与えになったほどに、この世を愛された」といっているように、この自己犠牲は、あくまで「お与えになったほどに」、「ほどに」」というのですから、この世を愛するという目的を達成するための手段なのです。

 自己犠牲そのものが目的になるような愛は決して愛ではないのです。自分が自分の命を犠牲にした、どうだ、自分の愛はこんなにも崇高なのだというのでは、愛でもなんでもないのです。そんなふうに愛されほうは迷惑するだけです。 

 ヨハネによる福音書にはその一五章でも「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言葉があります。ここだけみますと、自分の命を捨てることが目的の様に誤解されますが、その言葉の前の言葉は、「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい、これがわたしの掟である」という言葉があって、「友のために自分の命を捨てる、これ以上の愛はない」という言葉が続くのです。つまり、あくまで、互いに愛し合うということが目的なのです。その目的を達成するためには、お互いに自分の命を捨てるという自己を犠牲にする覚悟が必要だ、自分を捨てるという覚悟のない愛、自己犠牲のともなわい愛は愛とはいえないということであります。

 神はわれわれ人間を愛するために、ご自分のもっともかけがえのない独り子をこの世に送った、われわれのために独り子を十字架で殺した、犠牲にした、そうすることによってなんとかしてわれわれ人間が神の愛というものがどういものであるかを知って貰おうとして、そうされたのであります。それをわれわれが知って、救われてもらいたかったのであります。なぜか。それはわれわれ人間がそういう自己犠牲の愛をもって互いに愛していないからです。われわれ人間が何よりも自分をかわいがり、自分が一番大事、神よりも自分が大事、神を本当に畏れていない、どこまでいっても自分中心だからであります。われわれ人間が罪人だからであります。

 神がわれわれを救うのは、ただ人間を健康にするとか、幸福にするということが人間の救いだとは考えていないのです。神がわれわれを救うのは、われわれを自己中心的な考え、そのような生き方しかできないでいる人間をその罪から救うためであつたのです。そのためには、どうしても神ご自身がご自分のもっともかけがえのない独り子イエスをこの世に送り、そして十字架で殺す以外にその道はなかったのであります。

 マタイによる福音書の十一章の二七節にこういう言葉があります。主イエスの言葉です。「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかに、父を知る者はいません」という言葉があります。ここをみますと、父なる神を知るものは、子であるイエス・キリストと、そしてイエス・キリストがそのように思われた者、口語訳には「父をあらわそうとして子が選んだ者」となっておりますが、子であるイエス・キリストがそうしようと思われた者にしか父なる神のことは知ることができないというのですが、ここでいつも不思議に思うのは、「子を知る者は父なる神のほかにはいない」と言う言葉なのです。われわれには本当は子であるイエス・キリストのことは知ることはできない、イエス・キリストのことを本当に知っているのは、父なる神だけなのだというイエスの言葉であります。

 イエスは自分のことは、あなたがた人間には到底わからないだろう、自分のことを本当に知っているのは、わたしの父、神だけだというのです。これはこの子であるイエス・キリストと父なる神がどんなに親密な関係にあるかを示す言葉ではないかと思います。その親密な関係にある独り子であるイエスを神は今われわれを救うためにこの世に与えたというのであります。