「われらの主イエス・キリスト」 フィリピの信徒への手紙二章六ー一一節

 使徒信条の第二の項目、イエス・キリストについての信仰告白のところを学んでおりますが、先週は「われはその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」という告白の「ひとり子」ということ、つまり、イエス・キリストは神の独り子であるということを学びました。今日は「我らの主イエス・キリスト」ということを学びたいと思います。

 われわれはイエス・キリストを信ずと言うとき、我らの主イエス・キリストと告白するのであります。「我らの主」と告白しなくてはならないのです、というよりも、我らの主イエス・キリストと告白したくなるのであります。それはたとえば、福音書を学んでいるときに、しばしばイエス・キリストについて、イエスはこういわれた、と説教する時に、ただイエスはこう言われれたとはどうしてもいいにくい、そのように言う時もありますけれど、たいていは主イエスはこういわれたと「主」という言葉を付け加えたくなるのであります。どうしても、ただイエスと呼び捨てにする気になれないということであります。「イエス様は」というと何か甘ったれた感じがして、あまり使いたくないので、そうなると、やはり「主イエスは」という表現をとらざるを得なくなるのでりあます。場合によっては、もちろんただ「イエスは」という表現をすることもありますけれど、その時にはなにか「申し訳ない」という気持ちをもちながら、そう言っているわけであります。

 ある著名な神学者がずっと以前に、「イエスという男」という本を出しましたが、その神学者は聖書というものを信仰の書として見るのではなく、歴史の書物として見ようとする立場から聖書を見ている学者なのですが、そしてあえて教会的なイエス像というものを壊そうという意識があってでしょうが、「イエスという男」と表題にしたようなのであります。それに対してフランスから日本の大学で講義するために帰ってきた森有正という哲学者が、とうとうイエス・キリストについてそういうことをいうようになったのかと慨嘆しておられたことを思い出します。

 われわれはイエス・キリストについてその信仰を告白しようとする時に、どうしても「我らの主イエス・キリスト」と言いたくなくるのです。これはいろいろと神学的に厳密に考えて、ここは「われわれの主」と言おうというのではなく、「イエスは」という時に、それをそのまま呼び捨てにできないで、「主イエスは」といいたくなるのと同じように、「我らの主イエス・キリストを信ず」と告白したくなるのであります。

 パウロはコリントの信徒への手紙で、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」と言っております。つまり「イエスは主である」という告白は人間的な思考に思考を重ねた上での結論というようなものではなく、信仰者の内側からほとばしりでてくる信仰の告白であるということなのであります。それは逆にいいますと、「イエスはわれわれの教師である」とか、あるいは、「イエス・キリストはわれわれの救い主である」とか、という告白は、われわれの人間的な思考の積み重ねの上で、そのように結論づけることができるかもしれない、なにも何聖霊によらなくても、そのように告白できるかもしれない、しかし、「イエスは主である」という告白だけは、聖霊によらなければ、できないことだということだということであります。

 なぜかといいますと、「イエス・キリストは主である」と言う告白は、さきほど読みました、フィリピの信徒への手紙によれば、「神はキリストを高く引き上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。そうして天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」とありますように、「イエス・キリストは主である」と告白するのは、われわれがひざをかがめて、そう告白しなくてはならないからであります。

 われわれがひざをかがめないと、「イエス・キリストは主である」とは告白できないということであります。われわれはひざをかがめるということは、あまりしたくないのではないでしょうか。それは自分がしもべの立場に立つということだからであります。自分が奴隷の立場に立つということだからであります。ですから、「イエス・キリストは主である」という告白は優しい告白のようでいて、これはわれわれには、大変困難な告白なのです。われわれがよほど謙遜にならないとできない告白なのです。だからこれは到底自分だけの決意とか決断でできることではなく、聖霊の導き、神の霊の導きがなければできない告白なのだというのです。

 時々紹介しておりますけれど、竹森満佐一の小さいパンフレットのなかの「礼拝」という本の中で、「礼拝とは神を拝むことである」という文に出会ったときに、衝撃を受けたことがあります。その本の中でこういわれているのです。「礼拝とは神を崇めるというのでは恐らく十分ではない。それは神を拝むことなのだ。私達は神を礼拝するとか、崇めるとか、言うけれど、神を拝むということは、少し異様に感じるのではないか。拝むということは、お寺やお宮ならありそうなことだが、キリスト教では、場違いだという気持ちがあるのではないか。それほどに、神を拝むという真の意味の礼拝が私達から遠いものになっている」と書かれているのであります。
 
 われわれ日本人は戦争中いやというほど、神社で拝むことを強いられてきました、その反動で、おおよそわれわれは拝むということを拒否してきたという歴史的な背景をもっております。一切の権威というものを否定するところから、戦後の歴史が始まったといってもいいかもしれません。そのように始まった日本が幸せな道を歩んできたかと言えば、そうでなかったということは、今みな身に沁みて感じていることではないかと思います。

 もう何も拝まなくなった、もう何に対してもひざまづかなくなった、おおよそ権威というものを認めなくなった、その結果結局は自分しか頼れるものがなくなってしまった、それがどんなに自己中心的な文化を築いてきたかということであります。しかし自分というものがそれほど頼りになれるものではないことはみなよく知っておりますから、みな大きな不安をかかけながら生きることになったのであります。

 われわれが、拝むということやひざまずくことを拒否するようになったのは、戦時中の体験が影響しております。いわゆる不敬罪というのがあった、そういう法律が実際にあったのかどうかさだかではないのですが、ともかく不敬罪というものにひっかからないように、わたしは子供心にも大変な神経を使ったものであります。新聞に天皇の写真が載っていたら、もうその新聞をまたぐことが許されなかった。政府のやることに、お上のやることに一切批判が許されなかった、戦々恐々と過ごしてきたのであります。ですから、われわれはもう二度とあのような奴隷にはなりたくないと思ったのは当然であります。
 
 今われわれがひざをかがめて、「イエス・キリストは主である」と告白する時に、それと同じように戦々恐々とした思いでそうするのでしょうか。そうではないとパウロはいうのです。「神の霊によって導かれる者は、皆、神の子なのであです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」というのであります。
 
 確かに「イエス・キリストは主である」と言う告白は、ひざをかがめて告白する告白であります。それはわれわれがしもべの位置に立たなくてはならないのです。しかしそれはわれわれが戦時中経験したような戦々恐々とした思いで、そうするのではないというのです、恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、神に対して、子供が素朴に率直に、「お父さん」と祈れるような、「アッバ、父よ」と祈れるような霊を受けたのだというのです。確かにしもべではありますが、神の子としてのしもべだというのです。

なぜそうなれるのか、なぜわれわれがイエスに対して「主」と告白する時にも、戦々恐々としなくていいのか、それはこのかたが「主」の位置に立ち、われわれがこのかたの前に立った時には、思わずひざをかがめて、「我らの主」と告白するようになったのは、このかたがわれわれのためにしもべになってくださったからなのです。
「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた。人間の姿になって現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため」というのです。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父なる神をたたえるのだ」というのです。

 このかたは刀をならしたり、鞭でおどかすようにして主人になったのではなく、みずから僕としてへりくだってくださった、だからこそわれわれは思わずひざをかがめて、このかたこそ、「我らの主だ」と信じ、告白できるようになったのであります。
このかたは何よりも父なる神の僕でありました。福音書はこの主イエスについて、イザヤ書の言葉を引用して、このかたは神の選ばれたしもべだといいます。「彼は争わず、叫ばす、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」かただというのです。

 傷ついた葦、折れて川辺に生えている葦、それは植物としてのことならば、ひとつの美しいというか、ロマンチックな風景のひとつかもしれませんが、これがわれわれ人間のことだとするとどうでしょうか。ある人が言っておりますが、傷ついた葦、挫折した人という人ほど、扱いにくい人はいない、彼は素直だろうか、傷ついた人というものは、たいていはひねくれている、人一倍自尊心が強い、そういう人を傷ついた葦を折らないのと同じようにして、接する、そうして立ち直らせてあげるということは大変な困難がいるではないかというのです。よほど謙遜な人でないとそれはできないことであります。
 主イエスはそのように歩まれたかたなのだというのです。それはこのイエスご自身が神の僕としての立場に死に至るまで、十字架の死に至るまで立ち続けたからだというのです。

 イエスはある時、弟子達が自分たちのうちでだれが一番偉いか、だれが天国で上座につくかということで争っていた時に、こういわれました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は皆のしもべになりなさい」といわれました。この主イエスの論法はおかしいと言えばおかしいのです。「偉くなりたい者は」とか、「いちばん上になりたい者は」こうしなさい、というのですから、おかしいではないかと思いたくなるのです。なぜもっとはっきりと、「偉くなりたいと思うな」「いちばん上になりたいと思うな」と言わないのかという気がいたしますが、これはひとつのレトリック、言葉のあやかもしれませんが、それよりは、一度本当に仕えるということを経験したもの、一度本当に僕になりきった者は、立場が変わって、自分が主人になり、あるいは指導者の立場に立たされる時があったとしても、主人の立場に立っていながら、いつもいつも僕の気持ちを忘れない、人に仕えるという思いを忘れないでいる、それが本当の主人になるということなのではないかと思います。

 まさに主イエスがそうだったのです。主イエスが何よりも父なる神のしもべに徹しておられた、そして具体的にわれわれに人間に仕えてくださった、だからこそわれわれは安心して、心から「われらの主イエス・キリストを信ず」と告白できるのではないか。

 使徒信条は、「われは信ず」という告白で始まっているということを最初に申したと思います。つまり、これは「われわれは信ず」という告白ではなく、「われは信ず」という、わたしはこう信じる、というひとりひとりの信仰の告白だということであります。しかしここでは、「われはわれらの主イエス・キリストを信ず」と、ここだけは、「我らの主」と、複数形が使われて告白されているということも大事なことであります。イエス・キリストが主であるということは、ただわたしひとりの主人であると言う告白ではなく、「我らの主」と告白されているということなのです。それは個人的な「主」ではなく、あなたにとっても、「主」だという告白であります。これは直接的には、ここでいわれている「われら」というのは、イエス・キリストを信じる教会という共同体の「われら」ということでしょう。しかしそれだけではないと思います。それは全世界の「われらの主」ということを含んでいる告白ではないかと思います。

 イエス・キリストはただわたしひとりの主ではない、教会の主だけでもない、全世界の主なのだという告白であります。
 聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないという時、その前のところでは、パウロはこういうのです。「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは呪われよ』とは言わない」という言葉を受けて、それに続いて聖霊によらなければ、という文章が続いてるのですが、新共同訳聖書では残念ながら、口語訳で「イエスは呪われよ」というところを「イエスは神から見捨てられよ」となっておりますが、これは特別な字が使われていて、当時教会の外では、教会に反対する者がいて「イエスは呪われよ」といって、それがひとつのイエスをののしる言葉としてつかわれていたようなのです。ですから「イエスは神から見捨てられよ」という訳ではおかしいのです。

 つまり「イエスは主である」という告白が教会のなかだけの告白であるならば、まわりの人から教会外の人からそんなふうに非難されたり、呪われる言葉を受ける必要はなかったのです。しかし「イエスは主である」と言う告白は、ただ教会の中だけの告白ではなく、全世界を巻き込む告白であった、だから、イエスなんか信じたくない、イエスなんか自分達の主人ではない、そんなイエスは呪われよ、そんなイエスを信じる者は呪われよ、と、教会を迫害する人々が出てきているのであります。

 われわれはキリスト教の独善主義になることは警戒しなくてはならないと思いますが、しかしわれわれはこのイエス・キリストが全世界の主であると告白したいし、しなくてはならないと思います。どこまでも謙遜の限りをつくし、しもべの道を歩み、そうしてすべての人に僕の道を歩みなさい、仕えることをしなさい、そのようにして人を愛しなさいと言い続け、そうして自ら十字架で死んでくださったイエス・キリストこそが全世界の主だということを証ししていかなくてはならないと思います。

 心から信頼できる人がいて、その人に仕えることのできる人がいるときに、われわれは謙遜になることができます。謙遜になることができるだけでなく、本当に自分の力を抜くことができます。前の月に交読として用いました詩篇の四十六篇には、口語訳では、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」というところを、「力を捨てよ、知れ、わたしは神、国々にあがめられ、この地であがめられる」という訳に変わっていて、少し残念な気がしておりますが、しかし、その「静まって」というところを「力を捨てよ」と訳しているのも、あるいはなかなか味のある言葉ではないかとも思います。

 自分には本当に信頼できる主人がおられる、「我らの主イエス・キリストを信ず」と、告白できるとき、われわれは自分の肩から力を抜くことができるのではないか、なにがなんでも自分が自分が、と肩を張っていきていく生き方から少し違うよに生きることもできてくるのではないか。何が何でも自分が責任を取らなくてはならない、自分ひとりが責任を負わなくてはならないという生き方から離れて、最終的には神に責任を預けて、言葉は悪いですが、少し無責任な生き方もできるようになるのでなはいか。「われはわれらの主イエス・キリストを信ず」と、この礼拝において、ひざをかがめて告白したいと思います。