「聖霊によりてやどり」 使徒信条その七 ルカ福音書一章二六ー三八節

 使徒信条の第二の項目、イエス・キリストについての信仰告白について学んでおりますが、今までは、イエス・キリストが「神のひとり子」であったということと、イエス・キリストは「われらの主である」ということを学びましたが、今日はひとり子であるイエス・キリストがどのようにこの地上に来てくださったかということに対する信仰告白であります。

 イエスが誕生したのは、「処女マリアより生まれ」と告白されます。われわれはイエス・キリストの誕生のことを考えるときに、イエスが処女マリアから誕生したということばかりを強調して考えがちでありますが、使徒信条は、そして聖書は、処女マリアより生まれということよりも、もっと大事なこととして、イエスは「聖霊によってやどったのだ」ということをまず告白するのであります。

 イエスは人間であったけれど、その生涯にわたって、さまざまな試練にうち勝ち、修業に修業を重ねて、ついに神の子になったのだというのではないのです。あるいは、イエスは人間であったが、突然ある時、啓示を受けて、神秘的な体験を経て、神の子になったというのでもないのです。もともと神のひとり子であったイエスがこの地上に来られたということなのです。人間が上昇して神の子になったのではないのです。その逆で、神の子が人間になったのであります。

 パウロは当時キリスト賛歌と言われて歌われていたとも思われます讃美歌を引用してこういうのであります。「キリストは神の身分でありながら、神とひとしい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、」と述べるのであります。
 
 神の子が人間になられたのであります。それはどのように起こったのかというのが、今日学びます、「主は聖霊によりと宿り、処女マリアより生まれ」という告白であります。神のひとり子イエスは天の羽衣のようにある時、海岸の浜辺に降り立ったのではないのです。あるいは、終始、天使として、天使らしい装いをして、時々その姿を現すというかたちでこの地上に来られたのでもないのです。われわれと同じ肉の弱さを担いつつ、人間としてこの地上に誕生してくださったのであります。

 なんのためにかといいますと、われわれを救うためであります。われわれをその罪から救うためであります。そのためには、その誕生の仕方そのものからそれにふさわしい形をとってこの世に誕生したということであります。
それが「聖霊によってやどり、処女マリアより生まれ」という告白であります。

 まずこの神の子の誕生に際して、男性が排除されて、聖霊によってみごもったということであります。それが「聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ」ということであります。

 天使がマリアに対して、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたはみごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高きかたの子といわれる」と告げるのであります。マリアは驚いてこういいます。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」といいますと、天使は「聖霊があなたに降り、いと高きかたの力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。神にできないことは何一つない」と告げるのであります。それを聞いてマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と言ったのであります。

 このことについて、カール・バルトという神学者がこう述べているのであります。少しわたしの言葉でいいかえながら、紹介しますとこう述べております。 「『処女マリアより生まれ』ということは、人間の側からみれば、男性が除外されているということだ。男性はこの誕生と何の関係もない。いうならば、このことは神の一つの裁きの行為である。ここで始まることに対して、人間はその活動とは何一つ関わっていない。決して人間が除外されるのでない。なぜなら、処女マリアがそこにいるのだから。しかし、人間の指導の責任をもつ、人間的な活動と人間的な歴史の特別な担当者としての男性は、今ヨセフという無力な姿として、背後に退かなければならない。神は誇りと反抗の中にある人間を選ばす、むしろ弱さと謙遜の中にある人間を選び給うた」というのであります。

 男性がここでは罪人の代表として立たされているのだというのです。なんといってもこの世の歴史を担ってきたのは、男性だからであります。もちろん、女性には罪がないというのではないのです。罪人という点では男性も女性も同じなのです。しかしここでは、事実問題としてこの歴史の主役であった男性に人間の罪を象徴させているということなのであります。その男性がここでは排除されて、神の子の誕生があったということであります。

 そしてこういいます。「その歴史的役割の中にある男性である人間を選ばず、女性によって代表されているようなこの本性の弱さの中にある人間を選び給うた。神に対してただ『わたしは主のはしためです。お言葉どおりの身にゆりますように』という言葉によってだけ、神に対して立つことのできる人間、女性を選んだのだ。これだけが、この事柄における人間の協力としての働きである」といいます。

 イエスが処女マリアより生まれたということで、聖書は人間の、女性の処女性を神聖視したり、なにか特別なものとして考えるているわけではないのです。それは男性の自分勝手な思いから出た考えであります。「処女マリアより生まれ」ということは、人間の性による誕生のありかたを、性そのものを、夫婦の交わりそのものを汚れたものとしてみているわけではないのです。そんなことをいったら、人間の誕生があり得ないことになるからであります。聖書が、神の子が処女マリアより生まれたということは、その処女ということで、男性が排除されているということ、それだけをあらわしているのであります。

 しかしまたそれは同時に神の子イエスが天の羽衣のように天から降りてきたのではなく、具体的な人間のからだを通して、誕生したということで、ここではどうしてもマリアという現実の肉体を通して誕生しなくてはならなかった。それが処女マリアより生まれ、ということなのであります。

 ここでは男性が排除されているとバルトはいいますが、確かにルカによる福音書では、夫ヨセフはひとつも登場してきませんが、マタイによるの福音書には、逆にマリアは主役ではなく、もっぱら男性であるヨセフが主役であります。マタイはこう記します。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず、妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民である民を罪から救うからである』」と、マタイはもっぱら男性であるヨセフの側からこのことを記すのであります。

 ヨセフは正しい人であったという。だからまだ婚約中の身のマリアが身ごもったことを知った時に、そしてそれはヨセフに身に覚えがないことですから、他の男性による妊娠であるとし考えられないことでしたから、ひそかに離縁しようとしたというのです。もしこれが公になったら、マリアは大変なことになることを予想できたからであります。だから「ひそかに」離縁しようとした。ここにヨセフのマリアに対する深いいたわりと配慮はありましたが、結局はひそかにではあっても一度は離縁しようとしたということですから、やはりこれはマリアに対する裁きであることには変わりはないのであります。

 ヨセフは正しい人であったというのです。しかし人間のもつ正しさの限界がここにはあるということであります。
 旧約聖書に、ホセア書という預言書があります。ホセアという預言者の妻は大変な女性でした。ある時他の男と姦通して、子を宿した。預言者ホセアはもちろん直ちに離婚しようとするのであります。しかしその時神からその姦淫を犯した妻を迎えいれなさい、そしてその子どもを自分の子として育てなさいといわれるのであります。なぜなら、今神ご自身が、偶像礼拝に走って、他の神々と姦淫しているイスラエルの民を赦そうとしているからだ、といわれるのであります。これが神の正しさというものた、人間の正しさは、罪を犯した者を排除する、裁く、ただそれだけだけである。しかし、神の正しさはそれとは違う。神の正しさは、罪を犯した人間を赦し、受け入れるのだというのであります。預言者ホセアはこのことを通して神の深い愛を知らせていくのであります。

 それは後にパウロが神の義は、神の愛においてあらわされた、神の正しさは人間の罪を赦すという神の愛においてあらわされたと述べることになるのであります。

 ヨセフの場合はもちろん婚約者のマリアが他の男と関係をもって身ごもっていることを承知して、マリアを受け入れ、許したというのではないでしょう。ヨセフは天使の御告げを受けて、これは神の直接の働きかけ、聖霊によるものだということを信じて、マリアを受け入れたのであります。その点で預言者ホセアの場合とは違います。つまりホセアのように姦淫した妻を赦し受け入れたというのではないでしょう。ヨセフはこの天使の御告げを聞いたあとは、それでももしかすると、マリアのことを疑ったということはなかったでしょう。ヨセフはただ自分のいだいていた人間的な常識の領域としての正義感がこわされて、神の言葉に従ったということであります。人間の理性という常識を越えて、神の奇跡を受け入れたということであります。 

 男性を代表する者としてヨセフは、そのようにして、やはり神の子の誕生に関わっているのであります。マリアとは違って、ある意味では、マリアよりももっと神の言葉を信じることを求められているのです。なぜなら、マリアの場合は、ある意味では、マリアが信じようが信じまいが、彼女の胎内の子供は成長していくわけですから、マリア自身、自分が男と関係をもったという経験がないわけですから、いやがおうでも、事実が聖霊によって身重になっていくことを知らされていくわけですが、ヨセフの場合は、マリアが他の男と関係をもたなかったということ、マリアの胎内にいる子が聖霊によるものであるということは、ただ信じる以外にないのです。女性であるマリアよりも、もっともっと深い、そして強い信仰を必要とされた筈であります。ですから、ここでは、バルトは男性が排除せれているのだといいますが、確かに排除はされていますが、その代わりに、男性が裁かれて、神に従うという信仰を求められ、そしてヨセフは見事にその信仰をもって、この誕生に参加しているといってもいいと思います。

 ヨセフはマリアの胎内にある子が他の男との関係によるものではないかと一度も疑うことはなかったと思います。もしそのような疑いがいささかでもあったとしたら、やはりなんといっても、この夫婦は暗い陰を落としていたはずであります。なにかの時にその陰は、その子供に、イエスに影響を与えずにはおれなかった筈であります。

 しかしイエスはこのヨセフとマリアという夫婦どうしのの愛情のもとで、その愛に包まれて成長していったのであります。聖書はイエスがどのような少年時代を過ごしたかはひとつも書いておりませんが、ただ一カ所ルカによる福音書が、イエスの十二歳の時の宮参りのことを書いているだけです。その時代のイエスのことについて、ルカは「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」と述べているのであります。イエスがどんなに愛情に包まれて成長していったかということであります。だからまたイエスは愛をごく自然に豊かに現すことができたのであります。

 このヨセフは大工でありました。といいましても、イエスみずから自分は大工の子だったといったわけではありません。福音書にはただ一カ所、イエスのなさった奇跡を知って、故郷の人々が信じられないで、「この人はこのような知恵と奇跡を行う力をどこで得たのか。この人は大工の子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹達はみな、われわれと一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべていったいどこから得たのか」と言ってイエスにつまずいた、と記されているところだけなのです。ただこうも言われています。イエスが「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」といわれたのは、イエスが父と一緒に大工の仕事を手伝って、くびきを造った経験から出た言葉ではないかとも考えられます。またイエスが「人を裁くな」といわれた時に、「兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の中の丸太にきづかないのか」という言葉とか、また建築をするときには、ちゃんとできるかどうかをあらかじめ、計算してつくるではないか、だから十字架を負うと決断するときには、慎重に考えてしなさい、といわれた言葉などは 、イエスがお父さんの大工の仕事を手伝ったことを伺わせるということであります。

 また銀貨十枚のうち、一枚をなくして、それを見つけるまで探し、見つけたら隣近所の人を呼び集めて一緒に喜ぶというたとえなどは、イエスがその一枚の銀貨を大事にするという経験をあらわしていて、イエスは裕福な家庭で育ったのではないのではないかともいわれます。大工という仕事は、当時はそれほど裕福ではなかったし、しかしそうかといって極度に貧しかったわけでもなかっただろうということであります。

 イエスのお父さんヨセフの名前はでてきませんから、恐らく早いうちになくなったのではないかともいわれます。父を亡くしたあと、イエスは兄弟姉妹を支えるために大工の仕事をしたのではないかともいわれております。
 
 ともかくイエスはヨセフとマリアという仲のいい夫婦のもとで、愛情を一杯受けて、神と人とに愛されながら成長していったのであります。それがまたイエスが「聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ」という信仰の告白の内容でもあると思います。つまりイエスは事実、本当に人間の子としてこの地上に生活したのだという信仰の告白なのであります。

  つまり、教会は、この「聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ」という信仰告白によって、イエスはまことの人であり、まことの神であるという信仰を告白してきたのであります。

 ヨハネの第一の手紙には、「イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは反キリストの霊である」とあります。そして同じ箇所では、「もし人がイエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまいして、その人は神のうちにいる」というのであります。当時、イエスはただ人間の姿をとっているだけで、神ではあるが人間ではないという哲学が流行していた、また逆に、イエスは人間であって、決して神の子ではないという主張もあったのです。その二つの主張をしりぞけて、「イエスはまことの神であって、まことの人であった」という告白をしたのが、この信条なのであります。

 イエス・キリストは罪は犯されなかったが、まことの人間として来られて、われわれ人間の弱さを知ってくださったからこそ、イエス・キリストは本当の救い主になられたのだというのがわれわれの信仰だからであります。

 この「聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ」という信仰の告白は、われわれの人間理性の常識を越えたことであります。これを受け入れためには、ヨセフのように自分の正しさを捨てて、神の正しさを信じ、マリアのように、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」というへりくだりの信仰を必要とするのであります。