「苦しみを受けるイエス」使徒信条その八 マタイ福音書二六章三六ー四六節

 使徒信条は、イエス・キリストが「聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ」と告白したあと、いきなり、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と続きます。福音書でも、確かにイエスが誕生したあとの記事は、すぐイエスが福音を公に宣べ伝え始めた時、恐らく三十歳くらいの時ではないかと思われますが、その時に飛んでしまいまして、イエスが少年時代、青年時代はどのように過ごされたのかということは記していないのですが、それでもイエスが十字架で死ぬ前の一、二年のことは記しております。何を語り、どのようなことをなさったのかを記しているのであります。しかし、使徒信条は、そのことには一切触れようとしないで、イエスの誕生からいきなり、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみをうけられたということ、そして十字架につけられ、と続き、誕生からすぐ十字架の死へと飛んでしまうのであります。

 これは使徒信条は、われわれの救いに直接関係のあることだけを告白しようとしているのだということであります。そしてまた、それは福音書が記している十字架の死に至るまでの一年なり、二年なりのイエスの語られた言葉、なさったわざは、すべてはこの「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみをうけ、十字架につけられ」につながることなので、使徒信条はそのことを告白するのだということでもあります。

 主イエスの生涯というのは、すべてが苦しみに満ちていたわけではないのです。イエスは笑ったこともあったはずですし、もちろん喜んだこと、悲しんだこと、そして真剣に怒ったこともあっただろうと思います。そういうことがなかったならば、イエスがまことの人になったことにはならないからであります。しかしそうした喜怒哀楽は、すべてこのポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、というところにつながってくいのであります。主イエスは喜怒哀楽に無関係に生きたのでもないし、感動のない生活をしたわけではなかってのであります。よく学び、よく遊び、よく笑い、よく泣き、怒った、そうでなければ、われわれ人間を愛したことにはならなかったはずです。そしてそうでなければ、イエス・キリストが苦しみを受けながら、十字架で死ぬはずはないのであります。

 「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみ」という、ポンテオ・ピラトとは、ローマから派遣されていた総督の名前で、このピラトの決定によってイエスは十字架刑に処せられていくわけですが、そのことについては、この次ぎの説教で学びたいと思います。
使徒信条が「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみ」を受けと告白するのは、福音書にある、イエスご自身の言葉、「ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて、殺され」といわれたことをさしていると思われます。

 それはいわば迫害を受けるという苦しみであります。しかしそうした苦しみは、イエスにとって本当の苦しみであったかどうか、もちろんそれは苦しみであったには違いないのです、しかし、それはイエスご自身にとっての苦しみであったかどうか。つまり、それはわれわれの目からみれば、主イエスが長老、祭司長たちから苦しめられのだということはわかりますが、イエスご自身がそれを苦しみとして感じられたのかどうかということであります。といいますのは、主イエスはあの山上の説教といわれているところで、こう弟子達にいわれているからであります。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるととき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい」と主イエスは言っているのです。

 迫害を受けるということ、鞭打たれたり、嘲笑されたりすることは、確かに苦しいことには違いない、それはわれわれ人間にとってはこんな苦しみはないかもしれませんが、しかしこれはイエス・キリストにとって苦しみだったろうか、それを受けた時には、喜びなさい、大いに喜びなさいと勧めているのですから、それはイエスにとっては、本当の苦しみではなかったのでなはいかと思います。
 
 今日特に考えたいことは、少し使徒信条の「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」ということで言おうとしていることと少し離れることになると思いますが、イエスご自身が本当に苦しまれたことはなんだったかということ、そしてそれとポンテオ・ピラトのもとで受けられた苦しみとどう関連するのかということを考えてみたいのであります。

 つまり、イエスが苦しまれたのは、われわれが普通これが苦しみだと考える苦しみとは違っていたのではないかということなのです。
 われわれが苦しみとして感じる苦しみはどういうものでしょうか。われわれは自分が病気になった時にまず苦しむと思います。事業に失敗したときに、あるいは財産を失った時に苦しむと思います。自分のプライドが傷つけられた時には大いに苦しむ、一晩眠れないくらい苦しみ、のたうちまわるかもしれません。そしていわれのない悪口を言われたり、場合によっては、こちらが正義なのに、正しいことを言ったばっかりに、迫害をされた時には、口惜しくて、苦しむと思います。

 しかし主イエスはそうしたことを苦しみとして感じられただろうかということなのです。イエスが苦しまれたのは何か。福音書は、それはイエスがゲッセマネの園で父なる神に祈られた時に、本当に苦しまれた、と記すのであります。ルカによる福音書によれば、「イエスは苦しみもだえ、いよいいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」と記すのであります。その汗が血のしたたりのようになるほどに、この時イエスは苦しまれたというのです。この苦しみは、ただ自分が祭司長たち長老達に迫害されて殺されるという苦しみではなかったのです。なぜなら、そういう迫害としての苦しみならば、大いに喜べとイエスはいわれているからであります。

 イエスがこの時感じられた苦しみ、全身で、ご自分の全存在で、感じられていた苦しみとは、なんだったのか。それは悲しみであります。苦しみというよりは、悲しみであります。マタイによる福音書では、イエスは「そのとき、悲しみもだえ始められた。そして彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい』」といわれたと記されているのであります。
イエスにとっての苦しみは、悲しみだったのです。この時、イエスが悲しまれたのはどういう悲しみだったのか。それは神に捨てられる悲しみでした。イエスは十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれて息を引き取ったのです。その十字架で死ぬこと、ご自分の父である、神に見捨てられること、「それがあなたのみこころなのですか、わたしはどうしてもそれはいやだ」と、イエスはここで父なる神に祈られたのです。

イエスにとって、この時、十字架で殺されるということは、ただ敵の手によって迫害を受けて殺されるということではなかったのです。神に捨てられるという悲しみを味わっていたのであります。だから悲しみもだえ、死ぬほどに悲しい、といわれたのです。それは愛する者と切り離される悲しみであります。それがイエスの苦しみだったのです。

 そしてそれはわれわれにとっても言えることではないかと思います。われわれにとっても本当の苦しみは、愛してる者と切り離されるという悲しみではないか。財産をなくしてしまうとか、病気になって苦しむということも苦しいかもしれませんが、しかしその苦しみは、われわれのいわば、少し大げさにいえば、魂をゆさぶるほどの苦しみにはならないのではないか。しかし愛する者を亡くすということは、われわれの魂をゆさぶるほどの悲しみをあじあわされることであります。それは場合によっては、われわれの精神を病気にさせるほどの苦しみを与えるものであります。

主イエスにとっての苦しみは、今愛する父なる神から見捨てられようとしているということであります。そしてそれはなぜそういうことが今起ころうとしているかといえば、人間の罪のためなのであります。人間の罪を解決し、人間の罪を救うためには、どうしても自分の死が必要とされている、死をもってのあがないが必要とされている、そのために今、主イエスは、神に捨てられていこうとしているのであります。

 この時、主イエスが正義の英雄で、ただ自分が正しいことを主張したために、殉教の死を遂げようとしているならば、主イエスはもっと堂々と死に向かっていけた筈であります。しかしこの十字架の死はそういう殉教ではなかったのであります。人間の罪をご自分が負って十字架の道を歩んでいくであります。
 
 この主イエスを預言しているといわれているイザヤ書の五十三章にあります「主のしもべ、苦難のしもべ」といわれております歌もこう記すのであります。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのわたちたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに」と歌われているのであります。口語訳では、ここは「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌み嫌われる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」となっております。「多くの痛みを負い」というところは、口語訳では、「悲しみの人で」となっております。ちなみに、別の訳では「苦しみの人で」と訳されております。どれが原文に忠実なのかわたしには判断はできませんが、しかし今まで慣れ親しんできました口語訳の「悲しみの人で」という訳にわたしは心打たれます。

 このしもべはただ正義の殉教者として死んでいくのではないのです。われわれ人間の軽蔑と、裏切りと、われわれ人間の身勝手な理不尽な無視をうけながら、そういう人間の身勝手な自己中心という罪を負いながら、ほふり場にひかれていく小羊のように死んでいったのだというのであります。

 自分が愛してやまない人間に軽蔑され、見捨てられていく、そういう悲しみ、そういう苦しみを受けて、死んでいくのであります。

 主イエスも弟子達に最後は見捨てられて十字架につこうとしているのであります。このゲッセマネの園では、三人の弟子達がそばにはおりましたが、イエスが目を覚まして祈っているように、と言ったにも拘わらず、弟子達はみな眠りこけていたのであります。そして主イエスが考えて考え抜き、祈って祈って選んだ十二人の弟子のひとり、イスカリオテのユダが今先頭に立って、イエスを捕らえに来るのであります。

 主イエスは侮られ、人に捨てられ、悲しみの人であったのです。それは結局は人間の罪によって見捨てられていくということであります。こんな役に立たないものはいらないと、人々が捨てていく石であります。そしてそれがもっともむき出しになって示されたのが祭司長たちの行動なのであります。

 イエスはイスラエルの人々についてこう悲しむのであります。
「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、お前に遣わされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはお前の子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられてしまう」。
主イエスはわれわれ人間の罪についてどんなに悲しまれたか。そしてそのためにどんなに苦しまれたかということであります。

 イエスは今人に侮られ、人に捨てられ、悲しみの人として、そして今神にも見捨てられようとして、十字架で死んでいこうとしているのであります。これがイエスにとっての本当の苦しみでした。死ぬほどに悲しいといって、苦しみもだえた苦しみでした。

 今日はこのあと、讃美歌の三九九番を歌いますが、先週の週報の予告の讃美歌を代えまして、この讃美歌を歌いますが、この讃美歌は、わたしはメロディーも好きですが、この歌詞が好きでよく礼拝で選ぶ讃美歌のひとつであります。そしてよく考えてみますと、この讃美歌の歌詞は不思議な歌詞であります。こういうように歌うのです。
「なやむものよ、とく立ちて、恵みの座にきたれや、天のちからにいやしえぬ、悲しみは地にあらじ」と歌います。そしてこの「天のちからにいやしえぬ悲しみは地にあらじ」と繰り返し歌うのですが、ここには「天のちからに、つまり神様です、神のちからにいやしえない苦しみ、痛みはこの地にあらじ」と歌われているのではなく、天のちからにいやしえぬ、悲しみは地にあらじ」と歌われているのは、不思議であります。これは、われわれの苦しみとか痛みは、神様にもいやすことはできないかもしれないかもしれない、しかし、悲しみならば、神様にいやすことができない悲しみはないということなのでしょうか。

 確かにそうとれるかもしれません。病気になったときに、痛みとか苦しみは、これは医者がとってくれる痛みであり、苦しみであります。痛みによる苦しみなどは医者にとってもらわなくてはならないものであるかもしれません。それは神様がする仕事ではないかもしれません。

 しかしまた逆にいいますと、われわれの痛みとか苦しみは、お医者さんがとってくれるかもしれない、あるいは精神科の医者やカウンセラーがとってくれるものであるかもしれない。しかしどんな医者もカウンセラーもとることができないものがある、それは人間の悲しみだ、これだけは医者もカウンセラーも取り去ることはできないものだ、それは神だけが取り去ることのできるものだ、神様に取り去って頂く以外にない、そしてこの地上に、天のちからにいやすことはできない痛みとか苦しみというのはあるかもしれないが、天のちからにいしやしえない悲しみはないのだ、と歌われているのではないかと思うのです。

 われわれにとっての最大の苦しみは悲しみだということであります。その最大の苦しみである悲しみを、天のちからでいやすことのできない悲しみはないのだということで、わたしはこの讃美歌を歌うたびに深く慰められるのであります。
 
 なぜ天のちからでいやし得ない悲しみはない、と歌えるのでしょうか。父なる神は神のひとり子イエスのあのゲッセマネの悲しみはいやすことはできなかったではないか。この時主イエスも悲しまれましたが、父なる神も人間の罪を思って深く深く悲しまれたのであります。そして主イエスを十字架に追いやったのであります。その様にして、われわれに罪の悲しさを示して、そのイエスを神は最後にはよみがえらせてくださったのであります。神は最後にはイエスを見捨てなかったのであります。どんな最悪の時にも、神はともにいてくださるということを十字架と復活の出来事はわれわれに示してくださったのであります。
 だから、天のちからに癒し得ぬ悲しみは地にはないとしみじみと歌うことができるのであります。

 神がどんな時にも、われわれがどんな罪を犯した時にも決して見捨てない、それが神の愛だということを知らされたときに、われわれは自分の罪が赦されたことを知り、そして罪から解放されるのであります。そしてその神の愛と赦しを信じて、われわれもまた隣人に対して、そのように愛することができるようになる、そのようにして罪から解放されていくのであります。そのようにして、この地上から悲しみをなくしていくことができるのであります。

 パウロはわれわれ人間の救いについて述べてきて、最後にこういうのであります。「それではこれらの事についてなんといおうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ、惜しまれないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして御子のみならず万物を賜らないことがあろうか。だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。がれがわたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなしくださるのである。だれがキリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。艱難か、苦悩か」というのであります。どんな苦悩も、どんな悲しみも、われわれの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」と最後に結論として述べているのであります。それは「天のちからにいやしえない悲しみは地にあらじ」という宣言であります。