「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」マルコ福音書八章三一ー三三節

 主イエスは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」といわれました。「これ以上に大きな愛はない」ということですから、これは十字架の愛のことだと考えていいのでしょうか。十字架の愛というのは、最大の愛、これ以上に大きな愛はないという愛だと考えられるからであります。主イエスの十字架の愛とは、そのように人のために自分の命を犠牲にする、自分の命を捨てる、そういうことなのでしょうか。

 たとえば、よく話にきく、洞爺丸事件、台風で連絡船が沈没して、その時にひとりの宣教師が自分は独身だし、年をとっているからというので、そばにいる人に救命具を譲ってあげたというようなこと、それはまさに友のために自分の命を捨てる、ということですが、主イエス・キリストの十字架の愛というのは、そういう愛だったのでしょうか。

 それならば、使徒信条はなぜ、「十字架につけられ」という告白の前に、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とわざわざいうのでしょうか。つまり宣教師が自分の救命具を譲ってあげて自分は死んでいく場合には、なにも「苦しみを受け」ということはなくてもいいのです。もちろん、救命具をゆずる瞬間は苦しいでしょうが、しかし「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみ」というような長い期間にわたっての苦しみとは違うと思われます。
 
もし、ただ神の愛を示すというだけのことならば、あるいは、イエス・キリストがご自分の愛を示すということだけであるならば、そこではイエスはひとつも苦しむことがなくても、その宣教師のようにただ瞬間的に自分の命を犠牲にするだけでも、十分神の愛を示すことができた筈であります。

 しかし使徒信条は、「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と告白し、そして「十字架につけられ」と続くのであります。それはどうしてかといいますと、十字架において、主イエスがご自分の命を捨てたのは、「友のために」ということではなく、いわば「敵のために」ご自分の命を捨てなくてはならなかったからであります。そのために、主イエスは苦しみを受けられたということであります。

 十字架において示された神の愛は、ただの神の愛ではなく、罪人に対する神の愛、友のために示す神の愛ではなく、罪人に対する神の愛、自分に敵対する者に対する神の愛が示されようとしているのですから、そこに苦しみを受けるということがどうしても起こってくるということであります。

 主イエス・キリストは「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみ受けた」のであります。ポンテオ・ピラトは当時イスラエルを支配していたローマから派遣されていた総督の名前であります。当時のイスラエルには正式にはイエスを処刑する権限はなかったようなのです。たとえばステパノを石で打ち殺したように、そういう私的なリンチとしての処刑の仕方はあったでしょうが、法律に基づいて、人を処刑する、この場合は十字架刑にするということですが、そういう権限はなかったようなのです。それはヨハネによる福音書が記しております。祭司長、長老たちがピラトのもとにイエスを連れて行った時に、ピラトはイエスに関わりたくなかったので、「お前たちが彼を引き取って、自分達の律法でさばくがよい」といいますと、彼らは「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と答えているのであります。そのために長老たちにとって、ピラトの許可が必要だったようであります。

 ポンテオ・ピラトもとに苦しみを受けたというのは、直接ピラトから苦しみを受けたということではなく、そのピラトがイスラエルを統治していた時代の中で、イエスは苦しみを受けたということなのです。ポンテオ・ピラトの名前をもちだすことによって、イエス・キリストが十字架で殺され、そしてその前に苦しみを受けたのは、単なる哲学的な教理ではなく、実際に歴史上で起こったことなのだということを示そうとしたということであります。なぜなら、このピラトがいつイスラエルの総督として赴任していたかということは、具体的に確かめられるからであります。このピラトがユダヤ地方を総督として赴任したのは、西暦二六から三六年だそうです。

 使徒信条がイエスの苦しみについて告白するとき、「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と記しているのは、もうひとつの理由があるかもしれないと思います。それはイエスは生まれてから、ずっと苦しみを受けて育ったのではなく、ある時から、苦しみを受けるようになったのだということも暗示しているのではないかということなのです。それはどういうことかといいますと、このイエスを預言したといわれております、イザヤ書の「主のしもべ、苦難のしもべ」といわれております、記事をみますと、こう歌われております。「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のようにこの人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格もなく、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」と歌われております。

 そこで預言されている「苦難のしもべ」は、もう生まれた時から水のないひからびた地から生え出たみすぼらしい木として育ったように預言されている、もう生まれた時から苦難を背負い、苦しみを受けてて育ったように預言されているのであります。
 しかし実際にこの世にあらわれた救い主は、イエス・キリストは、そうではなかったのです。彼は少年時代は、神にも人にも愛されて育っていったのです。決してただ苦しみの多い少年時代青年時代を過ごしたわけではなかったということであります。イエスは少なくも三十歳になるまでは、われわれと同じように喜怒哀楽を経験した人間として育ったのではないかと思います。そうでなければ、イエスが「まことの人に」なったとはいえないからであります。

 イエスは人生の喜びも、悲しみも、怒りも、われわれと同じように味わったのであります。そうでなければ、このポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、という苦しみは、はなはだ観念的な苦しみになってしまうはずであります。人生における喜びも悲しみも怒りも十分経験しておられたからこそ、ここで主イエス・キリストが受けられた苦しみに意味があるのだということなのです。この主イエスが受けられた苦しみが、何か哲学者が味会うような観念的な苦しみではなく、われわれも経験する苦しみであります。だからこそ、主イエス・キリストがこのポンテオ・ピラトのもとで苦しみまれたことをわれわれも自分のものにすることがてぎるし、この主イエス・キリストの受けられた苦しみは、われわれ人間の救いにつながる、われわれのための苦しみであるということがわかるのであります。

 それでは主イエスが受けられた苦しみとは何だったのか。主イエスは誰から苦しみを受けたのかということであります。ならず者から暴力を受けて苦しまれたのか。何か意地の悪い人から苦しめられたのか。
 そうではなかったのです。イエスは、いわば正義の人から苦しみを受けたのであります。律法学者、ファリサイ派の人々、時のイスラエルの最高権力者たち、祭司長、長老たちから、苦しみを受けたのであります。

イエスは、「わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くために来たのだ」といわれました。イエスはいわば、イエスが招こうとしなかった義人、自分は正しいのだと自負していた義人から苦しみを受けて、十字架へと追いやられたのであります。自分は正しいと自負していた人々、律法学者、ファリサイ派の人々、祭司長、長老たちから苦しみを受けたのであります。

この世を悪くしている人はだれか。それは暴力団の人々や、殺人を犯したりする人々ではなく、大局的にみれば、なんといっても、この世で義人といわれている人々、上に立つ人々、政治家、会社の長に位置する人々によってであることは今日の日本の状況をみてもよくわかることであります。

 自分は正しいと主張する人、それは結局は、神の義に従おうとはしない人々であります。自分は正しい人間だと自任して、他人を見下げているひと、あのファリサイ派の人々、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯すものでなく、またこの徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を捧げている」と、主張する人々、そういう人々によってイエスは苦しめられ、十字架へと追いやられるのであります。

 それはイエスの弟子達も結局は同じだったのです。いざというとき、自分達の命が危険にさらされそうになった時は自分達の先生を見捨ててしまった弟子達、あの祭司長たちほど積極的ではないにしろ、弟子達もやはり自分達の立場を守るために、イエスを見捨ててしまうのであります。イエスはそういう弟子達の裏切りという苦しみもうけながら、十字架の道を歩むのであります。

 それはピラトの場合も同じであります。ピラトはイエスには死刑に価するような罪を犯していないことはよくわかっていたのであります。それでイエスを無罪放免しようとした。しかし祭司長たちに脅されて、自分の立場が危うくなることを恐れて、面倒くさいので、イエスを彼らの手に渡してしまったのであります。ある人の説明では、ちょうどその頃、ピラトが親しくしていた高官が、ローマの皇帝から首にさせられたという出来事が起こっていたのだそうです。それでピラトはここでなにか騒動が起きると、自分の立場も危なくなると危惧して、妥協してイエスを彼らの手に引き渡したのだということであります。

 このピラトがどんなに自己保身にたけた人間だったかということであります。われわれは祭司長たちのように権力をふるうということで、自己を主張することはしないかもしれません。しかしこのピラトのように、そしてイエスの弟子達のように自己保身にかけては、彼らと同じではないでしょうか。自己保身になるとわれわれもまたみっともないほどに醜い行動をしてしまうのではないでしょうか。
主イエスが「自分の命を守ろうとする者はそれを失い」といわれたとおりであります。

 そして正しい人間というのは、自分達が悪いことをする時にもあくまで、どこまでも正しさというもので、その悪を隠蔽しようとするのであります。

祭司長たちは、イエスを抹殺するために、あのステパノに対してしたように、石で殺してしまうということはせず、あくまで法に則してイエスを正式に抹殺しようとして、裁判を行い、総督ピラトのとろに連れ出して、ピラトからも承認を得ようとするのであります。

 すべては自分の正しさを主張し、自分の正しさを守ろうとする人々、自分の立場を守ろうとする人々によって、イエスは苦しみを受け、十字架の道へと追いやられるのであります。

 罪とは何か。聖書でいっている罪とは何か。それは神の義に服することをせず、自分の義、自分の正しさに固執し、それを主張し、それを守ることに必死になって、そのためには、他人を平気でけ落としていこうとすることであります。

イエスはその人々に今、苦しみを受けて十字架へと歩むのであります。

 この使徒信条で、「苦しみを受け」という告白のところは、原文をみますと、原文はラテン語ですが、一文字であらわされております。それは英語でいいますと、パッションという一字であります。今日では、このパッションという字は、熱情とか情熱という意味が第一にきますけれど、これはザをつけて大文字にしますと、キリストの受難を意味いる字として今日でも使われているようであります。マタイ受難曲などは、マタイ・パッションという字がつわかれるのであります。そしてこのパッションという言葉は、もともとは受難、つまり苦難を受けるという意味ではなく、受けるという意味、ただ受けるという意味だったそうです。自分に原因がなくて、何か他の人のために受けるもの、そういう受け身で体験するもの、それはもともとは悪いことだけではなくて、よいこも含めて、他人から受けるものをあらわしていた字なのだということであります。しかしわれわれが他人から受けるものというのは、よいことはほとんどなく、悪いことばかりなので、それがやがて、苦難を受けるという意味の受難という言葉になったのだということであります。

 それならば、なぜ今日では、それが、情熱という言葉になったのかといいますと、情熱というものは、自分のなかである激しい衝動に動かされる、それは自分で抑えることができない、まるで他から動かされるように衝動的にかりたてられる、そういうところから、この字が使われるようになったのだそうです。

 ともかく、苦しみというのは、他の人から背負わせるもの、それはそうであるが故に理不尽な苦しみであります。そういう意味では、病気なども突然やってくるもので、それはそれまでに自分に原因があるかもしれませんが、しかしやってきた時には、突然病気になるわけですから、この病気もやはりわれわれにとっては大きな苦しみであり、パッションの一つであるかもしれません。

 この苦しみに対して、主イエスはどうなさったか。ペテロの第一の手紙ではその主イエスの苦しみについてこう記しているのであります。
 「キリトは罪を犯さず、その口には偽りはなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかことはせず、正しいさばきをするかたにいっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた」と記すのであります。

 主イエスは最後には正しい裁きをする父なる神にすべてを委ねられたというのです。福音書をみれば、イエスがただどんな時にも黙々と苦しみを受けたわけではないことはわかります。堂々と律法学者たち、祭司長たちの悪を指摘し、その逮捕の不当性もまた指摘しているところがあります。ピラトに対しても堂々とわたりあっています。しかし最後のとろでは、イエスはご自分の正しさを主張しようとはしないで、神に正しさを委ねた、「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことはせず」という生き方をなさったのです。それがわれわれが罪に死に、義によって生きる道なのだというのであります。

 われわれも苦しみを受けた時には、何もはじめから、もくもくとただ何の主張も弁明もしないで、苦しみを受けるなんてことは到底できないと思います。イエスがそうしたように、その不当性を訴えたりするのです。しかし最後には、そして根本的には、この主イエスが示された十字架への歩みがわれわれが自分の罪から解放され、義によって生きる道なのだということであります。
 「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶならば、これこそ神のみ心に適うことだ」というのであります。神様から耐え忍ぶ力を与えられるように切に求めたいと思うのであります。