「われは聖霊を信ず」 ヨハネによる福音書一四章一五ー

 今日は聖霊降臨日の聖日礼拝を守ってりおます。今われわれが学んでおります使徒信条の第三の項目は、「われは聖霊を信ず」です。使徒信条の説教の順序からいいますと、「われはイエス・キリストを信ず」に続いて、「その独り子、われらの主」というところを学ぶことになりますが、そこをとばして、第三の項目「われは聖霊を信ず」を学ぼうと思いましたが、やはりそれはやめて、今日は説教の題は、使徒信条に沿って「われは聖霊を信ず」ですが、使徒信条から離れて、聖霊降臨日の礼拝として聖霊について学びたいと思います。

 聖霊降臨日というのは、使徒言行録の二章に記されている出来事であります。復活の主イエス・キリストは四十日にわたって、この地上にその姿を現して、ご自分の生きていることを弟子達に示しましたが、その四十日たった時に弟子達と食事をしている時にこういわれました。「エルサレムを離れないで、前にわたしから聞いた父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けることになるからだ」といわれました。

そして「あなたがたの上に聖霊が下ると、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、たま地の果てに至るまで、わたしの証人となる」といわれているうちに、復活の主は弟子達の見ている前で、天にあげられて、雲に覆われて彼らの目から見えなくなったというのであります。弟子達は呆然と立ちつくしておりますと、そこに白い衣を着たふたりの者が立ち、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を見上げて立っているのか、あなたがたから離れて天にあげられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様でまたお出でになる」と、告げるのであります。

 それで弟子達はエルサレムでひたする祈りながら待っておりました。その十日後であります。ちょうどイスラエルの暦でペンテコステ、五十日という意味のお祭りの日なのですが、ペンテコステの日に弟子達が集まっている時に、突然激しい風が吹いて来るような音が響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、ひとりひとりの上にとどまった。すると一同は聖霊にみたされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し始めたというのです。
 
その時はエルサレムにはお祭りの時だったので、あらゆるところから信心深いユダヤ人達がいたのですが、その物音に驚いて、弟子達のところに集まってきた。そうしたら、弟子達が自分たちの生まれ故郷の言葉で、神の大きな働きについて述べているのみて驚いたというのであります。これはどういうことか、あの人たちはなにか新しいぶどう酒でも飲んで酔っているのではないかと言い始めた。
 それでペテロが他の弟子達と立ち上がって、ペテロが話し始めるのであります。
「今は朝の九時ですから、自分達はあなたがたが考えているように、酒に酔っているのではない。そうではなく、聖書に預言されていたように、神の霊が下ったのだ」と述べて、「ナザレ人イエスこそ神から遣わされた救い主だったのです。神はイエスを通してあなたがたの間だで数々の奇跡や不思議な業としるしを行ったが、あなたがたは十字架で殺してしまった。しかしそれは神のあらかじめ定めたご計画だったのだ。そして神はこのイエスを死の苦しみから解放してよみがえらせたのだ。イエスが死に支配されたままでおられる筈はあり得なかったからである。このイエスを神はよみがえらせた。わたしたちはそのことの証人である。そしてイエスは今神の右にあげられ、約束された聖霊を父なる神から受けて私達に注いでくださったのである。それを今あなたがたは見聞きしているのだ。だからイスラエルのすべての人々ははっきり知らなくてはならない。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は主として、またキリストとしてお立てになったのである」と、述べたのであります。

 それを聞いた人々は大いに心を打たれたというのです。そして「わたしたちはどうしたらよいでしょうか」と言った。するとペテロは「悔い改めなさい。そしてめいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受けて、罪の赦しを受けなさい。そうすれば、聖霊が賜として受けられます」と述べますと、ペテロのこの言葉を受け入れた人々は洗礼を受けた、その日に弟子達の群れに加わった者は三千人であったというのです。

 こうして教会ができていったのだと記すのであります。ですから、この聖霊降臨日、ペンテコステともいわれますが、この日は弟子達に聖霊が下った日で、そしてそれによって教会が誕生した日なのであります。

 この日に実際のところ何が起こったのかを検証することはできませんが、イエスの弟子達になにか大きな不思議なことが起こったことは確かだろうと思います。突然激しい風が吹いて彼らか座っている家中に響きわたったとか、炎のような舌が分かれて弟子達ひとりひとりの上にとどまったなどという記事それ自体は、こんにちのテレビ番組が喜びそうなオカルトのような現象を思わせられるので、わたしなどは正直いいまして、こういうところを読む時には、少し警戒心をもって読みたくなるところですが、この通り実祭にあったかどうかはともかく、あの弱い弟子達がこんなに強くなった、あの弱いペテロでも人々の前でこんなに大胆に主イエスのことを証し出したということは、彼らが自分達の心の内部だけで何かが起こったというのではなく、何か客観的な出来事を経験したから、そうなったに違いないということだけは、疑うことはできないだろうと思います。

 しかしその力を受けて彼らが行った行動、言動は、決してオカルトを経験した人が述べるようなあやしげなことではなく、ごく当たり前のこと、理路整然とした言葉で人々に語り始めたということであります。

 それは不思議なことに、それを聞いた人々がまるで自分たちの生まれ故郷の言葉で聞いたように、弟子達の語る言葉がよくわかったというのです。ですから、いわゆる異言、異なる言葉と書きますが、その後初代教会で流行した異言現象のような、わけのわからない、なんとなく神秘的な雰囲気を漂わす言葉を語ったのではなく、聞く人がみんなよくわかった、本当に納得できる言葉で神の大きな働きについて語っていたというのです。

 何か酒に酔っているような今まで彼らがもっていない力で動かされているにようなものを感じさせてはいるのですけれど、しかしその言っていることは実に理路整然とした言葉であり、内容であったのであります。

 あの弟子達にそのような客観的な出来事を経験していないならば、つまりただ弟子達の心の内面だけで、発想の転換が起こったとかということだけで、その後の弟子達の言動を説明することはできないだろうと思います。

 そしてその時、ペテロはいいます、「悔い改めなさい。イエス・キリストの名にる洗礼を受けなさい。そして罪の赦しを受けなさい。そうしたら、賜として聖霊を受けます」と、言われたように、この聖霊はなにか特殊なオカルト現象を受け入れる霊感のある人だけに与えられるものではなく、すべての人に預言者ヨエルが預言したように、息子と娘、若者と老人、しもべやしためにもこの霊は注がれるというのであります。

 この聖霊を受けるということはどういうことなのでしょうか。「われは聖霊を信ず」という使徒信条の告白はどういう信仰の告白なのでしょうか。

 まず大事なことは、これは「われは聖霊を信ず」であって、「われは聖霊を感じます」という告白ではないということであります。それは確かに人によっては、聖霊を感じた人もいるかもしれないし、ある種の霊感を受けたという経験をする人もいるかもしれません。現にこの使徒言行録に記されている出来事は、感覚的にも感じられた現象だったことを否定することはできないと思います。しかし使徒信条は「われは聖霊を感じます」と告白するのではなく、「われは聖霊を信じます」と告白しているところが大事なことであります。

 「聖霊を信じます」という告白は、「聖霊がこの自分にも注がれることを信じます。この自分もまた聖霊を受けることができ、そして自分にも聖霊が働くことをを信じます」ということなのですが、信じますということは、今現に見えていないことを信じるという意味を含んでいるということであります。

 ヘブル人への手紙には、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見ない事実を確認することです」と言っております。口語訳では、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認するこである」となつていて、「まだ」という言葉が加えられております、原語をみますと、「まだ」という言葉はないので、少し訳しすぎのようですが、自分がまだ見ていないことも信じるというニュアンスも含まれているわけです。ですから、信じるということのなかには、自分がまだ経験していないことも信じる、つまり望んでいること、まだ経験はしていないけれど、望んでいる事柄を信じるということを含まれている、そういう望みをもっているということであります。

 「われは聖霊を信じます」ということはどういうことなのでしょうか。
先日、河合隼雄という心理療法家と吉本ばななという作家の対談を読んでおりましたら、河合隼雄がこういうことを言っておりました。
「ぼくの体験でいうと、すごい大きなことが起きるのは、たいてい偶然がかかわっている。人間が計画して考えてやることは大したことではない」というのです。そしてカウセリングの研究発表会というのがあって、カウンセラーが自分が関わった事例について発表する、その時に治療には、うまくいった場合もあれば、失敗した場合もある。それを話す時に、うまくいった例を話すときに、「もう、あかんと思ったから、パーッと偶然が起こって、さっーとひらけて」というようなことを発表すると、「そんなの偶然じゃないか」と、人から非難されるというのです。しかし人の心の病気を治すという時には、「うまいこといったやつは、わけがわからんのや。失敗したのは、全部わけがわかる。失敗した事例は、論理的に説明可能なんだ。本当にうまくいった事例は、論理的に説明できないのではないかと思っている」と言っているのです。

 このところを読んでいて、聖霊が働くということはそういうことなのではないと思うのです。ここで河合隼雄が「偶然」という言葉で述べていることは、われわれの言葉でいえば、まさに聖霊の働きということではないかと思います。「すごい大きいことが起きる時はたいてい偶然がかかわっている、人間が計画して考えることは大したことではない」というところはまさにその通りだと思います。そして失敗したことは、みな論理的に説明できるけれど、うまいこといったやつはわけがわからんというのも、その通りだと思います。聖霊を信じるということはそういうことではないかと思います。

 自分を超えた力が、この自分に働いている、働くことがあるのだということを信じて生活するということであります。
 
 われわれは洗礼を受けてクリスチャンになっても、信仰をもっても、自分自身の性格というものは、それほど以前とは変わらないのです。少しも強い人間になったとも思えないのです。ペテロの場合を考えても、使徒言行録を読んだり、パウロがペテロについて書いているガラテヤ人の手紙をよんでみれば、ペテロという人の弱さというものは以前とそれほど変わっているとは思えないのです。くわしいことはいいませんけれど、ペテロという人は相変わらず失敗もします、恐れをもって行動してしまいます。それでは何が変わったのか、それはペテロ自身の性格が変わったのばなく、そのペテロの背後に常に、彼を支える聖霊の助けが働いている、ある時には彼を叱責し、彼を励まし、慰める、そういう助け手としての聖霊がペテロの背後に働いている、ペテロと共にいる聖霊という存在者があるということなのです。

 われわれは自分が全く変わってしまうということは大変恐いし、不安です。また変わりたいと思っても、そう変われるものでもないことはわれわれは身に沁みてわかっていることであります。われわれは自分自身は変わる必要はないのです。つまりわれわれが強くなるということは、何かスポーツクラブのジムにでもいって、筋肉トレイニングして自分の身体を鍛える、そういうことをして自分を強くするということではないのです。あるいは自己開発センターみたいなところにいって、心理的に、洗脳されて自分を変えるというよなことではないのです。

そうではなくて、自分のかたわらに、自分の外から自分を助けてくれる聖霊が働いてくださるということを信じて生きるということなのです。

 さきほど読みましたヨハネによる福音書では、主イエス・キリストが自分が父なる神のもとにいくけれど、「わたしは父にお願いして別の助け主を送っていつまでもあなたがたと共におらせてよう。それはあなたがたと共におり、またあなたがのうちにいる」と約束しております。そしてこういいます。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」と約束しております。

 聖霊というのは、別の助け主だというのです。「別の」というのは、イエスはもう父なる神のもとにいって目に見えなくなるが、そのイエスが別のイエス・キリストの分身ともいうべき聖霊を送るというのです。だからもうお前たちはひとりぽっちではないというのです。聖霊があなたがと共にいて、聖霊はあなたがたの共にいるだけでなく、あなたがの心の内部に、うちにいてあげて、助けてくれるというのです。だからもうお前たちはひとりぽっちではないというのです。

 いまわたしはここのところをわざと新共同訳聖書ではなく、口語訳で引用しましたが、新共同訳聖書は「別の弁護者」と訳してりおますので、この「弁護者」という訳は本当によくないと思います。これは口語訳のように「助け主」という訳のほうがよほどいいと思います。原語を見ましても「慰める」という意味をもった言葉です。つまり、弁護者となりますと、弁護士というのは、今日では、被告の言い分を全部受け入れて、ひたすら被告の側に立って被告の利益になるように弁護するという役割を果たすことになっているわけです。極端にいえば、自分の依頼人が人を殺していても、そのことが弁護士にわかっていても、その依頼人が自分は人を殺していないと主張していれば、その線にそって依頼人のために弁護しなくてはならない。それでは聖霊の働きとは違ってくるのです。

 パウロが御霊についてローマの信徒への手紙の八章二六節からですが、聖霊について述べている箇所でこう言っております。「同様に霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、霊みずからが言葉にあらわせないうめきをもって取り成してくださるからです。人の心を見抜くかたは、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は神の御心に従って聖なる者たちのためにとりなして下さるからである」と言っております。

 ここでわたしはいつも不思議に思っていたことは、どうして神はわれわれの思いがなんであるを知ろうとしないで、霊の思いが何であるかを知っている、と書いているかということだったのです。われわれが神様に訴え祈るのは、自分の思いを知って欲しい、自分の願いを聞いて欲しいといことなのにであります。それなのにここでは、神はわれわれの思いではなく、われわれのためにとりなしてくださる御霊の思いを知ろうとしているというのです。

 それはただわれわれの自己中心的な願い、思いをそのままかなえようとしてもそれはわれわれの救いにはならない、われわれの助けにはならないからであります。だからこの聖霊は、決してこの世の弁護士のような助け手ではないのです。われわれが人を殺しておいて、自分は人を殺していませんといえば、それをそのまま聖霊は神にとりなすようなかたではないのです。神のみこころに従ってわれわれのためにとりなしてくださるかた、それが聖霊なのであります。ですから、ここは「弁護者」という訳よりは、「助け手」という訳のほうがいいと思います。

 われわれ自身はクリスチャンになってもあまり変わらないかもしれません。少しも強くはなっていないかも知れません。それでいいと思うのです。われわれは別に筋肉トレーニングする必要もないし、洗脳される必要もないのです。ただいつもいつも覚えておかなくてはならないことは、わたしの傍らに、そしてそれだけけではなく、わたしの内側に、助け手である聖霊が与えられている、その聖霊の働きがあることを信じて生きているということであります。たとえ聖霊が見えなくても、聖霊を感じることはなくても、聖霊の働きをわれわれは信じて生きていくということであります。

 「うまいこといったというやつは、わけわからんのや、失敗したのは、全部わけがわかる」という思いをもちながら、生きていくということであります。

 自分の人生をただ自分のちっぽけな裁量で、計画し、押し進めるのではなく、そういう計画することは決して無意味ではないし、自分の人生に責任をもって生きるためには、そういう計画性は確かに必要だと思いますが、それだけを頼りにして生きるのではなく、聖霊が働く余地を常に自分心の中に残しておく、そういうゆとりをもった生き方をしていくということであります。ギリシャ語では聖霊はという字は、風という字と同じであります。風は思いのままに吹く、それがどこから来てどこに去るかはわからない、聖霊もそれと同じだと、主イエス・キリストはいわれました。ある詩人の言葉に「風立ちぬ、いざ生きめやも」という言葉がありましたが、自分の外から吹いてくる聖霊の助け、そしてわたし共にいて、わたしの内側に入り込んで助けてくださる聖霊を信じて生きていきたと思います。