「信仰の完成」 一章一ー一一節


 フィリピの信徒への手紙はパウロの獄中からピリピの教会の信徒に宛てた手紙であります。
 獄中といいましても、今日の獄中とは違って、比較的自由が許された状態だったのではないかと思われます。

 パウロは自分がこうして獄に捕らわれているのは、福音の前進のためには役立つことになるのだと言っております。また、このフィリピの信徒への手紙は、「喜びの手紙」ともいわれているくらいに、「喜びなさい」という「喜び」という言葉が沢山てくる手紙なのであります。パウロは獄に捕らわれていながら、少しもへこたれていないのであります。獄に捕らわれていながら、なお自分は喜んでいるといい、どんな時にも喜びなさい勧めるパウロと言う人は、われわれと違ってなにか英雄の人のようにわれわれは思うかもしれません。

 ドイツのナチズムに反対して、多くの牧師達が捕らえられたり、処刑されたりしましたが、その中で連合軍によって解放され、危うく処刑を免れた牧師にニーメラーという牧師がおります。この人は戦後ドイツの教会の指導的立場に立った人ですが、またキリスト者の世界平和の会議などでも指導的立場に立った人ですが、この人がこういっております。
 「人はナチに抵抗して捕らわれて、それに屈しないで抵抗したわれわれのことを戦後まるで英雄のように見ようとしているが、獄に捕らわれたわれわれは、自分たちのことを一番よく知っている。その獄のなかで、自分達がどんなに惨めであったか、どんなに弱い人間であったか、自分達が一番よく知っている。自分達はただ一日一日を自分達の大牧者イエス・キリストに支えられて来ただけである」と言っているのであります。

 自分達は英雄ではないと言っているのです。パウロも同じだったと思います。パウロはこの手紙の終わりのほうで、口語訳で引用しますが、「どんな境遇にあっても足ることを学んだ。わたしは貧に処する道も知っており、富みにおる道も知っている。わたしは飽くことにも飢えることにも、富む事にも乏しい、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている。わたしを強くしてくださるかたによって、何事でもすることができる」と言っているのです。

 パウロもまた英雄なんかではなく、一日一日をわれわれを強くしてくださる大牧者であるイエス・キリストに支えられて、この獄の中で過ごしているに違いないのであります。だから喜ぶことができたのだし、どんな境遇の中にいる人にも、「喜びなさい」と勧めることができたのであります。

 三節でパウロはこう書きます。「わたしはあなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っている。それはあなたがたが最初の日から今日にまで、福音にあずかっているからです」。

 これは要するにフィリピの教会の人の信仰を感謝しているということです。ここでは信仰というのは、福音にあずかることだといっているのです。このことは大事なことです。われわれは信仰というと、ともすれば、自分の態度のことばかり気にしているのではないかと思うのです。一日のうちにどれだけ、神様のことを意識していたかどうかとか、信仰というものを自分の信念と取り違えてしまっていないか。信仰というものを、自分が神様をつかむことだ、自分が神を信じることだと考え違いしていないか。

 しかし、ここでは、信仰というのは、「福音にあずかることだ」といっている。こちらの熱心さとかいうものではなく、熱心であろうとなかろうと、ともかく福音にあずかっているということです。「あずかる」という字は、交わると言う字です。福音と交わっているということです。それは具体的にいえば、とにもかくにも、教会から離れない、日曜日の礼拝から離れない、聖書から離れないということです。ある意味では、信仰生活を習慣化してしまうということであるかも知れない。習慣化してしまうほどに、福音から離れないということです。そうすると、福音そのものの力がわれわれの信仰を養い育ててくれるのであります。

 そしてパウロは六節でこういいます。「あなたがたの中で善いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までに、そのわざを成し遂げてくださると、わたしは確信している」。
 ここでいう「善いわざ」とはわれわれの信仰のことです。われわれの信仰は、われわれがただある時に、よし神を信じてみようと決心して始まったのではないのです。もしそういうことであるならば、つまり自分の決心でただ始まったことであるならば、また自分の決心ひとつでいつでも信仰を捨てることもできるわけです。

 信仰というのは、そうではなくて、神様のほうがわれわれに働きかけて、信仰という種を植え付けてくれたということだというのです。パウロは二章一二節では、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたのうちに働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからだ」と言っているのであります。

 神を信じようという願いを起こさせてくれたのは、神なのだということです。そしてそれを御心のままに行わさせるのも神だというのです。そしてもっと興味深いことは、だからわれわれはただじっとしていればいいというのではなく、だから「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」というのです。努力しなさい、というのです。自分の救いの達成のために努力しなさいというのです。なぜなら、神がわれわれの信仰を完成させてくれるからだというのです。

それを伝道者パウロがいうのです。パウロはそういう確信をもっていつも伝道に当たっていたのであります。彼は自分の力量で人を信仰に導いたり、信仰を育てようとしていはないのです。なによりも神を信じている。神が必ずその人の信仰を育て、完成へと導いてくれると信じて伝道しているのであります。だからパウロは必要以上にひとりで力んでみたり、絶望したりはしない。いつも楽観的であった。楽観的という言葉が悪ければ、いつも望みを失わなかった。

 ある人が言っておりましたが、何か大きな仕事をする人は、どこか楽観的なところをもっているものだというのです。悲観的では大きな仕事はできないというのです。まして、伝道に携わる人は、自分の力でするのではなく、神の力を信じてするのですから、他の誰よりも楽観的でなければならない筈です。

 それは伝道ということだけでなく、子供を育てるということだって、成長させてくださるのは神様だという事を信じて、子供を育てることが必要なのであって、母親はいつもどこかで楽観的でなければならないと思います。あまりにも悲観的であっては子供を育てられないと思います。

 新共同訳で「あなたがたの中で良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までに、そのわざを成し遂げてくださる」といってますが、その「成し遂げてくださる」というところを、口語訳では、「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成してくださる」と言っておりますが、信仰の完成とはなんでしょうか。

 ある人がそれを、「それはいいかえれば、神の恵みがだんだん分かってくるということで、自分が神から愛され恵まれていことを、少しでも、多く知るようになることが、信仰の成長ということだ」と言っております。

 信仰の完成などというと、われわれが聖人のようになるとか、どんなことがあってもたじろがないとか、未来を予言できるようになるとか、宇宙の真理を会得するとか、そんな事を想像するかも知れませんが、そんな事ではないのです。ますます自分の弱さがわかるようになり、ますますキリスト・イエスの恵みの福音にすがりつこうとすることなのであります。

 カトリックのほうで、いわゆる聖人として親しまれております人に、テレジアという人がおりますが、その人がこんなことを言っております。
「わたしは困難に出会った時は、決してそれを飛び越えようとは思いません。今よりももっと小さくなって、わたしはその下をくぐり抜けようと思います。」
 「もっと小さくなって」というのです。こういう人が聖人なのです。こういう信仰が信仰の完成ということなのであります。

箴言三○章七節にこういう言葉があります。これはわたしの好きな聖書の言葉の一つです。
 口語訳でよみますが、「わたしは二つのことをあなたに求めます。わたしの死なないうちに、これをかなえてください。うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富もせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。飽き足りて、あなたを知らないといい、『主とはだれか』ということのないために、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです」と言っております。
 「死なないうちにかなえてください」といっているのですから、これは信仰の中で一番大切なことだということだと思います。これはある意味では、信仰の完成といってもいいと思います。

 しかしそれにしては、ここでいわれていることは、思いがけないほど、素朴なことであります。「うそ、偽りを遠ざけ、貧しくもなく、富もせず、なくてならぬ食物でわたしを養ってください、最後まであなたを裏切らず、あなたを信じつづけさせてください」というのです。

 ここには英雄的な信仰などみじんもないのです。ただひたすら、一日一日が神様を信じていける信仰でわたしを死ぬまで導いてくださいというというであります。
 これが信仰の完成ということではないでしょうか。

 九節をみますと、パウロはピリピの教会の人々に、こう祈っています。「わたしはこう祈る。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊になり、本当に重要なことを見分けられるように」。
 口語訳では「愛がますます豊になり」というところは、「愛が深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり」となっております。

 愛というのは、その人の全てがあらわれるもので、その人の知性も、その人の感性もすべてがあらわれるものであります。

 愛は、いわば全人格的なものですから、愛ぐらい、その人の個性があらわれるものはないと思います。

 大岡昇平が何かの小説で、「一人っ子として、一人で育った人間は深くしか人を愛せない。だから人を傷つける」と言っておりましたが、これはこういう意味だろうと思います。ひとりっ子というのは、自分がひとりっ子として、両親の愛を一身に受けて育てられてしまう。親から深く愛されてしまう。だから人を愛する時にも、人を深くしか愛せない。そして誰に対しても深く愛することしか知らないものですから、人を傷つけてしまう。

 深く愛するということは、ある意味では相手に重荷を与えることになるからです。場合によっては、そんなに深く愛さなくてもいい人、もっと気楽につき合えばいい人に対しても深くしか愛せないために、深く愛してしまう、そうしてはその人を傷つけてしまうということになるのではないかと思います。

 その人にとっては、いざ人を愛そうと思ったら、そういう愛しか現せないのだろうと思います。それくらい、愛というのは、その人のすべてが露わになって現れるものであります。

 ひとりっ子としてという意味でなく、兄弟がたくさんいても、小さい時から愛をいっぱい受けて育てられた人は、うらやましいほどに、人をごく自然に実に豊かに愛せるものであります。あまり人に重荷を与えないで、ごく自然に人を愛せるものです。そういう人は、めったにいないものですが、しかしやはりそういう人はいるものであります。

 私が最初に赴任した教会には、そういうご婦人がいて、わたしは大変支えられました。根っからの善人とか愛の人という人が世の中にはいるものであります。そういう人は小さいときに本当に愛を一杯豊に受けて育てられると、そういうふうになるのではないかと思います。自分の努力などでできるものではないと思います。

 そういうように、どんな人に対しても分け隔てなく愛せる、人を豊かに愛せる人もあれば、あまり人づきあいがよくなくて、ごく限られた人しか愛せないという人もいるかもしれません。そしてその場合、その限られた人を深く愛する、人を深くしか愛せないということになるかも知れません。
 
 人を豊にごく自然に愛することが出来る人もいれば、ごく少数の人を深くしか愛せないという人もいる、それはもうどうしようもないもので、本人の責任を超えた事なのではないかと思います。これは努力の問題ではないような気がいたします。

 愛はその人のもって生まれた全てが現れるものですから、愛はいつも個性的に現れるものですから、愛のあらわしかたに関しては、あまり批判したり、批評めいたことはしない方がいいように思います。

 いろいろな形で、社会奉仕とかボランティア活動とかで、豊かに人を愛する人もあれば、生涯ただひとりの人しか愛さなかったという人もいるかも知れませんが、それでもいいと思います。場合によっては、とうとう人間は愛せなかったけれど、犬だけは愛することができたという人もいるかも知れません。犬も愛せなかったという人に比べればよほどいいと思います。

 パウロは、その愛、それぞれ違うあなたの愛が、その個性的な愛が「知る力と見抜く力とを身に着けて」、口語訳では「あなたがたの愛が、深い知識において、するとい感覚において、いよいよ増し加わるように」と祈っております。

 愛と知識とは対立すると考えられがちですが、ここでは、愛には深い知識が必要だと言っているのであります。
 「知る力と見抜く力とを身につけて」と、訳されております「見抜く力」というところは、他の人の訳では「あらゆる理解」となっております。口語訳では「するとい感覚」と訳されております。

 口語訳の「鋭い感覚」という訳は、「深い知識」と並べられる時、いい訳ではないかと思います。

 愛するという事は、相手のことを本当に深く知る必要がある、相手の長所短所すべてを知って、しかもその相手の短所をおおってあげなくてはならない。これはただ盲目的な愛ではだめなので、深い知識が増し加わらなくてはならない、するどい感覚を必要とすると思います。

 そして本当に人を愛していれば、必ず知識が増してくる。知識というよりは、むしろ知恵といった方がいいかも知れません。相手が今何を欲しているか、何を必要としているか、その事を知ろうとするから、当然そこに知恵が生まれてくると思います。知恵を生みださないような愛は、どこかひとりよがりで、ただ自分のひとりよがりな愛の押しつけになるのではないか。

 そしてパウロはこう祈ります。「本当に重要なことを見分けられるように」。何が重要であるかを判別するのは、愛があって始めてできることではないかと思います。ここにも、愛が深い知識を生みだすという事を言っているのではないかと思います。

 愛が「何が重要であるかを判別する」知性の働きを生み出すのであります。何が重要かを見分けられるのは、単なる知性の働きではないのです、愛なのです。

われわれの信仰がますます自分の弱さがわかり、ますます神の恵みを信じる信仰へと導かれ、そうして決して傲慢にならず、ひとりよがりにならず、相手のことを本当によく知って今その人が必要としているものがなにかを判別できるような、深い知識と鋭い感覚をもった愛を身につける信仰へと成長させていただきたいと願うのであります。