「死の谷を歩んだ者」 詩篇二三篇  マタイ福音書一○章二六ー三一節


 詩篇の二三篇は、よく葬儀の時に用いられる聖書の箇所であります。それは四節に「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」とあるからであります。

 今日は召天者記念礼拝として、説教の題を「死の谷を歩んだ者」という題にしました。気がついた人もおられるかもしれませんが、わたしはわざわざ「死の陰の谷を歩んだ者」とつけないで、「死の谷を歩んだ者」とつけたのであります。つまり、「死の陰の谷」ということと、「死の谷」とは違うという思いがあったのであります。今われわれが召天者記念礼拝として思い出す人々は、ただ死の陰の谷を歩んだ人ではなく、実際にもう死の谷を歩んだ人だということを言いたかったのです。

 死の陰の谷を歩むということは、実際には死ななかったけれど、それと似たような死の陰の谷をくぐり抜けて、今は生きている人ということになるのではないか。この詩をうたった人も実際には死んでいないのです。現に最後には、「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう」と歌っておりますので、今生きていて、死の陰の谷を歩んだかもしまれせんが、現実に死の谷を歩んだわけではないのであります。

 実際に死ぬということと、死の陰の谷を歩む、つまり、死ぬのではないかという恐れと不安のなかで生きたということとは本質的に違うのではないかと思います。多少は似たところがあるかもしれませんが、やはりそれは違うのではないかと思います。

 死ぬということと、死ぬのではないかという不安のなかにいることとは、本質的に違うと思います。死の谷を歩むということと、死の陰の谷を歩むということは違うのであります。
 
 死んでいく人の心のケアということで大変貢献した人に、キューブラー・ロスという人がおります。臨死体験をした人に実際に会って「死ぬ瞬間」という本を書き、いわゆるターミナル・ケア、つまり死に臨む人にどういう対応したらいいか、どのようにカウンセラーしたらいいかということで、大きな貢献をした人ですが、その人が七十一才になった時に、脳卒中とか心臓病になって死に瀕した。

 彼女はアメリカのアリゾナ州のフェニックス市にある小さな町のはずれで、ひとり住まいの非常に孤独な生活を送っている。そこはアリゾナの小さな町のはずれの、コヨーテの遠吠えが聞こえる暗闇の中でさびしいところだそうです。そこで独りで住んでいる。ロスはそういう中で、死と戦うという状況に立たされた。

 そういう時に今まで、死ぬんでいく人についていろいろと書いてきた人が自らの死に直面して、どういう心理状態に立たされているかはみんなの関心事になっていたわけです。

 ジャーナリストがそのロスにインタビューを試みにいくわけですが、みなことわれてしまいます。そのなかで、ロスは、ドイツの「シュピーゲル」という雑誌の女性記者のインタービューを受けることを承知して、その記事が、その雑誌に掲載されて大きな反響を呼んだというのです。

 そのインタビューに対して、ロスはこう言った。自分が今死に臨んで思うことは、これまでの自分の学問や職業的な経験というものは何の役にも立たない、精神分析はカネと労力の無駄づかいだったと、語っているのです。今まで自分がしてきたことは、全く無意味だったと平然て語ったというのです。そしてそのインタビューをしたドイツの雑誌記者は、それをロスの非常に惨めな姿として書いているというのです。

 これを紹介しているのは、河合隼雄と柳田邦男の対談の中でなのですが、このおふたりは、それを紹介しながら、それをロスの惨めさとして見るのではなく、そこにロスのすごさを見るというのであります。今までみんなから聖女としてみられ、死にいく時の慰めの書として読まれる文章を書いてきたロスが、自分自身が自分の死に直面した時、それは自分が今まで想像してきたものとは全く違うものとして経験している、それをロスは正直に語っているところがロスという人間のすごさだと、ふたりは評価しているのです。

 ロスが実際にはどのような死に方をしたのかはそこでは語られてはおりませんが、これはやはり他人の死について書くことと、自分自身が死を迎えるということとは違うということを示しているのではないか。
死の谷を実際に歩むということは、どんなに大変なことか、それはもうどんなに優れた精神科医のカウンセラーの治療を受けてもどうにもならないものであるということであります。

 今日召天者記念礼拝で、そのひとりひとりのかたを思う時に、そのひとりひとりは、ただ死の陰の谷を歩んだのではなく、実際に死の谷を歩んでいった人のなのだということを改めて考えみなくてはならないと思うのです。当たり前のことですが、やはりそのことをわれわれは今考えなくてはならないと思うのです。

本当に死ぬということはどういうことなのだろうか。われわれは実際に死んだことがないわけで、それがどんなことなのかわかりません。

 主イエスが十字架にかけられたときに、イエスと一緒に十字架にかけられた者がふたりいました。ふたりとも強盗であったと聖書は記しております。

 一人の強盗はその十字架の上で、イエスに悪態をついて、「お前は神の子なのか。神の子ならば、今神様にお願いして、自分自身を救ってみたらどうか。そしてわれわれもこの十字架から救ってくれよ」とイエスをののしったのです。

 するともう一人の強盗はその者をたしなめて、「お前は神を恐れないのか。われわれは生きているときにさんざん悪いことをしたのだから、こうして十字架刑になるのは当然なんだ。しかしこのかたは何も悪いことをしていないのに、こうして十字架にかかって死のおうとしているのだ」といったあと、イエスに向かって、「イエスよ、あなたが天国にいったときには、わたしのことを思い出してください」といったというのです。
 この人は、生きているときにさんざん悪いことをしてきたのです。だから、この人が処刑されて、この世からいなくなっても、もう誰もこの人のことなんか忘れているのです。誰ももう自分のことを思い出してくれる人がいない、それが彼にとっては耐え難いことだったのです。

 実際に死ぬということは、この世の人々から切り離されるということなのです。この世の人々からもうすっかり忘れられてしまうということなのです。それは彼にとって耐えられないことだった。だからせめて、「あなただけは、イエス様、あなたがけは、天国にいったら、わたしのことを思いでしてください」と訴えたのであります。

 彼は自分を救ってくださいとか、十字架にからおろしてくださいと訴えのではないのです。「わたしのことを思い出してください。わたしのことを忘れないでください」とイエスに、神様にお願いしたのです。

「思い出してください」という叫びのなかには、もちろん「思い出して、できることなら、天国にひきあげてください」という願いも込められていたのかもしれません。しかし、彼にはもうそんなことはいえなかった。だからせめて「思い出してください、わたしのことを思い出してください」と訴えたのであります。

 死んでいこうとしている人にとって、なによりも耐え難いことはもう自分のことを思い出してくれる人がいないということなのかもしれません。死んだ当初はまだ覚えているかもしれません。しかしやがてだんだんとみんなが忘れていってしまうかもしれない。それはたえがたいことなのかもしれません。

だから、われわれはこうして年に二回、死の谷を歩んだ人のことを思い出すために、忘れないために、こうして集まっているのです。死の谷を歩んだひとりひとりをわれわれ今思いだすために、こうして集まっております。

 しか、われわれはただ集まっているのではなく、神様を礼拝するという形で、集まっているのです。今日は召天者記念礼拝なのです。礼拝なのです。礼拝ということは、神様を礼拝するということであります。神様を礼拝しながら、つまり、神様のことを思いながら、すでに死んだ一人一人のことを思いだそうとしている、そのことが大事なのであります。

 ある人の言葉に、「死をみつめたら、死に見つめられてしまう」という言葉があります。死だけを見つめたら、いつ死ぬんだろうか、死んだあと、どうなるのだろうか、死に見つめられてしまって、われわれはノイローゼになってしまう、死に見つめられてしまう、ということであります。

 だからわれわれは、ただ死を見つめる、死だけを見つめるのではなく、死を、こうして神様を礼拝しながら見つめようしているのであります。

 イエスと一緒に十字架にかけられたひとりの強盗は、世間の人がみんな自分のことを見捨てて、思い出してくれなくても、せめて神様だけは、わたしのことを思いだしていてくださいと彼は訴えたのです。

 それに対して主イエスはなんと言われたか。「よく言っておく。お前は今日わたしと一緒にパラダイスにいる」といわれたのです。

 この強盗は、自分の罪を悔い改めた言葉をいったわけではないのです。確かに、自分がしたことの当然の報いとして今十字架にかけられているといっていますから、少しは自分の罪を悔いているかもしれません。しかしそのことをイエスに告白しているわけではないのです。イエスに向かっては、「わたしのことを思い出してください」といっただけです。

 それに応えて、イエスは「お前は今日わたし一緒にパラダイスにいる」と断言したのです。ですから、イエスと一緒にパラダイスに一番最初にいったのは、この強盗だったのです。

 この強盗は、「イエス様、わたしのことを思い出してください」と訴えた、イエスにとっては、もうそのことだけで、この強盗は罪を悔い改めたと受け取ったのであります。

 罪を悔い改めるとは、なにか偉そうにして、あるいは深刻ぶって自分の罪を告白することではないのです。そうではなくて、もう自分のことは何もいわなくてもただ神様に対して「わたしのことを思い出してください、わたしを忘れないでください」「わたしを救ってください」と祈り、訴えるということなのです。

 よく、死ぬ間際に洗礼を受けるかたがおります。ときどきそういう人のことを世間のひとは笑うかもしれません。時には、教会の人、クリスチャンですら、そういう人を軽蔑することがあります。自分たちは今まで一生懸命、信仰生活をしてきて、献金して教会に奉仕をしてきたのに、なんと手軽な信仰か、それはあまりにも安易ではないかと軽蔑するかもしれません。

 しかし、われわれが死を迎える、死の谷を歩むということは、自分ひとりではその谷を歩むことはできない、ただひたすら神様の憐れみにすがる以外にない、「どうぞ死んだあと、わたしのことを思い出してください、忘れないでください」と訴えて死の谷を乗り越えることしかできないということではないかと思います。それは信仰者が長い年月をかけて信仰生活をおくったというその信仰よりも、もっと真剣にもっと深い信仰をそのときにあらわしているのかもしれないと思います。

 さきほど紹介しました、河合隼雄と柳田邦男の対談のなかで、柳田邦男が紹介しているのですが、ある医学部の教授会で、移植医療の教授がこんな報告したというのです。

 ある亡くなった人の父親が息子のすべての臓器を提供するけれど、ただ角膜だけはやめてくれと言っている、なぜかというと、息子があの世に行ったときに、いろいろ見られなくなり、そして、やがて親があとから行ったときに識別してもらえなくなるからだと言ったというのです。

 そういう報告をしたあと、その教授は「いまどきそんな非科学的なことをいう親がいる。そういうのはよくお説教して、考え方を変えてもらわなければ困る」と言ったところ、教授会のほぼ全員がそれに賛同したというのです。

 ただ、たったひとりだけ異議をとなえた教授がいた。それは精神科医の先生でこういったというのです。「科学合理主義でいえばたしかにそうかも知れない。しかし、親と子の関係、あるいは、子を思う親の気持ちを考えたときにに、あの世でわが子がものがみえなくなったらかわいそうだと思う気持ち、あの世で親と子が識別できなくなるということは耐えられないという思いは大事にしてあげなくてはならない、そういう人間の真実を単に科学で切り捨てて、無知蒙昧だと嘲笑するのは間違っている」と、発言したというのです。

 自分が死んでからその息子に会ったときに、息子が自分を親だと識別できないのは困るから角膜移植だけはしないでくれと訴えた親の気持ちはよくわかります。そういう親にみとられて死んでいった息子さんは、どんなにさいわいだったかと思います。死んでいくものにとって自分の死を悲しんでくれるものがいるということはどんなに慰めになるかはわからないと思います。
 柳田邦男さんは、息子さんを自死で、自殺で、なくされているのであります。

 死後の世界のことは、われわれの人間的な知恵で推し量ることのできない世界であります。

 聖書の書かれた時代にも、死人のよみがえりとか、死後の世界なんかあり得ないと考えていた人々がいて、あるときに死人の復活について話をしていたイエスにくってかかってそんな馬鹿な話があるかということで、こういう話をしました。「もしこの地上で何回も結婚して、何人もの奥さんをもっている人がいて、その人が死んだら、天国ではどの奥さんの夫になるのか、それを考えただけても、死後の世界を考えるなんてことは、馬鹿げたことだとイエスに食ってかかったのであります。

 そのとき、イエスは、こういわれました。「この世の子らは、めっとったり、嫁いだりするが、死後の世界はもうそういう世界ではない。そこではめっとったりとついだりはしない。彼らは天使に等しい者なのだ。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神であり、すべての人は神によって生きている」といわれたのであります。

 われわれは死んだあと、すべての人と会いたいとは思わないかもしれません。なかにはもう二度と会いたくないという人もいるかもしれません。しかし、死後の世界、天国を、もうそうしたこの世での人間的なつきあいでものを考えてはいけないというのです。みな天使のような存在になるというのですから、もう憎しみ会うという世界ではないということであります。

 主イエスは、迫害に会って殺されるかもしれない弟子達に対して、「体を殺しても、魂を殺すこともできない人間を恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできるかた、神を恐れなさい」というのです。そうしてその恐るべき神は、「あの名もない雀の一羽ですら、お前達の父なる神のお許しがなければ、地に落ちることはない、死なないのだ。まして神様は、お前達の髪の毛の一本一本までも、数え尽くしておられる。そうしたうえで、たくさんの雀よりも勝った者として、お前達を愛し、お前達の死に関わってくださっておられる。だから恐れるな」といわれたのであります。

われわれの髪の毛の一本一本を数え尽くして、われわれの弱さ、われわれの罪、それをすべて知った上で、われわれを愛し、われわれを受け入れてくださって、そうしてわれわれと共にいてくださる神、その神様が、われわれが死の谷を歩むときに、歩んでくださるというのであります。だから「恐れることはない」といわれたのであります。