「将来も救われる救い」  ローマ書五章一ー十一節  詩編130編


 われわれはキリストの十字架によって救われたのであります。それはもう間違いはないのであります。しかしその後、どうなるのか、それは救われたわれわれの一番の関心事になるのではないかと思います。

 救われた後の将来はどうなるのかということであります。それはちょうど、刑期を終えて、刑務所から解放された者がそのまま世間に放り出されて、これからどうやって生きていこうかという問題と同じであります。

 刑期をおえて、これで罪が赦された、刑務所から解放された、その後どうなるのか、就職できるのか、それよりも犯罪を犯したくなる自分の邪な心の動きをどう処理したらいいか、不安であります。

 イエス・キリストの十字架による罪の赦しは、われわれが過去に犯した罪についてだけ言えることであって、今までの罪は赦してあげるから、これからは改心して、悔い改めて、今後絶対に罪を犯してはならない、今度罪を犯したら、今度は地獄行きだぞ、というのであるならば、われわれは大変不安なのではないでしょうか。

 われわれは罪赦された、だからといって、われわれは一気に自分の性格がそこで一変したわけでないことは、われわれが一番よく知っていることであります。われわれが罪赦されたということは、罪を犯したそのわれわれ人間がまるごと赦され、受け入れられた、ということなのであって、ただちに別の人間に造り替えられたわけではないのであります。そういう罪を犯した可能性をもった自分を抱えながら、これからも生きていかなくてならないのであります。

 しかしそれならば、十字架による罪の赦しは、もうお前の罪は赦した、あとはもう何をしてもいいぞ、ということなのでしょうか。そうでないことはあきらかであります。そんなことでは、本当の罪の赦しにはならないし、罪から解放されたとは到底言えないはずであります。

 ヨハネ福音書にあります、姦淫を犯した現場を捕らえられて、イエスのところにつれられて来た女の記事を思い出してください。人々がイエスに「こういう女は石で打ち殺せと、律法では言われているが、あなたはどう思われますか」と迫った時に、イエスは始め何も言わずに黙っていた。何度も問うので、イエスは「あなたがたのなかで罪のないものがこの女に石を投げつけるがよい」と言われた。すると老人から始めて、みんなそこを去っていったというのです。そして女とイエスだけになった。

 その時イエスはなんと言ったか。「女よ、みんなはどこにいるか。お前を罰する者はなかったのか」と言いいます。女は「主よ、だれもございません」と、答えますと、イエスは「わたしもお前を罰しない。お帰りなさい」と言うのです。そしてそのあと、こう言います。「今後はもう罪を犯さないように」。

 この女はこの後、修道院に入ったわけではないのです。再びまたあの姦淫という罪を犯してしまった生活に「帰る」わけであります。そのなかで罪を犯さない生活を始めなくてならないわけです。それが罪の赦しということであります。

 罪を赦してあげる、後はもうどんな生活をしてもいいぞ、というのではないのです。イエスは「わたしもおまえを罰しない。お帰りなさい、今後はもう罪を犯さないように」と、言われて、女をもとの生活に帰すのであります。

 われわれはその「今後はもう罪をおかさないように」というイエスの言葉をどのように聞き取るかであります。この女はどのように聞き取ったかであります。一度は赦された、しかし今度罪を犯したら、もう赦されないぞ、という警告の言葉として、女は聞き取っているか。「仏の顔も三度まで」という言葉がありますが、イエス・キリストの顔も三度までしか拝めないのかということであります。

 この女はこのイエスの言葉を、「今度罪を犯したら、今度こそ地獄行きだ」という脅しの言葉として聞き取ったのではないと思います。それではひとつも罪の赦しにはならないからであります。

 このとき、女は「今後はもう罪を犯さないように」というイエスの言葉を、イエスからの励ましの言葉として聞いたと思います。「今後はもう罪を犯さないように」というイエスの言葉は、「これからお前は自分の弱さと戦い、自分の罪と戦ってゆきなさいよ」という励ましの言葉として聞き取ったのではないかと思います。

 このとき、女は、イエスから「わたしはお前を罰しない」といわれただけで、帰されるよりは、「今後はもう罪をおかさないように」と言われて帰されたほうが、女にとってどれだけ救われた気持ちになったかわからないと思います。

 「今後はもう罪をおかさないように」というその言葉があることによって、イエスさまは自分の将来のことも心配してくださっておられる、自分はイエスから見捨てられていない、イエスから期待されている、そういうイエスの愛を、女は深く、強く感じたに違いないと思います。

 そしてこの女は、その後、絶対に同じあやまちは犯さなかったかと言えば、決してそんなことはないと思います。人間というのは、そんなに一気に変わるものでもないし、一気に変わるというほうがおかしいので、一気に変わるということは、なにかそれこそ、マインド・コントロールにかけられるようなのものであって、かえって危険なものを感じます。

われわれが罪赦されるということは、あの罪を犯した自分の弱さをかかえたまま、その自分が神によって赦されて、受け入れられて、そしてこれからも、その神によって期待さなれながら生きていく、決して神様から捨てられないで、神様に期待されながら生きていくということであります。

 その神様の期待に応えて、これから、今後は罪を犯さないように生きていくということであります。その罪との戦いかたは、あくまで自分のペースで自分の罪と戦いながら、罪を犯さないように生きていくということではないかと思います。

 自分のペースで、ということが大事だと思います。自分の個性に従って、つまり、自分の弱さの力に応じて、自分の罪と戦う、そのことが大事だと思います。ですから、その戦いかたは、みな人によって様々であります。洗礼を受けて、一気に変わる人もいるかもしれないし、洗礼をうけても前といっこうに変わらないかもしれない。人の目にはそのように映るかもしれないのです。しかし自分自身のなかでは、確実に変わってきていると思います。

その自分の罪と戦う力の源泉はなにかであります。自分の意志の力など頼りになんかならないことは自分でもよく知っております。自分の悔い改めの決意の強さなどというものが頼りにならないことはわれわれはよく知っているのであります。

 それではわれわれを罪と戦わせる力はなにか。それはイエスの「わたしもあなたを罰しない」という罪の赦しの宣言であり、「今後はもう罪を犯さないように」というわれわれの将来をイエスが期待しておられるというイエスの励ましであります。

 罪赦された後、われわれはただ放り出されたのではなく、その後も神によって期待され、神に守られているのであります。その後の救いも保証されているのであります。われわれは、ただ過去の罪が赦されただけでなく、われわれの将来も赦されている、そうでなければ、われわれの現在の罪の赦しは力を失ってしまうのではないかと思います。

 つまり、過去の罪が赦されているということは、変な言い方かもしれませんが、われわれの将来犯すかも知れない、いや必ず犯すに違いない将来の罪も赦されるということであります。そういう確信を与えられているということであります。そうでなければ、われわれの現在の救いもないのであります。そうでなければ、われわれは自分の罪と戦うこともできないのです。

 それは欲張りではないかと言われるかも知れませんが、われわれはそれほど自分の将来にも自信はないのです。パウロもそのことはよく知っているのであります。

 ローマの信徒への手紙、五章の八節からみますと、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示された」とパウロは言った後、こう続けるのであります。
 「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのはなおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」。

 ここは口語訳聖書では、「わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう」と未来形をもっていわれております。

 リビングバイブルでは、「今や、キリスト様はやがて来る神様の怒りから、完全に救い出してくださるのです」と、なっていて、「やがて来る神の怒りから完全に救いだされる」と、もっとはっきりと、われわれの将来の救いも保証してくれると訳しております。

 そしてその将来の救いの保証は、あの十字架と復活において示された、イエス・キリストの命、つまり、神の愛とは別物のではないのだということです。

あの過去の罪を赦してくださったキリストの十字架と同じ恵みが将来も保証してくれるのであります。つまりそこで示された神の赦しと愛をわれわれが信じ通していく、その信じ通す信仰が一番大事であり、われわれの将来の救いを保証してくれるものなのであります。

キリストの十字架による罪の赦しは、われわれの過去の罪だけではなく、将来犯すかも知れない罪、いや、確実に犯すに違いない罪をも赦してくださる罪の赦しなのであります。

 しかし、そういいますと、聖書には違うことも書いてあるではないかといわれるかもしれません。たとえば、ヘブル人への手紙の六章にこういうことがいわれております。
 「神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱することになるからです」といっているのです。

 つまり、簡単にいえば、一度十字架による罪の赦しを経験しておきながら、堕落した場合には、もう再び悔い改めに立ち帰らせることはできないというのです。つまり、救われないぞ、というのです。

 さらに、ヘブル人への手紙では、一○章ではもっと恐ろしいことが言われております。
 「もし、わたしたちが真理の知識を受けて後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、(ここは、口語訳では、「ことさらに罪を犯しつづるならば」となっておりますが)、故意に罪を犯しつづるならば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです」といわれているのであります。

 そして「モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれだけ重い刑罰に価すると思いますか」と、われわれを震え上がらせるようなことをいうのであります。

しかし、ここはよく読んでみれば、いずれの場合も、「神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する」とか、「神の子を足げにし、恵みの霊を侮辱する者は」と、キリストの十字架の罪の赦しを侮辱し、軽んじる者には、もはや救われる道は残されていないということをいっているのであります。

 それは、イエス・キリストが「すべての罪は赦される、しかし、聖霊を汚す者の罪は赦されない」と言われたことと同じではないかと思います。聖霊とは、なんでしょうか。それは神の愛の霊であります。その神の愛をないがしろにし、その神の愛を足げにして、軽んじるものは赦されないということであります。

 つまり、あのキリストの十字架の罪の赦しを信じないもの、信じ切れない者、それをないがしろにし、足蹴にして侮辱するものは、赦されない、もう神様としてもどうしようもないということであります。

 愛は、それが受け入れられないとき、一番悲しいのであります。神はご自分のひとり子を十字架で殺してまで、われわれを愛していてるのです。その愛を信じない、信じ通そうとしない、それが軽んじられてしまう、それはどんなに神を悲しい思いにさせているかわからないのであります。
愛は受け入れてもらう以外にどうしようもないのであります。

 ですから、大事なことは、どこまでいっても、キリストの十字架の赦しを信じ続けることなのであります。将来もずーと信じ続けること、それがわれわれが自分の罪と戦うことのできる源泉であります。

 「キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われる」といわれております。「神の怒り」はわれわれの何に対してあらわれるのでしょうか。

 マタイによる福音書25章にあるタラントのたとえを思い出していただきたいのであります。主人が旅に出るときに、能力に応じてある者には五タラント、ある者には二タラントを与えられていながら、自分には一タラントしか与えらなかったしもべの話であります。
五タラント与えられてものは、主人が旅から帰ってきたときに、その五タラントで商売をして十タラントにして返して、主人にほめられた。二タラントを与えられたものも同じようにした。

 しかし一タラントを与えられた者はその一タラントをなくしてはいけないと思って、それを主人が帰るまで、地面に埋めておいたというのです。それで主人が帰って来た時に、その一タラントをそのまま差し出したら、主人からひどく怒られたという話であります。

 主人はその人に対して何を怒ったのか。それはその一タラントを託された人間が「わたしはあなたがまかない所から刈り、散らさない所から集める厳しい残酷な人である」と思って、この一タラントで商売して失敗してこの一タラントをなくしてしまったら、この主人からさぞかし叱られるだろうと、「恐ろしくなって」地面にその一タラントを隠しておいたというのであります。

 主人はそのことを怒ったのであります。「どうしてお前はわたしのことをそんな残酷な主人だと思ったのか」ということで、嘆き怒ったのであります。

 主人がそのしもべに、一タラントを渡したときに、主人はそのしもべの弱さを十分知っていたのであります。だから彼が自分の弱さと戦い、なんとしてでも、それで商売をして欲しいと期待し、願っていた筈であります。主人は彼がたとえそれで失敗して一タラントをなくしてしまっても叱らなかった筈であります。
 主人は一タラントを惜しんでいるのではないのです。もしそうであったならば、その一タラントを地面に隠しておくなんてことをしないで、銀行に預金してくれたらよかった、そうしたら確実に利子がついた筈だ、しかし自分はそんなことを望んでいなかったというのです。

 主人が望んでいたことは、その一タラントを自分の弱さと戦いながら、生かしてほしかったということであります。たとえそれで失敗して、それをなくしてしまっても、よかったのであります。それなのに、彼はそれを地面に隠してしまった、そのことで主人はひどく怒ったのであります。
主人はその旅の間じゅうずーとこの一タラントを預けた者のことを思い続けていたと思います。
 
 神の怒りは、われわれが神の愛を信じないことであります。そして神の怒りからわれわれが救われるのは、ただひとつ、どんなことがあっても神はわたしを見捨てないということ、神の愛を信じ切ることであります。

 こちらは、その人のことを赦したいと思っている、なんとか愛したいと思っている、しかし相手が自分のこの気持ちを信じてもらえない、理解してもらえない、われわれはその時一番悲しいのではないか。一番怒りたくなるのではないか。どうして自分の愛がわかってもらえないのかと嘆き、怒りたくなるのではないか。

 テサロニケへの信徒への第一の手紙の一章の一○節に、「この御子こそ、神が死者の中から復活させたかたで、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」といっております。「きたるべき怒りから救い出してくださるイエス」と言われているのです。

 「きたるべき怒り」とはわれわれが最後の審判で裁かれる裁き、終末の裁きのことであります。その時にわれわれが救われる保証は、われわれの頼りない悔い改めとか、つまらない良い行いなんかではないのです。十字架についてくださったイエス・キリスト、死者の中から復活したイエス・キリスト以外のなにものでもないのです。そのイエス・キリストが終末の時にもう一度来てくださってわれわれを励まし、とりなしてくださるのだというのであります。

 われわれの救いは、将来も保証されている救いなのであります。その保証はわれわれの行いにあるのではなく、あのキリストの十字架と復活において示された神の愛にあるのであります。それを信じ切っていきたいと思います。

 詩編一三○編の三節には、「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」と、歌われております。
 「赦しはあなたのもとにあり」、と歌うのであります。