「死は勝利にのみ込まれた」 コリントT一五章五○ー五八節

 ノーベル文学賞を受けた大江健三郎が、その賞を受けるために、スエーデンのストックホルムに行くときに、彼の義理の兄であった伊丹十三からこういわれたというのです。スエーデンにいったら、きっと各国の新聞記者からこういう質問を受けるだろう、「あなたはどうして広島の原爆にこだわるのか。戦争の悲惨さはなにも広島の原爆だけではないのに、どうして原爆にこだわるのか」と質問されるに違いないから、それに対する答えを考えておいたほうがいいといわれたというのです。

それで、大江健三郎はこういう答えを用意したというのです。「原爆の悲惨さというものは、死んでいく人とその人の死を記憶してくれる者が同時に一瞬のうちに死んでしまうということなんだ。だからその死は親しい者に、誰も記憶されないで死んでいかなくてはならないということなのだ。それはどんなに寂しいことか、どんなに悲しいことか。それが原爆の悲惨さなのだ」という答えを用意したというのです。

 死んでいく者にとっては、自分の死が誰かに知ってもらっている、自分の死を記憶してくれる人がいるということは、死んでいく人にとって大きな慰めだというのです。そして、死んでいく人もその死を記憶してくれる人も、同時に一瞬のうちに、失われてしまうということがどんなに悲惨なことかというのであります。

 死んだ者のことを思い起こし、その人の生と死の記憶を新たにするということは、生き残っているわれわれの義務であるし、責任であると思います。そして、それはまた単に義務とか責任であるとかという堅苦しいことではなく、このことがすでに死んだ人にとっても、生き残っている人にとっても慰めであり、さいわいなことであります。

 今日は、今われわれは召天者記念礼拝をして、すでに召されたかたのことを思い起こすことをしております。
 なぜ教会では、死者のことを思いだすために、こうした礼拝という形を通して、思いだそうとしているのでしょか。
 なぜこれが礼拝でなければならないのかということであります。なぜ単なる思い出の会とか、記念会ではいけないのか、なぜ礼拝でなければならないのか。
 礼拝というのは、いうまでもなく神を礼拝する式であります。死者のことを思いだすのに、なぜ神を礼拝するということをもって、神を仰ぎみながら、死者のことを思いださなくてはならないのかということであります。

 それは死を受けとめてくださるかたがいなかったならば、われわれはただ悔しい思いだけで、ただ悲しい思いだけで、死者を思いださなくてはならないからであります。
 われわれの死をうけとめてくださるかたがおられる、それは神様だ、その神様を仰ぎ見ながら、われわれ今、死者のことを思いだす必要がある、だからわれわれはこうして礼拝として、死者のことを思いだそうとしているのであります。

 佐野洋子さんという画家であり、エッセイストというかたがおりますが、そのかたのエッセイを読んでおりましたら、こんな面白い文があって思わず笑ってしまいました。親しくしている老婆がいて、そのおばあさんがこういっていたというのです。「九十歳の老婆が『私はもう充分生きたわ。いつお迎えがきてくれてもいい。でも今日でなくてもいい』と言った」というのです。そして佐野洋子さんは結びの言葉で、「いつ死んでもいい、でも今日でなくてもいいと思っているのかな、この日本で」といってその文を終えているのであります。

 確かにある程度年をとってしまいますと、もういつ死んでもいいという心境になるかもしれません。そして、「でも今日でなくてもいい」といいながら、多くの老人は、毎日をあまり緊張しないで、平静な気持ちで生きているのではないかと思います。

 さきほど読みました聖書には、「死よ、おまえのとげはどこにあるか」とありました。われわれにとっては、死というのは、とげのようにして、われわれの生ただ中に突き刺さってくる恐ろしいものであります。
 しかしあの老婆の心境、「いつ死んでもいい、しかし今日でなくてもいい」といっている、あの老婆には、そのような緊迫したというか、死に対する恐れおののきのようなものはみじんも感じられないのです。

それに対して、聖書の死に対する見方というものは、死はわれわれの生のなかに突き刺さってくるとげである、だからそんなのんきな思いで死というものを迎えられるものではないというのです。

 聖書の死に対する見方というのは大げさなのでしょうか。聖書は死のとげは罪であるというのです。われわれ人間には罪があるから、なかなか平静に死ねないのだというのです。聖書の根本的な教えは、罪の報酬は死であるということです。死というのは、罪が支払う報酬、罪が支払う給与だというのです。つまり人間は罪を犯したためにその報いとして死がある、われわれの罪のために、神はわれわれ人間を死なすのだというのです。

 昔の人は、罪を犯した人間は死んだあと、地獄に落とされるのだと考えたのです。だから死ぬということは、恐ろしかったのです。私なども自分の青春時代を考えますと、地獄というものがとても怖かったのです。だから悪いこともあまりできなかったという気がします。地獄というものが本当にリアルに信じられていた時代でした。

 今日のわれわれにはもうあまり素朴に地獄という存在を信じなくなったかもしれません。しかしだからといって、われわれ人間に罪がなくなったわけではありません。地獄の存在の観念が薄れただけ、地獄の恐怖がなくなっただけ、死んだらただの終わりだとしか思わなくなったために、生きているときにどんな悪いことしたって、死んだらそのまま終わるのだと考えて、平気で悪いことができるようになったのではないかとすら思うほどであります。

 しかし、聖書は、われわれのキリスト教信仰では、罪の支払う報酬は死である、というのです。死はわれわれ人間の罪に対する裁きとしてわれわれに迫ってくる、それがとげとなってわれわれの生を脅かすのだいうのです。

 わたしの家内の母は九十歳で亡くなりました。この伊勢崎教会の前牧師の竹前豊蔵牧師の夫人で、また教会付属の愛の光保育園の主任保母をしておりました。そ母が、亡くなる一年前には、一時、夜幻覚や幻聴を見るようになりまして、意識が混濁するという時期がありました。その頃は死というものをとてもこわがっておりました。自分は死んだら天国にいけるのだろうかと心配しておりました。夜がとても不安だったようです。
 寝たきりの状態が続きましたので、同じ姿勢のままで寝るとよくないということで、わたしと家内でからだを動かそうとしますと、母はしきりに「痛い、痛い」と申しました。もともと腰痛をもっていましたから、痛がったのです。その時に、母はしきりに「ごめんなさい」「ごめんなさい」というのです。わたしはそれを聞いてどうしてこの時に「ごめんなさい」というのだろうか。どうして「ごめんなさい」といって謝るのだろうかと不思議な気がしたのです。

 そしてわたしはこう考えました。恐らくこの時の母の気持ちは、このようにしてこの期に及んで、痛い思いをするのは、自分が今まで犯してきた罪の罰を受けているのだ、自分は今神の裁きを受けているのだ、この痛みはその罰なのだと思ったのではないかということでした。

 母は、夫である牧師を助けて、牧師夫人として、またその教会の付属保育園としてその立ち上げから関わって来た人で、大変活躍した人でした。子供にもまたその母親たちにも指導力を発揮しました。大変率直にものを言う人ですから、多くの人をまた傷つけてきたということもあったと思うのです。ある意味では自分の信念とか思想というものを強くもっていて、ひとを指導してきました。そのために自我の強い、自己主張の激しい人でした。そしてその強い指導力をもって、多くの人を助け、生かし、励まして来たわけです。しかしまたその我の強さが多くの人を傷つけてきたかもしれないのです。

 母は今、今まで自分が生きてきて多くの人を傷つけてきたそのことを思い、今こうして痛い思いをしているのは、神様からその罰を今こうして受けているのではないかとその時思ったのではないか。それでしきりに「ごめんなさい」「ごめんなさい」と謝っているのではないかとわたしは推察したのであります。
 母は晩年、しきりに信仰で一番大事なのは、「赦し」なのよね、と言っておりました。母は必死に、神に赦しを乞い、人に赦しを乞うていたのだと思います。

 われわれクリスチャンにとって、その最後の時を迎える時に思うことは、自分の犯してきた罪のことであります。自分はこれだけいいことをしてきた、これだけ立派なことをしてきたなどということを思うのではなく、自分は実に多くの人を傷つけてきたという罪のことであります。

 自分は何と罪深い人間だろうということであります。われわれは最後の時を迎えるとき、死を前にして思うことはそのことなのです。だから謝らなくてはならない、だから、赦してください、ごめんなさいと人に対して、そして神に対していわざるをえなくなるのです。

 母はそうした時期をすぎますと、そうした激しい苦しい戦いを過ごしたあとは、もうまったく幻覚も幻聴もなくなり、毎日を平静に過ごすようになりました。一日中寝たきりという状態が続いて、最後は平静に死んでいったのであります。

もうこの時には、母には死のとげはなくなっていたのであります。それは彼女がすっかり自分の死を神様に委ねることができるようになったからではないかと思います。

 聖書の死に対する考えは、神様によって最初に創られたアダムとエバが、神様から禁じられた、知恵の実を食べたことから、その罰として死が与えられたのだということであります。
アダムとエバは自分たちが人間であることを忘れて、それを不満に思って、神様のようになろうとして、知恵の実を食べたのです。その罰として死が神様によって与えられたというのです。

 これはもちろん神話であります。いわば、作り話です。しかし聖書はその神話を通して、人間というのは、神ではない、人間が神のごとくなろうとして、命を創りだそうとしたりこの地球を人間の思いのままに支配しようとしたりするときに、とんでもない事態が起こる、そのことをその神話は警告しているのであります。人間の罪はついに自分たちの力で人間の力で天にまで達するバベルの塔を建てようとし始める、それが人間の文明なのだ、それに対して神はそのバベルの塔を建てるのを阻止しようとされたのであります。

 人間の文明のゆきつくところは、人間が自分達人間の限界を忘れて、神のようになろうとするのことであります。命を創ろうとしたり、遺伝子操作をしたり、地球を支配しようとしたりすることであります。そこに恐ろしい人間の罪がある、人間は目先の便利さとか、ただ生き延びればいいという浅薄な考えで、遺伝子操作や、臓器移植をするようになる、そして目先の便利さだけを考えて、大国は環境破壊をしてきた、その結果、どんなに恐ろしいことが起ころうとしているか、そこに人間の罪があると、あの神話はわれわれに警告しているのであります。
 
 そういう人間に対して神が与えた罰が、死であります。聖書はこういうのです。「お前は塵から生まれたに過ぎない存在ではないか、そのことを知るために、お前を最後に塵に返す」。

 それがわれわれの死であります。それが神の裁きとしての死、神の罰としての死であります。ですから、この死は神の罰のようでありながら、われわれは死を通して、自分がやはり人間に過ぎなかったということを身にしみて分かる時なのです。ですから、死というのは、単なる罰ではなく、神の恵みの時なのです。

 死というのは、われわれにとっては、一番自分の弱さを知り、自分の限界を知らされ、自分が塵にすぎない存在にすぎないことを知らされる時であります。つまり、死の時というのは、われわれが一番神を仰ぎ見る、神に頼りたくなる時、神を信じたくなる、信じることができる時なのです。だから死はわれわれにとっては救いの時なのです、恵みの時なのです。

 神のひとり子であるわれわれの救い主、イエス・キリストはわれわれ人間のひとりになりきって、あの十字架のうえで、「わが神、わが神、どうしてわたしたをお見捨てになったのですか」と、叫ばれて死んでいったのであります。われわれ人間の罪を背負って、神に裁かれたのであります。

 そして三日後に神はそのイエスをよみがえらせたのであります。それは神はそのイエスを見捨てなかったという証だったのです。イエス・キリストがわれわれ人間の罪を身代わりに背負ってくれて、あがなってくれて、死んでくれた。神はそのイエスをよみがえらせたのであります。それはわれわれの人間の罪を赦してくださったという証であります。それが復活ということであります。

 復活信仰というのは、死なない信仰ではないのです、死んでも神がよみがえらせてくださるという信仰であります。死んでも大丈夫だという信仰であります。
 
 イエスは決して立派に堂々として死んだのではないのです。むしろみつともないほどに、ご自分の弱さをさらけ出して、しかし、ただ神にのみ祈り、神にのみ助けを求め、神にだけご自分の霊を委ねて死んでいったのです。それが人間の死でなくてはならないのです。

 われわれは死ぬときまで、かっこよく死のうとするのです。まわりの人にあの人は立派に死んだと思われて死にたいと願うのです。そして周りの人もそのような死を期待してしまうのであります。それは人間の浅はかさではないでしょうか。それは人間の一番醜い自我ではないか。死ぬときくらい、すべてを放棄してすべてを神様に委ねて死ねればいいと思うのに、死ぬときまで自分の立派さを示そうと思ってしまう。誤解をまねくかもしれませんが、アルツハイマー的な死が一番人間らしい死に方であるかもしれないと思います。

 クリスチャンになった椎名麟三は、自分は復活を信じられるようになって、「これで安心して『じたばたして』死ねる」といったそうです。

 死は勝利に呑まれてしまったということはこういう死に方ができるということなのです。もう自分を信じるのではなく、神を信じて死ねるからであります。

 われわれは今こうして神を仰ぎ見ながら、すでに死んだかたを思い起こし、そしてまたわれわれ自身の死を思いおこしたいと思います。