「主イエスにあって死ぬ人のさいわい」 ヨハネ黙示録一四章一三節


 「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」という天からの声を聞いたというのです。「今から後」というのは、いつからのことなのでしょうか。それは主イエスがこの世にいらしてから、ということであります。もっと正確にいえば、主イエスが十字架で死んで、復活してから後、ということであります。

 主イエス・キリストが来られるまでは、イスラエルの人々は、死んだあとは、みな陰府に降るのだと考えていたようであります。陰府というのは、闇の世界であります。そこは「忘れの国」ともいわれております。人々に忘れられ、神様までにも忘れられてしまう世界として考えられていたのであります。もうそこでは、神様を賛美することもできない世界と考えられていた。だから陰府に落とさないでくださいと必死に人々は神に祈ったのであります。

 しかし「今から後、主イエスに結ばれて死ぬ人は幸いである」というのです。

 なぜ幸いなのか。なぜ死んだあと陰府にまで降った人はさいわいなのか。
 ペテロの第一の手紙では、「キリストは肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところに行って宣教されました」とあって、イエス・キリストは十字架で死んだあと、陰府にまでくだり、その陰府にいる人々にまで福音、神の恵みを宣べ伝えに行ったのだというのです。
 さきほどご一緒に告白しました使徒信条でも、イエス・キリストは「十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちからよみがえり」と告白するのであります。

主イエス・キリストが十字架で死んだあと、陰府にまでくだって、暗闇の世界に捕らわれている人々にまで神の慈しみを宣べ伝えた、だから今から後、主イエスにあって、主イエスに結ばれて死んでいく人は幸いだというのです。
 主イエスにあって、主イエスに結ばれて死んでいく人は幸いだといわれてしまうと、それでは主イエスを信じないで、死んだひとはどうなるのか、この世で悪いことをしてきた人はどうなるのかとわれわれはすぐ不安になると思います。

 しかし、「主に結ばれて」ということは、われわれ人間のほうがしっかりと主イエスの手を握りしめて、しっかりとイエスを信じて、死んでいくということではないのです。そうではなくて、われわれのほうでイエスの手を握るのではなくて、主イエスのほうでしっかりとわれわれの手を握りしめて、われわれと共に死の陰の谷を歩んでくださる、だからさいわいだということであります。

 われわれの信仰などというものは、実に頼りないものであります。あるときには熱心にイエスを信じますといいながら、ちょっと自分にとって不都合なことが起こるとすぐイエスの手を離してしまうのです。われわれの信仰は本当に浮き沈めが激しいのではないかと思います。

 われわれが死ぬときには、だいたいぼけが来ているときであります。どんなに熱心に信仰生活を送ってきても、最後のときには、アーメンといわないで、南無
阿弥陀仏といって死ぬようなことをするかもしれません。

 ですから、信仰というのは、われわれの意識とか自覚ではないのです。どんなにわれわれの信仰が頼りなくても、神様のほうで、イエス・キリストのほうでしっかりとわれわれを捕らえてくださっている、そのことを信頼していくということなのです。信仰とは、われわれが神を知るということよりも、われわれが神に知られていることを知ることなのです。われわれが神を信じるというよりも、少しおかしな表現になりますが、われわれが神に信じられているということを信じていくということなのであります。

 では、どういう人が神に知られ、神に信じられて、死の陰の谷を共に歩んでくださるのか。自分のような悪いことばかりしてきた人間、神様のことをないがしろにして来た人間が果たして本当に救われるのだろうかということは、われわれにとってはいつも不安であります。それはいわば信仰の厚いと言われているひとほどそうかもしれません。

 主イエスと共に一緒に十字架につけられた二人の犯罪人がおりました。ひとりはイエスに悪態をついて、「お前が救い主というのならば、神の子だというのならば、ここで奇跡を起こして、自分自身を救い、われわれも救い出してくれよ」とイエスに叫ぶのであります。そうすると、もうひとりの犯罪人は、彼をたしなめて、「自分たちはさんざん悪いことをしてきたから、こうして十字架刑に処せられるのは仕方ない。しかしこのかたは何も悪いことをしていない」といって、イエスに向かって「イエスよ、あなたがもう一度おいでになるときには、わたしを思いだしてください」といったのです。するとイエスはすぐ、「よくいっておく。お前はきょうわたしと一緒にパラダイスにいる」といわれたのです。

 親鸞は悪人正機を唱えた、すなわち「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と唱えた、善い人が救われるのならば、まして悪い人はなおさら救われるはずだということですが、親鸞がそのように悪人正機をといたのだといわれていますが、しかしそれよりもはるか昔にイエスがはっきりと悪人正機を唱えているのです。
主イエスは「わたしは義人を招くためではなく、罪人をまねくためにこの世に来たのだ」といわれたのであります。これはまさに悪機であります。

 この犯罪人は、当時の考え従って、人は悪いことをしたら死んで黄泉とか地獄におとされて長いあいだ苦しめられるのだ、しかしずっと遠い将来、イエス様はもう一度この世に来てくださるかもしれない、そのときには、せめてわたしのことを思いだしてください、訴えたのです。彼は自分を救ってください、とはおこがましくてとうていえなかったのです。せめて思い出してくださいといったのです。

 するとイエスは、ただちに、ずっと将来のいつかなどではなく、「きょうお前はわたしと一緒にパラダイスにいる」といわれたのであります。これはまさに悪人正機であります。イエス・キリストと一緒にパラダイスに行ったのは、この犯罪人が最初だったというのです。

 このイエスの言葉をきいて、「わたしを思いだしてください」と訴えた犯罪人はとても慰められたと思います。いや、もしかすると、イエスに悪態をついたもう一人の犯罪人もこのイエスの言葉を耳にして慰められたのではないかと思います。

 今からのち主イエスに結ばれて死ぬひとは、本当にさいわいなのであります。

 音楽の形にレクイエムというのがあります。鎮魂ミサ曲といわれております。死者を慰めるための音楽で、葬式などに用いられる音楽であります。しかしそれはただ死者のためのミサ曲、死者を慰めるための音楽というよりは、愛する者を失って悲しんでいる遺族、生きている人を慰める音楽といったほうがいいかもしれません。

 そのレクイエムのなかで一番有名なのが、モーツアルトのレクイエムであるかもしれません。しかしこのモーツアルトのレクイエムと同等に親しまれているのがフォーレのレクイエムであります。このレクイエムはとても優しい旋律で終始していて大変なぐさめられる曲になっております。

 このフォーレのレクイエムがなぜ慰めにみちた、優しい曲になっているかというと、このレクイエムには、カトリック教会の死者のためのミサ曲にかならずある死の恐ろしさをあらわす「怒りの日」とか「最後の審判」をあらわす部分がないというところから来ているのです。これはカトリックのレクイエムの典礼からいうと異例なのだということです。フォーレはカトリック教徒でありながら、それを歌わなかったということで、カトリック教会からは非難されたようであります。

 前に、テレビの「名曲探偵」という番組で、これはクラシック音楽を丁寧に分析する番組でわたしはよく見るのですが、このフォーレのレクイエムを解説していてこういっているのです。

 当時はもう教会の権威というものが失われつつあった時代だ。教会は「神の怒りの日」とか「最後の審判」ということを強調して、われわれの人生の最後にはそういう恐ろしい神の裁きの日がくるのだ、だからその裁きから逃れるためには、悔い改めなくてならない、そうしてその悔い改めの徴として、教会に沢山の献金をしなさいといって、免罪符を発行したりして、お金儲けをしてきて、教会の権威をもとうとした。

 しかしルネサンスを経て、もはや教会の権威が失われている時で、フォーレは教会の権威を高めるための、おどしのような「怒りの日」とか「最後の審判」という部分を書こうとしなかったのだ、説明しておりました。

 レクイエムいう形式の曲では、この「怒りの日」とか「最後の審判」を歌うところが、レクイエムのなかでももっとも劇的で、作曲家の腕のみせどころなのだとそうです。それはモーツアルトのレクイエムのなかでもそうですし、ヴルディーのレクイエムでは、この「最後の審判」の部分は、すべてのオーケストラの楽器が鳴り響いて、すざましく劇的なのであります。

しかし、作曲家にとって、もっとも腕のみせどころのその部分をフォーレ書かなかった。
 フォーレがこの部分を作曲しなかったということで、カトリック教会から非難されたということであります。

 しかし、フォーレのレクイエムには、実際は「怒りの日」とか「最後の審判」の部分がまったくないかというと、そうではなく、「われを赦したたまえ」という部分のところで、わずかたった一六章節ですけれど、あるのです。「主よ、かの恐ろしい日に、わたしを永遠の死から解放してください。その日こそ怒りの日、わざわいの日、なやみの日、大いなる悲嘆の日」と歌いますが、すぐ続けて「主よ、永遠の休息を彼らにあたえ、たえざる光を彼らの上に照らしたまえ、主よ、解放してください」と、歌うのであります。

 確かに、昔から、教会は「最後の審判」とか「神の怒り」とかを強調して、
死の恐ろしさを訴えて、教会の権威を高めたり、死の恐ろしさを訴えることによって献金をつのり、金儲けに走ったのであります。それは教会だけではなく、そして昔の話だけではく、すべての宗教は死の恐ろしさを強調することによってお金儲けに走っていることは確かだと思います。それは許し難いことであります。

 今日では、もうそうした「最後の審判」とか、地獄の恐ろしさとかは、迷信的なことだ、神話的なことだといって、信じなくなっているかもしれません。

 しかし、それではわれわれ現代人は、もう完全に死の不安とか死の恐怖から解放されて、淡々と死を迎えられるのかといえば、決してそんなことはないと思います。われわれはどんなに科学的合理主義をもって、「最後の審判」とか「神の怒りの日」というようなものを神話だといって消し去ろうとしても、死の不安とか死の恐怖、死んだあとどうなるのかという不安から完全に解放されるわけにはいかないと思います。

 聖書には、われわれは死んだあとみな「キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」と記されているのであります。

 この世をいいかげんに無責任に生きてきた人にとっては、死もまたいい加減にしか受け取らないで死んでいくかもしれませんが、しかしこの世を真面目に真剣に生きたひとにとっては、死もまたいい加減に死ぬわけにはいかないと思います。クリスチャンであろうとなかろうと、われわれは死をただ無になるのだということだけて割り切るわけにはいかないのではないかと思います。

 真面目に生きた人こそ、死を前にして、神の裁きをというものを真剣に受け止めるのではないかと思います。

 しかしそのとき、われわれは主イエス・キリストの取りなしを信じることができるのです。あのイエス共に十字架につけられた犯罪人のひとりが「主よ、あなたが天国にいったときにわたしのことを思いだしてください」と訴えたときに、「お前はきょうわたしと一緒にパラダイスにいる」といわれた主イエス・キリストの罪の赦しの福音を信じて、神の裁きの座に立つことができるのです。

 「今からのち、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」という言葉を聞くことができるのであります。霊もまたいう「しかり、彼らは労苦を説かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである」という霊の声も聞くことができるのであります。

 「その行いが報われる」とありまが、それはこの世で良い行いをしたものは、報われて天国にいくのだということではないのです。われわれがこの世で懸命に生きてきた労苦、それにはいろいろな失敗もあったと思います、慚愧に堪えないこともしてきたと思います、しかしそれらも決して無駄ではなかったのだ、と神様によって評価され、報われるのだということであります。死によってすべての労苦から解放されるのであります。
 
 フォーレは自分の書いたレクイエムが、これには、死の恐ろしさをあらわす「怒りの日」がないと非難されたときに、こう答えたそうです。
「ひとはこの曲を死の子守歌だと言ったひともいるけれど、わたしは死をこのように感じている。死は苦しい体験ではなく、幸せなあの世への希望に満ちた解放としてうけとめている」と答えたそうであります。

 フォーレは、主イエスを信じ「いつくしみ深き主イエスよ、彼らに安息を与え、絶えざる安息を彼らに与えたまえ」と歌い、そしてこのレクイエムの最後は、「楽園にて」と表題が掲げられて、「天使らがあなたを天国に連れていくように、永遠の休みに導いてください」と歌って、ほんとうに静かにこの曲は終わるのであります。

 主イエスに結ばれて死ぬ人はさいわいである、この聖書の言葉を信じて、やがてすべての人に訪れる死の陰の谷を歩みたいと思います。