「主の山に備えあり」 創世記二十二章一ー
マタイ福音書一○章三四ー三七節


 神はアブラハムを試みたというのです。何を試みたのか。それはアブラハムの信仰を試みたのであります。アブラハムのどういう信仰を試みたのでしょうか。 アブラハムは神を信じていたのです。神を信じていたら、紆余曲折はあるかもしれないけれど、神は必ずすべてのことを良い方へと備えてくださる、アブラハムはそう信じていた。神は今、そういうアブラハムの信仰を試みたのであります。

 さきほど読んでいただきました所では、「主の山に備えあり」という言葉があります。これはこの箇所の中心になる言葉なのですが、ここでいう「主」というのは、神様のことです、つまり、神様の山には、神様を信じていたら、必ず備えがある、という意味であります。アブラハムもこの信仰を堅くもっていたのであります。

これはアブラハムだけではなく、およそ神様を信じるということはそういうことなのです。われわれもまたそのようにして、神様を信じているのです。

しかし、神は、われわれのそういう信仰に対して、それは本当にそうなのか、神様を信じていたら、そんなに何もかもうまくいくのか、神はわれわれのもっているそういう信仰を試みる時があるのです。

 神はアブラハムにこう言われました。「アブラハムよ、あなたの息子、あなたの愛する独り子、イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」。「焼き尽くす献げもの」とは、口語訳では、「燔祭」と訳されておりました。そのほうが簡潔な訳語なので、それを用いていきます。口語訳を今日は使わせていただきます。

 燔祭として捧げるということは、羊をほふって、羊を殺して、それを薪の上において、火をつけて焼くということであります。そうしますと、煙は上に上っていきますから、それはやがて天に達する、神のところに献げられるわけです。燔祭という儀式は、羊を殺して、その羊を焼いて、その煙を天に昇らせる儀式なのです。
 神は今、本来は羊が殺されるのですが、その羊の代わりにお前の子イサクを焼いてささげよというのです。わが子イサクを殺せということであります。これはとんでもない恐ろしいことであります。

 アブラハムは朝早く起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。三日目にアブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。

 アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、自分は手に火と刃物とを執って山に向かった。火と刃物は危険なものであります。それは父親である自分が手にしたというのであります。

 イサクが父親に尋ねます。「父よ、火とたきぎとはここにありますが、燔祭の子羊はどこにありますか。」アブラハムは一番聞かれたくないことを今イサクから聞かれるのであります。アブラハムは「子よ、神みずから燔祭の子羊を備えてくださるであろう」と答えます。これは彼の言い逃れであるかも知れません。しかし、本当は決して言い逃れの言葉ではなく、アブラハムは、きっと神は最後には燔祭の子羊を用意してくださるに違いないと信じていたのではないかと思います。

 アブラハムは神を信じていた。神を信用していた。だから最後の土壇場で必ず神はわが子イサクを殺さないですむように、燔祭の子羊を神が用意してくださるに違いないと信じていたはずであります。これはアブラハムが苦しみ紛れに答えた答えではなく、最後まで必ずそうなると信じていた答えだろうと思います。

 しかしとうとう神が示された場所に来てしまったのであります。アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。この時イサクがいくつになっていたのかはわかりませんが、少なくとも、なにもわからない赤ちゃんではなかったことは明らかであります。「燔祭の子羊はどこにありますか」と父親に尋ねたのですから、もうなにもかもわかっている年齢であります。

 とうとうアブラハムはわが子イサクを殺すところまで追いつめられたのであります。アブラハムはそれまでは、神はきっとイサクの代わりに子羊を用意しておいてくださるに違いないと信じていたと思います。しかし、神は用意をしてくれていなかった、彼は刃物をとった。刃物をとったということは、これはもう実質的には、イサクを殺したことと同じであります。

臼井吉見という人が、人を信頼するということはこういうことだといっております。「人を信頼するということは、その人がいつも自分の願っていることをその通りにしてくれることを信じることではない。あるときには、自分の思ってもえないことをするかも知れない。自分の期待し、願っているとおりのことをしてくれるわけではない。しかし、最低限、このことだけはしまいと信じること、それがその人を信じ、信頼することだ」といっております。

 アブラハムは、そういう意味で、神を信じていた、神を信頼していた。しかしここに来て、わたしの信じている神ならば、最低限こういうことはしまいと信じていたことが危うくされようとしているのであります。

 今神は、アブラハムが自分の考えで、自分の思いで、自分の希望的観測で神ならば最低限こういうことはしまいと考えていた信仰をこわしてしまおうしてるのであります。それでも「お前はわたしを信じるか」「お前のもっている信仰をすてられるか」と、神は今、そのアブラハムの信仰を試みたのであります。

 そういう信仰を今神はアブラハムに迫ったのであります。アブラハムはその神に服従した。わが子を殺そうとして、刃物に手をかけた。その時に主の使いはアブラハムに呼びかけた。「アブラハムよ」、彼は答えた。「はい、ここにおります」。主の使いは言った。「その子に手をくだすな。何もしてはならない。お前が、本当に神を畏れるものであることが今わかった。お前は自分のひとり子である息子すら、わたしに献げることを惜しまなかったからだ」というのであります。
 
 わたしはここを読む時に、どうせイサクを殺さないようにするならば、せめて、アブラハムが刃物に手をかける前に「その子に手をくだすな」と、なぜいってくれなかったのかと思いたくなるのであります。アブラハムが刃物に手をかけたということは、もう実質的にはわが子を殺した事と同じであります。心理的には同じであります。なぜ神はそんなむごいことをアブラハムに要求したのでしょうか。

 アブラハムは一度は刃物に手をかけて、わが子イサクを殺そうとした。それはイサクも見ていた筈であります。あるいはこの時アブラハムはイサクの体を縛った時に、イサクの目に目隠しをしたのかも知れませんが、しかしイサクは自分の父親が自分を殺そうとしたということはわかったはずであります。

 このあと、イサクは殺されませんでしたが、後にイサクから「お父さん、あの時あなたはわたしを一度は本気になって殺そうとしましたね」と言われたら、アブラハムはどうしたでしょうか。彼は一生その負い目をイサクにもったのでしょうか。そういう後ろめたさをもったでしょうか。

 アブラハムがもしわが子イサクからそのように問われたら、きっとアブラハムはこう答えたのではないでしょうか。「そうだ、確かにわたしは一度はお前を本当に殺そうとした。しかしあの時わたしはお前と一緒に自分も殺そうとしたのだ。自分を殺していたのだ」と答えたのではないでしょうか。

 アブラハムはあの時わが子をイサクを殺したというよりは、なによりも自分自身を殺していた。わが子イサクを捨てたと同時に、自分も捨てていた筈であります。そうして神に従った筈であります。だから、この後、アブラハムはわが子イサクに対してなんの後ろめたさも持ったなかったのではないかと思うんです。

 もうこの時はアブラハムは自分の将来の幸福も捨てる思いで、わが子イサクを殺そうとした筈であります。わが子イサクを殺すということは、アブラハムにとっては、自分も殺すということだったと思います。イサクを殺して自分だけは生き延びるなどということは到底思えなかったと思います。アブラハムにとっては、神に従うということは、ある時にはわが子を殺すことなのだ、そして自分を殺すことなのだということがわかったのであります。

 これは主イエスもまた言われていることであります。「わたしはこの地上に平和をもたらすために来たのではない。平和ではなく、つるぎを投げ込むために来たのだ。わたしが来たのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲違いさせるために来たのだ。わたしよりも父また母を愛するもの、わたしよりも息子や娘を愛するものはわたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従って来ないものはわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者はそれを得るであろう」と言われているのであります。

 「わたしよりも父母を愛するもの、わたしよりも息子娘を愛する者はわたしにふさわしくない」と、イエスは言われているのであります。

 神はアブラハムにわが子を殺して神に捧げよといわれたのであります。そうしないと、アブラハムの将来はない、選民イスラエル民族の将来はない、いや人間の将来はない、といわれたのであります。

 それはこの世界が人間中心の世界観ではだめだということであります。神が中心に立っていなくてはならないということであります。これは一歩間違えれば大変恐ろしい思想であります。だから宗教は恐ろしいといわれる思想であります。キリスト教もまたその恐ろしい思想をそのうちにひそめていることをわれわれは知っておかなくてはならないと思います。

 なにがなんでも父母を愛していくという人情だけでわれわれはやっていけるのかということなのです。あのユダヤ人大虐殺をやりのけたナチの将校たちは家に帰れば、美しいモーツアルトの音楽を聞き、子供や孫を大変可愛がる人間だったのであります。よき家庭人だったのであります。
 
 家庭を大切にする人情だけでは、ユダヤ人大量虐殺をやめさせる力にはならないのです。父母よりも神を懼れる信仰、息子娘よりも、そうした人情よりも、神を懼れる信仰がどんなに大事かということであります。

 神が今アブラハムに試みようとしたことは、自分の願い、自分の期待、自分の今までいだいていた神観念を捨てて、本当に自分を捨てて、神を恐れ、神に従うことができるかどうかであります。
 
 今神はアブラハムがもっていた信仰、「イサクよ、神みずから燔祭の子羊を備えてくださるでしょう」という信仰を捨てさせたのであります。

 そしてアブラハムがそれを捨てた時に、神は一頭の雄羊を用意していた。「その子に手をくだすな。何もしてはならない。お前が神を畏れる者であることが今わかったからだ。お前は自分の独り子である息子すら、わたしに献げることを惜しまなかった」といって、神は一頭の雄羊を用意したのであります。

 アブラハムはそれを燔祭として捧げた。それでアブラハムはその所の名を「ヤーウェ・イルエ」(主は備えてくださいる)」と名付けた。ここは口語訳聖書では、「アドナイ・エレ」となっております。

 ヤーウェ、あるいは、アドナイとは、神様のことです。そして「イルエ」「エレ」とは、もともとは「見る、見ておられる」という意味で、これが神様との関連で使われるときには、「神はあらかじめ見ておられる」という意味になるのだそうです。「主なる神は見て、備えてくださる」という意味になったのであります。

 アドナイ・エレとは「神が見ておられる」という意味、神がわれわれ人間にとって必要なものを見ておられるというのであります。ここから後に摂理という言葉が生まれたそうであります。それにより、人々は今日もなお、「主の山に備えあり」といったというのであります。

 「主の山に備えあり」、というのは、神を信じていたら、神は最後には必ずわれわれに必要なものを備えてくださるという信仰であります。

 しかしこれはともすれば、きわめて御利益的な信仰をわれわれに植え付けます。神様を信じていれば、なにもかも最後にはうまくいく、「主の山には、備えがあるのだ」ということになってしまうてのです。

 しかしここでは、アブラハムが本当の意味で「主の山に備えあり」という信仰を得たのは、アブラハムがそれまでもったいた信仰「主の山に備えあり」という信仰をすてさせたときに、与えられた信仰なのであります。
 彼が自分の御利益的な期待を全部捨てて、わが子イサクを、いや自分自身を殺そうとした、いや殺してしまった時に与えられる信仰なのであります。

 神によってようやく与えられたイサクを神が取り去ってしまう、「わが子イサクを殺せ」、そう神は命ぜられる、その神の命令に従えるか、それほどに神を信用して神に従えるか、そういう信仰が今問われているのであります。自分の信仰が単なる御利益的信仰でないといえるかどうかであります。

われわれの信仰はいつだって、御利益的な信仰から始まっているのです。病気になった時には、必死になってこの病気を治してくださいと必死に祈るのです。われわれクリスチャンは、さすがに、あからさまに、自分を金持ちにしてくださいとは祈らないかもしれませんが、しかし、よくよく考えてみれば、われわれも結局はその祈りにつながる祈りをしているのです。われわれクリスチャンの信仰も御利益信仰から始まっているのです。それ以外の信仰は観念的な信仰で、そんなものは信仰とは言えないのです。パスカルという人が言っておりますが、そんな者は哲学者が信じる神の信仰であって、われわれの信仰とは違うのです。

 主イエスもそうした人々の御利益的信仰を決して、軽蔑してしりぞけたりはなさらないで、病人をいやしたのです。イエスは何よりも、そのように病気で苦しんでいる人、世間で差別されて苦しめられている人を慰め、いやしたのです。イエスはある意味では、そのような御利益的信仰を決して軽蔑したり、退けたりはなさらなかったのです。

 しかし、主イエスは、病気をいやしながら、同時に「あなたには神様がおられるではないか」と教えられた。「あなたの罪は赦された」といわれて、その病気の根源であるわれわれの罪、自己中心性という罪、人間中心というわれわれの罪をあきらかにし、それを癒されたのであります。

 神はある時われわれからその御利益的信仰を取り去る時がある、そのようにして神はわれわれを試みることがある。

 われわれのほうから、自分の御利益的信仰を捨てるなんてことはできないと思うのです。だからある時、神は、神のほうから、われわれの御利益的信仰をすてさせようとわれわれの信仰を試みるのであります。
 
 その時われわれはどうしたらいいか。今からそんな事を心配しても仕方ないことであります。それよりも、神はわれわれを試みる時に、その試練と同時にそれに耐えられるように、逃れる道も備えてくだるというパウロの言葉を思い出しておけばいいのであります。神はわれわれを試みます。しかし同時に神はその試練に耐える信仰、御利益信仰を超えた信仰を神が必ずわれわれに与えてくださることをわれわれは信じておけばいいことであります。
 
われわれの信仰がただ御利益信仰にとどまっている限りは、あの東北で起きた災害、大きな津波が起きて、自分の愛する者が根こそぎ奪い取られたときに、われわれはそれでも神を信じ、神に信頼しくことはできないと思うのです。
 御利益信仰では、われわれは救われないのです。

 われわれの信仰は、確かに御利益信仰から始まるのです。そういう期待から始まるのです。死ぬまで、その信仰であるかもしれません。しかし、われわれは神を信じていくときに、われわれの信仰はいつのまにか、その期待から始まる信仰が神に信頼する信仰、つまり、自分中心の期待から始まる信仰から、神を中心とする神に信頼する信仰に変えられていくのであります。

わたしの尊敬する竹森満佐一という牧師がおりますが、この大洲教会にも一度きていただいたことがありますが、その先生の「ダビデ」という小さな説教集のなかで、こういう一節があります。
 そこはダビデが自分の犯した罪のために自分の子供が病気になり、死んでしまったというところなのですが、ダビデは子供の病気を治してくださいと必死に、断食してまで神様に祈ったのです。しかし、その祈りにもかかわらず子供は死んでしまった。ダビデは子供が死ぬと、家来たちに食事の用意をさせた。家来達は不思議に思った、いや不快に思って、王様に文句をいった。するとダビデは、こう答えた。「子供の生きている間にわたしが断食したのは、神はこの子を生かしてくださるかも知れないと思ったからだ。しかし今はもう死んでしまった。わたしはどうして断食しなくてはならないのか。わたしは再び彼を帰らせることができるか」と答えたというところなのですが、そこで竹森満佐一はこういう説教をしているのです。
 このダビデの答えは明快だ、しかしこの答えははどうしても納得できないと思う人が多いだろう。しかしここにはひとつだけ絶対に確かな答えがある。それはダビデが求めていたのは、子供の病がいやされることだったでしょうが、彼が本当に求めたのは、神を信じぬくことだった。神に信頼すること、神を信用することだった。そしてこういうのです。「神に祈りながら、神を信用しないとしたら、これくらい妙な話はない。自分の気に入る結果が出た時だけは、神を信用し、思うようにならなければ、恨み言をいうのでは、神を信じている、信用している、信頼しているとは絶対に言えない」といっているのであります。
 そしてこういうのです、「ここには子を失ったという悲しみはある。しかし不平はない。悔いもない。神のなさることに、すべてを任せるだけだった」。 

われわれの信仰は御利益的信仰なのです。死ぬまでそうだと思います。しかしそれでもわれわれは神に祈っていくうちに、いつのまにかその期待から始まる御利益信仰が、神を信じ切るという信頼に変えられていくのであります。

 なぜそういう信仰に変えられていくのか。それはわれわれの信じている神は、アブラハムにわが子イサクを殺しして、わたしに献げよと命じられことと同じことを、神自らご自分のひとり子イエスを十字架で殺した神だからであります。われわれを救うために、そうしてくださったのであります。

 神はアブラハムに対して、「その子に手をくだすな、イサクを殺すな」といわれたときに、ただ「もうイサクを殺さなくていいよ」といわれたのではなく、イサクの代わりにほふるぺき雄羊を用意してくださったのであります。

そしてその雄羊こそ、神の独り子イエス・キリストだったことをわれわれに示してくださったのであります。

 神は、われわれを救うために、ご自身のひとり子イエスを十字架で殺して、われわれにその愛を示してくださったのであります。
 「神はその独り子をお与えたになったほどに、われわれを愛された」のであります。だからわれわれはこの神様を信じていこう、信頼していこうとするのであります。

 神はわれわれに「主の山に備えあり」という信仰を与えてくれました。つまり、神様を信じていれば、最後には神はわれわれに最善の道を備えてくださるのだと信じなさいというのです。しかし、「主の山に備えあり」という信仰は、われわれが持っている信仰、われわれが期待している信仰、われわれが信じている、御利益的な「主の山に備えあり」という信仰を一度徹底的に打ち砕いた上で、もっと深い信仰、もっと深く豊に「主の山に備えあり」という信仰を示してくださったのであります。

 われわれの救いの背後には、われわれが幸福になる背後には、神の独り子イエス・キリストの贖いの犠牲があったということなのであります。われわれの御利益を求める自分だけが幸せになればいいという自己中心性、それが罪ということなのですが、その罪を贖うために、他者が犠牲になってくださっている、イエス・キリストが犠牲になってくださった、その事実を示した上で、「主の山に備えあり」という信仰をわれわれにあたえてくださったのであります。

 われわれが救われる背後には、誰かが犠牲になってくれているということであります。それは具体的には、親であるかも知れない、妻や夫であるかもしれない、友人であり、隣近所の人であるかもしれない、われわれはそういう具体的に自分のために犠牲になり、奉仕をしてくれる人があって始めてわれわれは「主の山に備えあり」という事実を知らされるということなのであります。その根源にイエス・キリストの十字架の贖いの犠牲があったということなのであります。

 それを知るときに、われわれは今度はわれわれの方でも、誰かかがこまっていたら、みずからその人のために犠牲になって奉仕することができるようになるということであります。

 ある人が、交通事故にあった。わたしにこういう手紙をくださいました。
「二ヶ月ほどは不安な精神状態が続き、祈ることもできなかった。ただ泣きながら娘にしがみつくだけだった。そのときに、自分に信仰のひとかけらもないことを思い知った」というのです。「病室で食事の前に黙祷しているのを見て、周りの人から『教会のかたですか』と声をかけられ、はじめてまともな祈りすらできなくなっていることに愕然とした」というのです。「しかし時間の経過とともに、娘の厳しい励ましもあって自分をとりもどすことができた。そして、その間に多くの人が励まし、支えをいただいていることを知って、背後この弱い信仰の自分を見捨てずに支えてくださった神様に感謝できるようになった」と書いてきたのであります。

 われわれのもっている御利益的信仰は、一度徹底的に壊されなくてはならないのです。自分がもっていると思った信仰は、一度徹底的に壊される必要はあるのです。神はそのわれわれのもっていると思っている信仰を一度徹底的に壊して、もっと深い、もっと豊かな「主の山に備えあり」という信仰を与えてくださるのであります。