七十七倍の復讐」    創世記四章一七ー二六節

 一七節から始まる箇所は、それまでのカインとアベルの話とまるで関係のない文書のようであります。ここではいきなり、「カインはその妻を知った。彼女はみごもってエノクを産んだ。カインは町を建て」と続きます。カインが妻をめとる経過は何ひとつ記されていないし、カインが弟アベルを殺したために、地上の放浪者にならなければならないと神から罰を受けたのに、「ここでは町を建てた」、とありますので、まるでその事を知らない伝承がここに置かれているのであります。創世記を読む時に、そうしたことはこれからもたびたび起こってくるかと思いますが、これはひとりの作家が書いたものではなく、何年にも渡って人々の間に口伝えに伝承されていった話をあまり修正しないで、つなぎ合わせて編集されて、今日の創世記になっているので、あまり前後のつながりとか論理的な矛盾にこだわらないで、読んでいかなくてはならないと思います。しかしこれらの伝承と伝承とのつながりは、前後の文章に全く関係なく、置かれているのではなく、やはり一つの思想的なつながりがあって、置かれているわけで、それを見落とさないで読んで行かなくてはならないところであり ます。
 
二○節からは、いろいろな職業が別れていって、文化というものが生まれたと語ります。ある者は家畜を飼う者、ある者は琴や笛を演奏する者、ある者は青銅や鉄の刃物を造る鍛冶の仕事をする者と別れていった。いわばただ食べるための生活だけでなく、生活を楽しむための音楽を職業とする者も生まれて町が形成されていったいうのであります。これはある人の説明では、アベルを殺したカインの子孫から生まれたもので、そうした人間の文化というのは、人を妬んだりするという人間の邪悪な欲望を背景にして生まれて来たのだとこの箇所は語ろうとしているのだと言っていますが、それは少しこじつけのような気がします。

 ここでの重要な箇所は、二三節から始まる、いわゆる「レメクの歌」といわれている、復讐を謳歌する歌であります。

 二三節からこう語られるます。レメクはその妻たちに言ったというのです。「アダとチラよ。わたしの声を聞け、レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしは受ける傷のために、人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍」と、歌ったというのです。
 
復讐というものが、どんなにエスカレートしていくか、ということであります。この伝承の箇所はヤハウェストと言われる資料で、あのアダムとエバが罪を犯したことを記す資料の続きであります。神から禁じられて善悪を知る木の実を食べて、神のようになろうとして人間は、エデンの園から追放された。エデンの園を追放されたものはやがて神の供え物をめぐって自分の弟を殺すようになり、そして自分の受けた打ち傷のために七十七倍の復讐をするという罪、そのように罪は更にエスカレートしていくのだと語るのであります。人間の罪は妬みということから人を殺すようになり、そして今度は人間は自分のプライドのために、自分の名誉が傷つけられたというプライドのために、人は七十七倍の復讐をするようになるというのです。人は妬みから罪を犯し、さらに自分の誇り、自分のプライドから罪を更に犯すようになるということであります。

レメクは「カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍」というのです。ここでわれわれがうっかりするのは、アベルのための復讐ということが言われているのではないということなのです。「カインのための復讐が七倍ならば」と言われているのです。「カインのための復讐が七倍」というのは、アベルを殺したカインが神の罰を受けて地上の放浪者にならなければならなくなった時に、カインが弱音を吐いて、自分はとても不安で生きていけません、自分はアベルを殺した、そのために自分を見つける者は自分を殺すでしょうと、神に訴えるのです。それに対して神がカインを殺させないために、つまり復讐ということを阻止させるために、カインを殺す者を神が七倍にして復讐すると言われたのです。それはアベルを殺したカインを、今度はほかの人が殺すという復讐という連鎖を断ち切るために、神が介入なさるという宣言であります。神が復讐という人間の罪をどんなに恐れているか、なんとかしてそれを断ち切ろうとしているか、ということの宣言なのです。カインを殺す者を神は七倍にして復讐するという言葉だけをみれば、何か神は復讐ということをみずから容認している ようにみられますが、これがアベルのための復讐ではなく、「カインのための復讐」ということを考えて見れば、アベルのための復讐を止めさせるための神の復讐であることが分かるのであります。

それをレメクは逆手にとって、カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍だと、自分の妻達に誇らしげに歌い出しているということであります。この何でもない短い歌の中に人間の罪がどんなに深まっていくかを語ろうとしているのであります。これはただ数字的に、七倍が七十七倍に増加したというだけではないのです。カインのための復讐は神ご自身が七倍にして行う、神が行うというのです。ところがここでは、復讐は神なんかに任せておけるものか、自分自ら行う、しかも七十七倍にして、というのです。繰り返すようですが、カインのための七倍の復讐は、もともと復讐を阻止させるための復讐であります。しかしそれをレメクは逆手にとってしまった。人間に復讐という罪を止めさせるために神がとった「カインのための復讐」という復讐という手段、それはいわば神様の失敗だったようであります。なぜなら復讐を阻止するための復讐は、結局は復讐を容認し、復讐の連鎖を断ち切ることはできなかったからであります。

つい先日もアメリカはアメリカ大使館をテロで攻撃したと思われる人々が集まっていると思われる箇所を、その報復として空爆しました。それが本当にテロをやめさせる有効な手段になるかということであります。アイルランドにおけるカトリックとプロテスタントのすさましい紛争、テロに対するテロは、復讐という連鎖を復讐によってはどうしても断ち切れないということを示しているのであります。

 イスラエルでは、復讐は七倍が当たり前になっていったのであります。それを断ち切るために、「目には目を、歯には歯を」ということが神の律法として命ぜられたのであります。出エジプト記の二一章二二節からのところにあります。これだけを切り離して聞けば、なにか復讐を容認している言葉に聞こえるかもしれませんが、その前の一八節からのところ、「人が互いに争い、そのひとりが石または、こぶしで相手を撃った時、これが死なないで床につき、再び起きあがって、つえにすがり、外に歩くようになるならば、これを撃った者は赦されるであろう。」とあって、ここには犯された罪をできるだけ赦そうという精神から言われている神の命令であることがわかります。これはもともとは七倍の復讐を、その復讐の連鎖を断ち切るための一倍の復讐にとどめよ、という神の命令なのであります。片目をつぶされた者は相手の片目だけをつぶせ、決して両目をつぶしてはならないという命令であります。

 しかしこれがひとたびこのように文書化されてしまいますと、今度は七倍の復讐を縮小し、抑制するための一倍の復讐なのに、これが神が復讐を容認しているようにとらえてしまって、いつのまにか、復讐を奨励しているように受け止められてしまっていくのであります。申命記一九章二一節以下をみてください。「あわれんではならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足をもって償わせなければならない」と言われているのであります。もともとは、「あわれんであげなさい。目には目だけを、歯には歯だけを」と言われているところを、ここではもう「あわれんではならない。目には目を、歯には歯を」と復讐することを奨励している命令となってしまっているのであります。 イエスはそれをとらえて、「目には目を、歯には歯を」ということで神が本当に求めたことは、復讐をしてもいいということではなく、復讐はやめなさいということなのだと、この命令の神の真意をとらえ、それをもっと積極的にとらえて、「『目には目を、歯には歯を』と言われていることは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれ かがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬を向けてやりなさい」という言葉に深めたのであります。

 あの七倍の復讐から七十七倍の復讐までエスカレートしていく人間の罪、その復讐という罪を止めさせる「目には目を、歯には歯を」という言葉は、それがひとたび文章化されますと、われわれ人間はそれを逆手にとって、罪を犯した人間を憐れんではならないという言葉として受け止めてしまう、われわれ人間がどんなに復讐したがる人間かということであります。ですから、今日「目には目を、歯には歯を」という言葉を、復讐をやめされる、少なくも復讐を縮小し抑制させるための言葉として読む人はいないのであります。復讐を奨励している言葉としてしか読もうとしないのであります。復讐をやめるということ、復讐をやめて罪を赦してあげなさいということは、罪を犯された人から言えば、自分が罪を犯されて、よし復讐してやろうと燃えているただ一つの残された権利を放棄するようなものだと、ある人が説明しているのであります。

神は復讐を止めさせるために、カインを殺す者を神ご自身が七倍にして復讐するといわれたのです。しかしそれは失敗に終わりました。それでイエスは、七倍の復讐を一倍の復讐に縮小させるためだけでは、われわれ人間に燃えるようにくすぶっている復讐という炎を断ち切ることはできない、その炎を断ち切るためには、ただ人の罪を赦すということだけでもだめなので、みずからその罪を受けた者がその罪を背負い、そのようにして罪を償ってあげる、そこまで徹底しないと復讐の連鎖を断ち切ることはできないと言われたのであります。それが「右の頬を撃たれたら、ほかの頬をむけてやりなさい」という言葉であります。それは罪を犯した人間の罪を背負って、十字架で死んでいくことによって、われわれ人間の罪を償うということで示されたイエスの生き方、死にかたなのであります。それは復讐の論理から、赦しの倫理へ、更にそれを飛び越えて、償いの倫理へと深めたという事であります。

イエスがある時、ペテロから「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるされねばなりませんか。七たびまでですか」と尋ねられたことがあります。その時、イエスは、「わたしは七たびまでとはいわない。七たびを七十倍するまでにしなさい」と、言われたのであります。自分が受けた打ち傷のために、自分は七十七倍の復讐をすると言ったレメク、それに対して、七たびを七十倍してまで赦しなさいとイエスは言われたのであります。その後、イエスはたとえ話をして、一万タラントの借金を赦された者が、自分が貸したたった百デナリを赦すことができなかった男の話を致します。われわれが七たびを七十倍にしてまで赦さなくてならないのは、われわれ自身が神からそのように罪を赦され者だからだと言われるのであります。

しかし現実のわれわれの生活においては、自分の受けた打ち傷のために七十七倍の復讐をどうしてもしないとおさまらないわれわれであります。また「右の頬を撃たれたら、ほかの頬をさしだしたならば」、ますます罪は増していくにきまっているわれわれの社会であります。そのために、われわれの社会では、現実的な対応として、裁判制度というものが造られていったのであります。せめて、私的制裁、私的復讐を止めさせ、つまりあの七十七倍の復讐をやめさせて、一倍の復讐に止めさせるために、公的な復讐する機関としての裁判制度が造られていったのであります。それはイスラエルの社会でも同じであります。キリスト教会もまたその裁判制度を認めるのであります。

 しかし公的な裁判制度がいつも公平であるとは限らないことはわれわれも知っております。公正な裁判が行われるわけではないことは知っております。イエス・キリストはまさにイスラエルの公的な裁判、祭司長、長老たちからなる裁判によって、神を汚す者、自ら王を名のる者という罪を着せられて十字架で殺されたのであります。しかしイエスはその裁判をテロと言う手段で壊そうとはしませんでした。その誤った裁判制度に自ら服して、どうしてわたしに罪があるのかと抗議はしましたが、最後にはその誤った裁判のもとで、それを受けて自ら死んでいったのであります。それによって人間の裁判制度そのものの限界を示すと共に、だからといって、それを力で打ち壊してしまったら、神の正義は打ち立てられないことを知っていて、自分が死ぬことによって、自分がみずから、その罪を担い、その償いを果たすことによって、よりよい裁判が行われる道をお示しになったのであります。

 裁判制度というのは、確かに教育的懲罰という意味もありますが、しかし根本は私的制裁という復讐、リンチに代わる公的な復讐という精神があるのだと思います。しかしこの公的な裁判制度だけで人間の罪が解決されないことはわれわれはよく知っておかなくてはならないと思います。キリストによる罪の償いを知っている者として、われわれはこの公的な裁判制度だけでは、われわれ人間の罪を克服できないことはよく知っておかなくてはならないと思います。自分自身が一万タラントの罪を神に赦された者として、ということは、自分自身が決して清廉潔白な人間ではなくて、罪を犯し、罪を犯す者として、しかもその罪がキリストの十字架で赦された者として、人の罪を赦そうという思いを、この公的な裁判制度を越えて、なんらかのかたちであらわしていかなくてはならないと思います。