「選び取る」 創世記十三章一ー一八節

 主イエス・キリストの言葉に、「狭い門からはいれ、滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そしてそこから入って行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」という言葉があります。

 この言葉から取ったのだと思いますが、アンドレ・ジイドの小説に「狭き門」という小説があって、もう昔読んだ本なので詳しいことは忘れてしまいましたが、生涯を神に仕える道を選ぶために、修道院に入ることを決意して、恋人と別れるという小説だったのではないかと思います。そして天国に行く道の門は大変狭いので、恋人とふたりで手を組んで入るわけにはいかないということだったのではないかと思います。その小説のテーマがなんであったかは忘れましたが、その「狭い門」という言葉が若いわたしにとっては大変印象深く、キリスト教の道を求めるためには、この世的な欲望、楽しみをいっさい捨てて、それこそ修道院にでも入るようにして

 狭い門から入り、細い道を歩いていかなくてはならないのではないかと思って、何か身がひきしまるような思いがしたのであります。そしてそれがまたわたしにとっては、キリスト教に対する考えを誤らせた、キリスト教というものを非常に禁欲主義的、道徳主義的、また律法主義的なものに誤解させたのであります。

 確かに「滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そこからはいって行く者が多い」ということはその通りだと思いますが、しかしこのイエスの「狭い門から入れ」という勧めの言葉はそのように禁欲主義的な意味に、つまりこの世的な楽しみをいっさい捨てて、まるで修道院にでも入るようにキリスト教を求道しなくてはならないのだという意味にとっていいのかどうかであります。イエスはしばしば「幼子のようにならなくては天国にはいけない」と言われているのです。それならばこの「狭い門から入れ」という言葉はそのような厳しい修業の道を歩めというような勧告の言葉ではないだろうと思います。ただ事実として、やはり本当の救いを得るためには、自分をなんらかの意味で捨てなくてはならないわけですから、自分を捨てて、キリストに従う、自分を捨てて、自分の十字架を負うてキリストに従いなさいというのですから、それは狭い門から入り、細い道を歩まなくてはならないことは確かではあると思います。しかしそれがただちに修道院に入るような意味での禁欲主義的なことではないと思います。
 
 われわれは自分の目の前に、狭い門と広い門があった時に、もっとわかりやすく言えば、楽な道と苦しい道が自分の目の前にあって、どちらを選べと言われた時に、われわれわざわざ「狭い門」苦しい道を選べるだろうか。当然楽しそうな門から入り、楽な道を歩もうとすると思います。そしてわざわざ「狭い門」から入り、苦しい道を選んでいくような歩みかたというのは、かえってそこに人間的な自己主張が感じられて、それはあの「幼子のようならなくては天国には入れない」というイエスの言葉とは遠い道を歩むことになるのではないかと思います。
 
   「ロトとの別れ」

 今、アブラハムは「狭い門」から入るか、それとも「広い門」から入るか、その選択を迫られているのであります。それはアブラハムとその甥でありますロトとの間に争いが起こった。二人とも次第に家畜がふえていって、それぞれの家畜に草をたべさせる事、一緒に生活をすることは厳しくなって、アブラハムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間で家畜に食べさす飼料のことで争いが起こり始めたというのです。それでもう共に生活するのをやめて、お互いに別れて生活しようということになったというのであります。
 
アブラハムは甥のロトにこういいます。「わたしたちは身内の者です。わたしとあなたの間にも、わたしの牧者たちとあなたの牧者たちとの間にも争いがないようにしよう。全地はあなたの前にある。わたしと別れてくれ。あなたが左に行けば、わたしは右にゆく。あなたが右に行けば、わたしは左に行く」と提案するのであります。すると甥のロトは目を上げてみると、ヨルダンの低地が見えた。そこはエジプトの地のようによく潤っていた。肥沃な土地に見えたのであります。そこでロトはそこを選びとってそこに住み着いたというのであります。そのためにアブラハムはその土地に比べたら、より厳しい土地であったかも知れないカナンの地に住むようになったというのであります。ところがロトの選んだ土地は肥沃であったが故に、そこでの生活は豊かになり、そのために人々は歓楽にふけ、後にソドムトゴモラのの町として堕落の町の代名詞になるくらいに罪に満ちた都市になり、やがて神の裁きを受けて滅びることになっていったというのであります。まさにロトは滅びに至る大きな門から入ったために、ついに滅んでしまったというのであります。
 カナンの地を選ぶということが、「狭い門から入り、細い道を歩む」ことになるのかどうかはわかりませんが、カナンの地は後にイスラエルの民にとっては、「乳と蜜の流れる土地」と言われているくらいですから、それほど厳しい土地であったわけではなかったとは思いますが、しかしやはりロトが選んだヨルダンの低地に比べたら、厳しい道をアブラハムは選んだのだとは言えると思います。
ロトは滅びに至る大きな門から入り、みんなが行く広い道を歩んだ、そのために歓楽にうつつをぬかすような道を歩み始め、罪に満ちた生活を送り、その最後には滅びの道を歩むことになった。

 それに対して、アブラハムは狭い門から入り、細い道を歩み、命に至る道を歩んで、命を得たのであります。ただここで考えておきたいことは、アブラハムはわざわざ狭い門から入ることを選び、細い道を肩をいからせて歩んだわけではなく、まず甥のロトにどちらを選ぶかの優先権を与えて、結果的により厳しい道を選んだのだということであります。もしここにロトがいなかったならば、彼も肥沃なヨルダンの低地を選んだに違いないと思います。自分の目の前に肥沃な土地とそうでない土地があって、どちらを選んでもいいと言うときに、われわれはわざわざ厳しい土地を選べるだろうか、選ばなくてはならないのだろうか、またもしわざわざ自分から厳しい道を選んでその道を肩を怒らせて歩んで、それで本当に神が与えてくださる命の道にたどりつけるだろうか。それで、さきほども言いましたように、「幼子のようにならなければ天国には入れない」といわれるそのような天国にいけることになるのだろうかということなのであります。

 アブラハムがカナンの土地を選んだのは、ここではある意味ではロトに優先権を与えた結果、ある意味ではやむを得ず、その土地を選んだということなのではないか。もしアブラハムが狭い門から入ることを選んだのだということで言えば、それは自分が年長者でありながら、甥のロトに土地を選ぶ優先権を与えたこと、そしてその結果自分が選ばされた道を文句も言わずに黙々とその道を受け止め、その細い道を歩み続けたということなのではないか。

目の前に楽な道と苦しく厳しく見える道があって、どちらも自由に選べるとした時に、われわれはわざわざ苦しい厳しい道を選ぶことはできないだろうと思います。楽な道を選ぶだろうと思います。ただ問題はその楽な道を選ぶ選び方というのが問題なのではないか。ロトはアブラハムからどちらを選ぶかという優先権を与えられて、無造作になんの躊躇もなく、楽そうな肥沃な土地、ヨルダンの低地を選んだ。このことについて彼はアブラハムに対する感謝の念とか、すまなさとか一度も感じたことはなかったのではないか。ただ自分の欲望のままに、安易にこの楽そうに見える土地を選んだのではないか。ロトという人間がいかに安易な人間かということは、後に学ぶことになりますが、ロトの住んでいるソドムとゴモラの町がその繁栄のために罪が満ち、ついに神によって滅ぼされることになった時に、神はロトの家族だけは、アブラハムの甥だということで、逃れさせるのであります。山に逃げなさい、と神はロトに言われる。ロトは逃げますが、しかしその途中で、神に向かって、あの山まではとても逃げていけないから、その手前の小さな町までにしてくださいと、お願いする始末なのであります。 ロトという人間がいかに安易ないつもいつも楽な道、楽な道ばかりを歩もうとする人間であるかということがわかるのであります。

 われわれはことらさ苦しい道、厳しい道を選ばなくてはならないということではないだろうと思います。われわれはできることなら楽をしたいのであります。楽な道を選びたいのです。しかしその楽な道を選ぶとしても、その楽な道を厳しい思いで、身をひきしめて歩むことだって出来るはずであります。身をひきしめてというのは、ロトの場合だったならば、自分に優先権を与えてくれたアブラハムに感謝の思いをもつこと、すまない、ありがたいと思いながらその道を歩むことであります。

   「狭い門、自分ひとりが歩まなくてはならない道」 
 
 狭い門から入るということはどういうことか。主イエスはここでは、考えて見れば、その狭い門、そしてそこから始まる細い道が苦しい道だとは一言も述べていないのであります。われわれはすぐそれは苦しい道だろうと思ってしまいますが、ここではイエスはそんなことは一言も述べていないのです。それに対して大きい門、広い道、というのはただ楽な道というのではなく、みんながいく道だと言っているだけであります。「そこから入っていく者が多い」と言われているのだけであります。赤信号みんなでわたればこわくない、ということであります。みんながいく、だから自分もいく、それが大きな門から入り、広い道を歩むということなのであります。みんなが行くから自分も行く、それならば、これはひとつも「選んだ」ということにはならないのであります。みんながその門を入り、その道を歩んでいるのだから、自分もその道を歩もうとするだけで、実はひとつも選んではいないのであります。

 それに対して「狭い門から入る」ということは、みんなが歩む道ではなく、自分ひとりだけが入る門、だから狭いのであります。自分だけしか歩むことができない道、だから細いのであります。そしてそれはただ自分の考えだけでその門を選び、その道を選んだのではなく、むしろ選ばされてしまうということなのではないかと思うのです。アブラハムはロトがあの肥沃な低地を選んだので、ある意味では仕方なく、追い込まれるようにして、カナンの地を選ばされているのであります。ですから、それは選んだというよりは、選ばされてしまった道を、改めてよしこの道を歩もうと、みずから選ぶということではないかと思います。

 われわれが選ぶということはそういうことではないか。最初は多くの可能性の中から一つを選ぶということかもしれない。しかしその自分が選んだ道を本当にこの道が自分にとってふさわしい道なのかどうかを考え続けていくうちに、この道しかないのだという思いになる、その時に本当に選ぶということが起こるのではないか。自分が歩む道はこの道しかない、そういう思いにならないと本当の選びにはならないのではないか。われわれが人生の節目で節目で、なにかを選ばなくてはならない時というのは、われわれはロトのように安易にただ楽な道、楽な道を選ぶのではなく、時間をかけて熟慮するだろうと思います。そうしてこの道しかないと決断してその道を選ぶのではないか。そのときには、何か自分が選んだというよりは、選ばされてしまったという思いになるのではないか。自分が歩む道はこの道しかない、だからわれわれはその道がどんなに苦しくても厳しくても、その道を歩もうとするのではいなか。この道は自分が歩む道、自分しか歩めない道と言う意味で、それは狭い門なのであり、細い道なのではないか。

     「捨てさせられる」
 
 アブラハムは甥ロトと別れた。その時に主なる神はアブラハムを再び祝福するのであります。「目をあげてお前のいるところから北、南、東、西を見渡しなさい。すべてお前が見渡す地は、永久にお前とお前の子孫に与える。」と祝福を受けるのであります。アブラハムは神から召された時に「お前は国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」と言われているのであります。「親族に別れ」というのですから、本当はこの時当然甥であるロトとも別れなくてはならなかった筈であります。しかし彼はロトが好きだったから別れなかった、別れられなかったのであります。捨てられなかったのであります。しかしここに来て結局はロトと別れさせられ、捨てさせられのであります。 

 われわれはなかなか自分から捨てるということはできないものであります。しかしやがて本当に捨てなくてはならないものはやはり捨てさせられる時がくるのであります。そしてその時に本当に捨てるということができるのであります。自分から捨てる時はいつも不徹底なのではないか。

 自分から狭い門から入り、自分から細い道を選ぶということはなかなかできないものであります。しかしそれでもわれわれは狭い門から入り、自分しから歩めない、そして自分が歩まなくてはならない細い道を歩ませられる時がくる、自分が負わなくてはならない重荷をおわされる時がくるのではないか。それを聖書は神がそのようになさるというのであります。

われわれの背後にはそのようにしてわれわれを導いてくださる神がおられることをわれわれは知っておかなてはならないと思うのであります。