「わたしを富ませるもの」  創世記一四章一三ー二四節

 創世記の十四章の記事は、創世記の中でも理解するのにもっとも困難な箇所であると言われております。それはここに登場するアブラハムは今まで書かれているアブラハム、そしてこれから書かれるアブラハムとは全くの異質のアブラハムだからであります。そして前後の記事と全く関係のない記事だからであります。ここにはアブラハムが訓練した家の子の三百十八人を連れて、甥のロトを取り返すために、戦いに出ていって、その戦争に勝ち、ロトとその財産をとりもどしたという話なのです。

 一節から一二節までは、四人の王と五人の王が戦ったという話であります。そしてその五人の王の中にロトが住んでいたソドムの王がいて、そのソドムの王が連盟を組んでいた五人の王たちが四人の王の組んでいた連盟軍に負けて、ロトもその財産も奪われてしまったという話であります。
 そのことをアブラハムに知らせる者があって、これを聞くとアブラハムは自分の身内のロトが奪われたことを聞いて、先にもいいましたように三百十八人の者を連れて戦いに出て、取り戻して来たというのであります。

「古代の文書の性格」
 
 この記事がなぜここにあるのかはわかりません。この創世記はひとりの作者によって書かれた書物ではなく、いくつかの資料が編纂されて出来ているのだということは今までにもお話してきましたが、ここもその一つの資料があって、たまたまここにアブラハムとロトの名前のつく資料があったためにここに入れられたのかも知れません。あまり前後の記事と脈略がなくてもアブラハムの名前があるというだけで、その資料は捨てられないで、保存されていったわけです。つまり古代の文書というのは、そういう意味では作者の意識的意図的な意志というものを重んじるというよりは、偶然そこに置かれたということを大事にしてきている、そしてそれが結果的には文書そのものを豊かにしているということになったのではないかと思います。現代でしたから、必ず作者がいて、それが一人の作者であり、複数の作者であれ、ともかく作者の意志というもので統一されていくわけですが、古代の文書とかあるいは神話というのは、作者の意志なんか問題ではなく、そこに長い間にわたって口写しに伝えられていったということを重んじられのです。作者の意志とか意図よりは、そうした人間の計らいを越えて、 偶然という要素も加えて、そこに保存されてきたことを大事にされてきたのではないかと思います。そこが古代の文書のおもしろさであり、また豊かさであり、深さにもなっているのではないかと思います。
 
 「戦争によって富んだのではない」

 今日この記事からわれわれが学びたいことは、二二節にあるアブラハムの言葉であります。「天地の主なるいと高き神、主に手をあげて、わたしは誓います。わたしは糸一本でも、くつひも一本でも、あなたのものは何も受けません。アブラムを富ませたのはわたしだと、あなたが言わないように。」という言葉であります。ここは新共同訳聖書では、「『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません。わたしは何も要りません。」となっております。

 ロトの属していたソドムの王がアブラハムによって囚われの身から解放されましたので、戦いが終わったあと、アブラハムのところにお礼に来て、「わたしには人をください」つまり王の家来とか軍隊は返してください、しかしあなたが奪い返した財産はすべてお取りください、と申し出ているところであります。それに対してアブラハムが言った言葉が「わたしはあなたのものは何も受けない、たとえ糸一本、くつひも一本もいらない」という言葉であります。まことに格好がいいというか、いさぎよいアブラハムの姿であります。まるで日本の侍のような誇り高い姿であります。

 しかしアブラハムは日本の侍とは違ってその理由としてこう付け加えたというのです。「アブラムを富ませたのはわたしだとあなたに言われたくないために」というのです。
ソドムの王の申し出は本当は図々しい申し出なのです。本来ならソドムの王は財産どころか人的財産もすべてアブラハムのもので今さらこんなことをいう筋合いはないのです。それでもアブラハムは人的財産だけでなく、糸一本、くつひも一本も欲しくないというのです。戦争の論理から言えばすべてがアブラハムのものなのですが、それはすべて返す、いらないというのです。それは戦争によってアブラハムは富んだのだとか、人のものを奪ってアブラハムは富んだのだとか、言われたくないからだというのです。しかし大事なことは、この言葉の背後にあるアブラハムの思いであります。それは自分を富ませているのは、そしてこれからも自分を富ませてくれるのは、いと高き主なる神なのだといいたいのであります。それは戦争のお陰でもないし、ましてソドムの王の好意によるものでもない、そしてそれは自分の力でもない、ただ天地の主なるいと高き神がわたしを富ませてくださるのだということであります。

「わたしを富ませるのは神ーメルキゼデクの祝福」

 事実としては、アブラハムが戦争に勝ったために富が増えるわけです。それは自分の力で勝ち取ったものです。つまり自分の力で自分が富んだ筈なのです。ですから、ここでアブラハムが「アブラハムを富ませたのは、あなただと言われたくない」というのは、自分で自分の富を勝ち取ったのだといいたいのだと思われるかも知れませんが、そうではないのです。それはその前の記事に、メルキゼデクの祝福の記事が置かれているからであります。

 このメルキゼデクの記事も実に唐突な登場で、不思議な記事なのです。戦争で勝利を収めて帰ってきたアブラハムをサレムの王メルキゼデクがパンとぶどう酒をもって彼を祝福したというのです。いきなりここにメルキゼデクがでてくるのです。サレムの王となっておりますが、そのサレムとは後のエルサレムのことではないかとも言われておりますが、それはわかりません、それよりは、そのサレムの王がいきなり「彼はいと高き神の祭司であり」と説明されているのであります。王でありながら、いと高き祭司だと言われているのです。そしてそのメルキゼデクはイスラエルの父祖であるアブラハムを祝福した。するとアブラハムは、彼に十分の一の捧げものをしたというのです。後にヘブル人の手紙では、イスラエルの父祖であるアブラハムが十分の一を捧げものをした人物だから、さぞかしい偉大な祭司だったのだろうという伝承が生まれたらしくて、このメルキゼデグのことを「彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司なのである」と説明するのてあります。アブラハムがひれ伏した祭司なのであるから、最高の祭司 であり、そしてキリストはこのメルキゼデクに等しい大祭司であると述べるのであります。

 そのメルキゼデクが戦争に勝利して意気揚々として帰ってきたアブラハムをこう言って祝福するのであります。「願わくは天地の主なるいと高き神が、アブラハムを祝福されるように。願わくはあなたの敵をあなたの手に渡されたいと高き神があがめられるように」。

 ここでメルキゼデクは「あなたの敵をあなたの手に渡されたいと高き神」と言って祝福しているのです。これを受けてアブラハムはメルキゼデクの前にひれ伏し、十分の一の捧げものをしたのであります。この祝福を受けて、アブラハムは自分を富ませたのは、ソドムの王の好意ではもちろんないし、また自分が自分の力で戦争に勝利して勝ち取ったものでもない、いと高き神、主なる神が敵を自分の手に渡してくださったのだ、そのようにして、神がわたしを富ませてくださったのだ、神がこれからも富ませてくれるのだという思いを強くしたのであります。

 ですから、「アブラムを富ませたのはわたしだと、あなたが言わないように」というのは、自分を富ませたのは、ソドムの王ではないし、だからと言って自分の力でもない、いと高き神なのだということなのであります。

「すべてのものはもらってもの」
 
 さきほど読みましたパウロの言葉に、「いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか」という言葉があります。

 これはコリント教会のなかで分裂が起こった。その分裂の原因は自分の人間的な誇りから起こったものでした。それは今日の日本の状況でいえば、自分たちはどこの大学を出たとか、だれそれの偉い先生に直接教えを受けたのだということを自慢しあって、教会の中に亀裂が起こったということであります。それに対してパウロが言ったことは、そのように自分のことを誇ってはならないということでした。そして「あなたを偉くしているのは、だれか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているのなら、なぜもらっていないもののように誇るのか」というのです。われわれが今もっているものはすべて他から与えられたものばかりではないかというのです。われわれのもっているものの中には、自分で勝ち取ったものもある筈です。自分が努力して努力して、名門といわれる学校に入った、自分が働いて働いて、稼いで、今ある富を築いたかもしれない、自分の努力で、自分の力で勝ち取ったものもあるはずです。それに対して、パウロは「あなたの持っているものでもらっていないものがあるか」というのです。つまりわれわれが持っているものすべて、その中には自分 が自分の努力で勝ち取ったものも含めて、それはもとをただせばすべて一つ残らず、すべて頂いたもの、もらったものではないかということなのです。

 なるほど、われわれの持っているものの多くのものは親から受け継いだもの、祖先から受け継いだものであるかも知れません。自分の才能とか環境とか、体の体質とか、それは親からもらったものであるかも知れません。われわれの歯の善し悪しなどは、どんなに一生懸命歯を磨いたって、虫歯になるかならないかは、ほとんど親から受け継いだ歯質というものが決定するともいわれております。
 
 「努力で勝ち取ったものも貰ったもの」

 しかしわれわれはわれわれの努力で勝ち取ったものもあるはずであります。ここではしかしそれをも含めて、それはすべてもらったものだ、いただいたものではないかというのです。われわれがそのように努力する力もそれはやはり与えられた賜ではないか、もらったものではないか、というのです。

 アブラハムは戦いに勝って意気揚々として戦勝利品を携えて帰った来たのです。それを迎えたのが不思議な存在のメルキゼデクであります。彼はアブラハムを祝福して、「願わくはあなたの敵をあなたの手に渡されたいと高き神があがめられるように」と祝福した。この祝福を受けてアブラハムはぎゃふんとなったかもしれない。いと高き神の前にひれ伏したのであります。この祝福を受けたために、ソドムの王に対して「わたしを富ませたのあなただと言われたくない」から、「自分は糸一本、くつのひも一本でもあなたのものは何も受けません」と言って、戦争の勝利品をすべて返すことができたのであります。そして「わたしを富ませたのは」いと高き神なのだという信仰に立てたから、また自分を誇る誇りをもまた神に返すことができたのであります。

 もしわれわれが自分の今もっているものがすべてをこのいと高き神から与えられたものだ、と祝福を受けることができたならば、「あなたのもっているものでもらっていないものがあるか」と言われて、本当にそうだと思うことができたならば、われわれはどんなに謙遜になれるかわからないと思います。また謙遜になれるだけでなく、どんなに気楽になれるか、身軽になれるかわからないと思います。自分の持ち物に対する執着心から解放されるからであります。ヨブがいいましたように、「自分は裸で母の胎を出た、また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取り去りたまう。主のみ名はほむべきかな」と、神を賛美できるようになるのであります。

 「信仰、希望、愛、すべてもらったもの」
 
 先週の幼児祝福式でもちょっと述べましたが、われわれは人を愛するという愛、おのずから人を愛するというごく自然に人を愛せるようになる愛というのは、幼い時に親からいっぱい愛されていないと、愛を受けていないと、なかなかそういう自然におのずから出てくる愛というものを自分の中にもてないものであります。だから小さい時不幸な環境に育った人間は一生人を愛せないというのではないのです。自分を犠牲にして人を助けるとか、そういう愛は示せるかも知れません。しかしあのおのずから人を愛せるというごく自然な愛というのはなかなかもてないのではないかと思います。愛というのは、人から愛されて始めて、人を愛せるようになるものであります。自分を犠牲にする愛だって、われわれは誰かの犠牲的な愛を受けて始めてそういう愛を学べるのであります。

 それはもちろん信仰もそうです。神から信仰を与えられなければ、われわれは自分の決断ひとつで神を信じるなんてことはとうていできないのです。そしてまた希望もいうまでもなく、望むかたを示され、そのかたから望む力を与えられなくては、希望することもできないのです。われわれの信仰生活においてもっとも大事な「信仰、希望、愛」、それはみな与えられなければ、自分の身につかないものであります。

 ギデオンという勇士が戦いに臨む時に、神は「お前と共にいる民はあまりにも多い。ゆえにわたしはお前の手にミデアン人を渡さない」というのです。人数を減らせというのです。もしそれで戦争に勝った時に、お前達は自らを誇り「わたしは自分自身の手で自分を救ったのだ」ということになるからだ、と言われたのであります。その背後に神のみ手が働いているのに、自分達の力でこの戦いに勝ったのだと思い込み、自分を誇り出す、そうしたら、敵には勝つことになるかも知れないけれど、自分の中にある敵、自分を誇るという最大の敵には負けてしまうだろうということであります。

 「素朴な信仰」

 箴言の言葉にこういう言葉があります。「わたしは二つのことをあなたに求めます。わたしの死なないうちに、これをかなえてください。うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富もせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。飽き足りて、あなたを知らないといい、『主とはだれか』ということのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです。」

 「死なないうちにこれをかなえてください」というわりには、「貧しくもなく、富もせず、なくてならぬ食物でわたしを養ってください」というのですから、ずいぶん素朴な願いであります。しかしその素朴さの中に、この人の本当にへりくだった信仰を見る思いがして、こういう素朴な信仰をもてたらどんなにいいだろうなと思うのであります。これは貧しくもなく、富もせず、ただ中庸がいいというのではなく、何よりも「主とは誰か」と言わない生活をしたい、わたしを富ませてくださるかたは主なる神であるということを、死ぬまで忘れていたくないという素朴な願いであります。