「信仰によって義とされる」  創世記一五章一ー二○節

 「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」と一五章六節にあります。われわれキリスト者にとって、特に、われわれプロテスタントの信仰にとってこの言葉は旧約聖書の中でももっとも大事な聖書の言葉であります。パウロがわれわれの救いについて述べる時、われわれが救われるのは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって救われるのであると述べる時に、ユダヤ人を説得するために、「なぜなら、聖書にはなんと言っているか」と呼びかけて、旧約聖書のこの箇所を引用してのであります。
 
 一五章の一節からみますと、「これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ」と記されています。「これらの事の後」というのが具体的には何をさしているかはわかりません。主なる神はこうアブラハムに語ったというのです。「アブラムよ、恐れてはならない。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いははなはだ大きい」というのです。それを聞いて、アブラハムはすぐ反論いたします。「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」と言います。「『お前の受ける報いは大きい』とおっしゃるけれど、あなたはわたしに子を与えてくださらないではないか。結局はわたしの奴隷の子エリエゼルを自分たちの跡継ぎとせざるを得ないという状況なのに、どうしてわたしの受ける報いは大きいなどとあなたは言われるのですか」と、神にいうのです。「あなたの言われる『あなたを大いなる国民にする』とか、『わたしはあなたの子孫にこの地を与える』とか言われる約束は結局は空約束ではないですか」と神に反論するのであります。それに対して主なる神は「あなたの身から出る者が 跡継ぎになる」というのであります。つまり、アブラハムとサラとの間に子供が生まれ、その子が跡継ぎとなるというのです。
 

   「星を数えられるか」

 アブラハムは神の約束を信じられなかったのであります。疑っているのであります。
 そのアブラハムに対して主なる神は彼を外に連れ出した。「天を仰いで、星を数えてみよ。星を数えることができるなら、数えて見よ」と言われるのです。おそらく空には満天の星が無数に輝いていたのでしょう。もちろんその数を数えることなどアブラハムには出来ないのです。アブラハムは夜空を見上げていた。そうしましたから、神はアブラハムに「あなたの子孫はあの星の数ほどにもなる」と言われたのであります。アブラハムはその神の言葉を聞いた時に、主を信じたというのです。

 どうしてこの時、アブラハムは主なる神を信じたのでしょうか。信じることが出来たのでしょうか。神はアブラハムに「天を仰いで星の美しさを見よ」と言われたのではないのです。無数に輝いている星の数を数えてみよ、と言われたのです。われわれ日本人だったならば、夜空に輝く星の美しさに感動して、そこに神の存在を感じて、神を信じる気持ちになりそうな気が致します。しかしここではそうではないのです。星の数を数えてみよ、というのであります。それはとうてい数えることなんかできないほどに無数にあったのです。するとすかさず、神は「お前の子孫はその星の数ほどになる」と言われたのです。まだ彼には一人も子供が出来ていないときなのであります。一人の子供さえどうも出来そうもない、与えられていない、その時に神は平気で彼にとてつもないことを約束するのであります。アブラハムはこの神の言葉を聞いて、「主を信じた」というのです。

 普通われわれは人が何かを信じられない時には、信じられることを例にとりあげて、この事なら信じられるだろう、それだからこの事も信じなさいと、われわれを信じることへと導くものではないかと思います。聖書の例で言えば、今日から待降節に入りますが、処女マリアのところに天使が現れて「あなたはみごもって男の子を生む」と告げられた時に、当然マリアはそんなことは信じられない。「どうしてそんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」と言いますと、御使は「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生まれ出る子は聖なるものであり、神の子ととなえられるでしょう」と言った後、「あなたの親族エリサベツも老齢ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六ヶ月になっています。神にはなんでもできないことはありません」というのであります。
 
 信じられないでいるマリアに対して、御使は、不妊の女といわれ、もう老齢のエリサベツに子が与えられるという事実を告げて、マリアを信じることへと導こうとしているのであります。それを受けて、マリアも「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と御使の言葉を信じたのであります。
   
    「あなたは自分の可能性で神様を小さくしていませんか」

 しかしアブラハムに対する主なる神はそういう仕方でアブラハムを信仰に導いたのではなかった。アブラハムが人間の可能性から言ったら、もうこんな年になってから子供が生まれるなんてことは不可能だと思っている時、人間の可能性、自分の可能性をもとにして、神の約束を推し量ろうとして、そんなことはとうてい信じられないと思っている時に、神はそういうアブラハムの思いを粉砕するようにして、夜空を見よ、そして星を数えてみよ、数えることができるか、というのです。数えることなどできないだろう。しかしわたしはお前が数えることができないその星の数ほどにお前にお前の子孫を与えると約束するのです。

 この時、アブラハムは自分の可能性とか人間の可能性という枠の中で自分の人生を小さく小さくしていたのであります。そういう自分の小さな可能性の枠の中に神まで小さく小さくしていたのであります。以前に確か英国の神学者が「あなたは神様を小さくしていませんか」という表題のついた小さい本が出版されましたが、われわれはそのように自分の可能性とか、自分の欲の深さから、そうして自分の願いに対する執着の深さから、神の可能性というものをどんなに狭めているかわからないと思います。 

ある人の言葉に、悩みにある人間というのは、その自分の悩みの解決方法までも自分で用意して神に祈るものだ、この解決の仕方以外の仕方で解決されることは望まないと神に祈っている、というのです。誰かが病気になった時には、その病気がいやされないという解決のされかたをされては困ると強烈に願いながら、われわれは神に祈っているということであります。そうする事によってわれわれは神を自分の可能性、人間の可能性の中に閉じこめてしまって、神を小さく小さくしてしまっていないかということであります。

 そういう中で主なる神はアブラハムを広い広い天に顔を向けさせた。無数に輝く星をお前は数えることができるかと、彼に問いただした。そして畳みかけるようにして、お前の子孫はあの星の数のようになると約束するのであります。その神の大きさの前にアブラハムはひれ伏したのであります。そうして彼は「主を信じた」のであります。

 神がアブラハムに対して、星の美しさを見よ、と言ったのではなく、星の数を数えて見よ、と言われたことが大事であります。ここで神はアブラハムに人間の可能性の小ささをはっきりと示している。人間の限界をはっきりと示しているということであります。確かにわれわれは自然の圧倒的な雄大さとか美しさに接しますと、自分の汚れとか自分の小ささというものに気づいて、神の前にひれ伏すということはあるかも知れません。しかしその場合には、そうした自分の汚れとか小ささは、自然の雄大さとか美しさの中に吸い込まれてしまって、もはや問題にならなくなる、ただいい気持ちだけが残る、すがすがしい気分だけが残るということかも知れないと思います。しかしここでは、神はアブラハムに「星の数を数えて見よ」と言われている。アブラハムをただいい気分にさせるのではなく、人間の限界と小ささをはっきりと自覚させて、そうして神の大きさの前に立たせているのであります。
 
    「神に信頼する」

 アブラハムは「主を信じた」のであります。ここで彼が「主を信じた」ということも大事なことであります。聖書は、アブラハムは自分の身から子供が与えられることを信じたとは記していない。つまりアブラハムは「この神の約束を信じた」という表現はとらないで、「主を信じた」と記してるところも大切ではないかと思います。心に覚えておかなくてはならないところであります。
 われわれにとって大事なことは、神の具体的な約束を信じる、そういうこまごました事柄を信じるということではなく、何よりも主を信じる。主なる神を信じるという信じ方であります。

 ある人が言っておりますが、人を信じるということは、その人なら最低限こういうことはしないと信じることだ、それが人を信じる、人を信頼するということだと言っております。つまり、ひとつひとつのことで自分の思い通りにその人が行動したり発言したりすることを信じるわけではない。ある時には自分とは違った行動なり、発言をするかもしれない。しかし最低限、あの人ならこの事だけはしない、最後のところではあの人は絶対に自分を裏切らない、そのことは信じられる、それが人を信じるということだということであります。

われわれも神を信じるということはそういうことではないかと思います。アブラハムは「主を信じた」のです。もちろんその内容は、神が自分たちに子を与えてくださるという事を信じたということなのでしょうが、そのことを前面には押し出していない、その前に、その土台に、なによりも「主を信じた」ということであります。

パウロもこのアブラハムの信仰をとらえて、「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」と言っております。大事なところですので、ローマ人への手紙四章の一六節から二二節を読みます。「彼はこの神、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じた」。神は死人を生かすのだという事柄、神は無から有を呼び出されるのだ」という事柄を信じたというのではなく、死人を生かし、無から有を呼び出される「神」を信じたというのであります。

われわれも死人のよみがえり、自分が死んでからもよみがえるのだと言う事柄それだけを取り出して、これを信じているかとつきつけられたら、少したじろいでしまうのではないかと思います。しかし具体的にどうなるかはわれわれにはわからないところがある、しかし死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じている、そのような神を信頼している、そう告白することはできるのではないかと思います。そのように神を信じているからわれわれは自分のよみがえりもまた信じて、死を迎えることもできるのではないかと思います。

    「信じ深い者をでなく、不信心な者を義とする神」

 パウロは「すべては信仰による」といいます。律法を守るとか、よい業をする、善行を積むことによって救われるのではない、すべては信仰によるというのです。そしてすぐ、言葉をついで、「それは恵みによる」というのであります。なぜ「すべては信仰による」といった後、間髪を入れずに「それは恵みによる」と言っているか、それは「すべては信仰による」という言葉だけを聞きますと、修道院にでも入って、四六時中神様のことを思い続ける、そういう信仰のことをわれわれは連想するかも知れないからであります。ここでいう信仰とは、われわれの敬虔深い信仰とか、信念とか、そういうわれわれの精神的な修養のことではないのです。ただ神の恵みを信じるという信仰であります。

 一九節をみますと、パウロは「およそ、百歳になって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながら、なお彼の信仰は弱らなかった。彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ」と言っておりますが、この創世記の記事を読んでみれば、アブラハムとサラはまさに神を何度も何度も疑っているのです。神の約束を不信仰の故に疑っているのです。なんでパウロは平気でこんなことが言えるのかと不思議に思えるのです。それは、旧約聖書をわれわれ以上に深く読んでいる筈のパウロが平然とこう言っているというのは、パウロのいう「信仰」理解というものがわれわれの考える信仰理解と違うのだということであります。

 パウロはアブラハムとサラが神の約束を疑ったりすることを不信仰とはみていないのだということです。そんな個々のことにこだわっていないのではないか。最後のところではどうかということを問題にしているのではないか。最後のところで、自分の信仰とか不信仰とか、自分の意識とか自覚とか、そんなことに囚われないで、それをも捨てて、神の恵みを信じ切るかどうかを問題にしているということであります。四章の五節でパウロははっきりとこう言っているからであります。「しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである」と言っているのであります。大事なことは、信心のある者、信心深い者をを義とするかたを信じる人は」と言っているのではないということであります。「不信心な者を義とするかた」とここではっきりとパウロは言っているのであります。われわれは自分の心のなかを覗けば、不信仰しか見えてこないでしょう。その時に、「信じます、不信仰なわたしを助けてください」と、大きな大きな神に目を向けることです。

    「関係概念としての義」「神との関係が正しい」

 アブラハムは「主を信じた」。すると「主はこれを彼の義と認められた」と聖書は記しております。「義と認める」というのは、アブラハムを正しい人間として認めたという意味ではありません。それは「よし」とした、ある人が言っておりますが、「是認した」という意味であります。お前は神との関係において正しい関係に立っているよ、ということであります。それは信仰によってそうなったのだというのです。これは人と人との関係においてもそうだと思います。その人と正しい関係に立てる唯一の道はその人を心から信頼する、それ以外のことではないだろうと思います。なにかその人に贈り物をするとかということではないと思います。

この後、主なる神は「この地をお前に与え、お前に継がせる」と再び約束するのであります。それに対してアブラハムはその保証はなんですか、と問いただします。すると神は三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と家ばとのひなをもってこさせて、鳥は除いて、他の動物を二つに裂いて、互いに向き合わせて並ばせた。これはこの当時の契約の儀式だろうと言われております。このようにしてこの間を通らせて、もしこの契約を破った者はこの動物のように二つに裂かれるぞという儀式だろうと言われております。
 
しかし考えて見れば、この契約は神の側の一方的な契約であります。アブラハムの方にはこの契約に対して何の義務も責任も負わされていないのであります。ただ一つの義務と言えば、この約束を信じなさいということだけであります。一七章にもう一度同じ場面が出て、そこでも契約がなされますが、そこでは、アブラハムに割礼をさせるという契約があって、アブラハムの方にも義務と責任が負わされます。それは祭司資料による記事であります。この十五章の記事では、もう一方的に神の約束だけがあるのです。そうしましたら、この約束を破った時に、二つに裂かれるのは神ご自身であります。アブラハムのほうではないのです。神が二つに裂かれるのです。なかなか神の約束を信じられないアブラハムに対して、神はこうまでして、わたしの約束は確かなのだ、もしわたしが約束を破ったならば、わたしはみずから二つに裂かれてもかまわないとまで、アブラハムにその約束の確かさを示すのであります。
 
アブラハムにできることは、十一節をみますと、「荒い鳥が死体の上に降りるとき、アブラムはこれを追い払った」ということだけだったというのであります。新共同訳聖書では、この「荒い鳥」は「禿鷹」になっておりますが、これはこの神の契約を無にしようとする暗い力がこの世に存在していることを現していて、不吉な不気味な暗い予感をこれからのイスラエルの歴史のなかに感じさせるものだということであります。

アブラハムにできることは、その鳥が降りてきた時に追い払うだけだったというのであります。この禿鷹を撃ち殺したり、なくすことはできなかったのであります。
最後に一二節以下の記事を読んで終わります。一二節に「日の入ること」とありますが、これは前の記事では星が輝いている夜になっていて、時間的に合いませんが、そこはこだわらないで読んでください。ここには、禿鷹の存在に続いて、大きな恐ろしい暗闇とか、暗闇の中を二つに裂かれた動物の間を通り過ぎる煙の立つかまど、炎の出るたいまつ、と闇と光という光景がこれからのイスラエルの歴史、われわれ人類の歴史を暗示するようなものとして描写されているということであります。