「人間の才覚と神の憐れみ」創世記一六章一ー

 創世記の説教で、前に「人間の才覚と神の裁き」という題をつけて説教をしたことがあります。今日の聖書の箇所は、それと少し似ているのであります。それで今日の題は「人間の才覚と神の憐れみ」にしました。アブラハムとサラとの間には、神の約束があったにも拘わらず、子供は一向に与えられないのであります。それでアブラハムは自分のしもべエリエゼルを嫡子にしようとして神に叱られて、神は必ず約束を守ると告げられるのであります。しかしそれでも子は与えられない。そして今度はアブラハムではなく、妻サラのほうがしびれを切らして、彼女のつかえめハガルを通して、嫡子を作ろうと考えたのであります。これは当時としては別に珍しいことではなく、ごく当たり前のことだったようです。

 アブラハムもこの妻サラの申し出を受け入れて、ハガルは妊娠しました。ハガルは妊娠しますと、主人であるサラを見下げるようになったというのであります。それを見てサラは夫アブラハムに訴えた。それでアブラハムは「お前が好きなようにしなさい」といいますと、サラはハガルをいじめ始めた。いかにも現代の話を聞いているようであります。それでハガルはいたたまれなくなってサラから逃げ出してしまった。

 もしここでハガルがいなくなれば、サラの計画した嫡子作戦は挫折してしまう筈であります。自分たちの嫡子を作ろうとしてハガルを夫に差し出したのに、今はそれよりも自分が自分のつかえめから見下げられることのほうが我慢ならなかったというのであります。サラはハガルを夫に差し出して子を作ってもらおうとした時ももちろん喜んでしたわけではなく、自分の気持ちを押さえてしたには違いないと思います。我慢したと思います。しかしいざその事が実行に移さ、ハガルが自分を見下げるようになった時、もう我慢できなくなって、ハガルを追い出しにかかったというのであります。本当なら自分たちの嫡子を作るという大きな目的のためにはハガルから見下げられることくらい我慢しなくてはならないはずであります。しかしそれができなかったのであります。大きな目的のためには小さなことは我慢しなくてはならないことは当然の筈であります。しかし大きな目的といっても、それは所詮自分たちの自己中心的な知恵であり、才覚であります。その大きな目的は自分がつかえめから見下げらされるというごくささいなことでつぶされてしまうのであります。

われわれ人間の才覚による計画、それがどんなに立派そうに見える計画でもやはりどこかにというよりも、その根底にはと言ったほうがいいと思いますが、その根底には、人間のエゴイズム、自己中心的な思いというものが潜んでおりますから、それは目先のことで、ごく小さなことでつぶされてしまう、我慢できなくなってしまうのではないか。たとえば日本の国をよくしようという深遠な目的を掲げて党を旗揚げしても、その目的を達成する前に党の中の仲間争いで派閥闘争が起こり分裂してしまい、日本の国をよくしようなどという大きな目的はもうどうでもよくなってしまうのであります。
 
 サラは自分のつかえめハガルから見下げられるというごく小さなことに我慢ができなくて、せっかく自分たちが計画した嫡子作戦を自ら放棄しようとしたのであります。今「自分が自分のつかえめから見下げられるというごく小さな事」といいまいしたが、しかし考えて見れば、それはわれわれにとっては、「ごく小さな事」ではなく、それこそがわれわれにとっては一番大きなことかもしれないと思います。自分が見下げられるということ、特に自分よりも下と思われ者から見下げられるということくらいわれわれにとって我慢ならないことはないのであって、それをされるくらいなら、ほかのすべてを放棄してもいいくらい、われわれにとってはそれは大きな事であるかもしれないことに気がつくのであります。
 われわれにとっていつも大事なのは、自分のプライドであります。自分の誇りであります。その誇りがなくなってしまうくらいならば、もう自殺も辞さないのであります。

自分が見下げられる、特に自分の下の者から見下げられるということくらいわれわれにとって我慢ならないことはないのであります。それは自分の誇りが傷つけられるからであります。自分の誇り、これはやがてアブラハム、イサク、ヤコブとなって、イスラエル民族が形成されていって、イスラエルの民が自分たちは選ばれた民だという自覚ができた時にいわゆる選民意識となって強力に働き出すのであります。旧約聖書をみますと、イスラエル民族の選民意識というのは、強烈であります。神によって特別に選ばれたために、その意識が起こったのだと考えられますが、しかしそれよりは、われわれ人間の中に自分を誇るという思いが誰にでも根強くある、そのために神に選ばれた時に、その自分を誇ろうとする思いがむくむくと顔を出してきて、神に選ばれたということに触発されて、強烈な選民意識となったのではないかと思います。イスラエルの民だけが選民意識が強烈だというのではなく、その下地はわれわれ誰にでもあるのではないかということであります。われわれクリスチャンにそういう意識はないだろうか。
 
 イスラエル民族の選民意識は強烈であります。しかし旧約聖書を読んでいくときに、その選民意識は神がそうさせたのではないかと思わせられる箇所がいくらでも出てくるのであります。前にもいいましたが、エジプトの王から自分の身を守ろうとして妻を妹として偽って危機を逃れようとした時、神はそのアブラハムを罰しないで、なんの罪もないエジプトの王とその家族に疫病を送って、彼らを救うのであります。

 そして今日の箇所でいえば、サラはいったんは自分のつかえめハガルを夫にさしだしながら、いざハガルが妊娠して、主人であるサラを見下げるようになると、今度はハガルをいじめて追い出しにかかった。実にサラは身勝手なのです。それなのにここでは神はサラに対して何の裁きもなさらないのであります。
旧約聖書を読むときに、われわれがいつも疑問に思うのはなぜイスラエル民族は特別に神に愛されるのか。なぜえこひいきされるのかということであります。しかし愛というのは、いつでもえこひいきの愛として示されるのではないでしょうか。コンピューターの愛ならば、公平に愛するかも知れません。しかし生きた愛というのは、いつでもこの人を愛すると言う愛、この人に集中する愛として、注がれるのではないか。それはもう仕方のないことであります。いわばそのような集中する愛、えこひいきの愛として、しかしすべての人にすべてのひとりひとりに、愛が注がれていくというのが神の愛なのではないか。そしてその時にその愛をうけられなかった人は、自分以外のある人に集中的に注がれる愛を見て、たとえその愛が自分に注がれなくても、ああ愛するということはすばらしいことだと、愛の深さに心うたれなくてはならないのではないか。
 
家族のなかでだれかが病気になったならば、他の子供をうっちゃってでもその病気になった子供に愛が注がれるのではないか。それを他の子供も見ていて親の愛の深さというものを思うものであります。その時には誰も自分が愛されないからといってひねくれることにはならないのではないかと思います。

 イエスもまたそのような愛をイスラエルに注いだのであります。イエスは弟子達を伝道に派遣する時も、まずイスラエルの失われた羊のところに行け、異邦人のところに行くな、と命ぜられたのであります。それはこの時まさにイスラエルの民は神に反逆し、失われた羊の状態であり、まさに病んでいる状態だからであります。ある時イエスのところにカナンの女が来て、自分の娘をいやしてください、と頼みに来た時に、イエスは始め黙っていた。執拗に女がせがむので、「自分はイスラエルの家の失われた羊以外のところに来たのではない」と言って、異邦人の女の願いを退けるのであります。すると女はそれでも執拗に願いますと、「子供たちのパンを取って子犬に上げるわけにはいかない」とイエスはなお拒否します。すると女は「主よ、お言葉どおりです。でも、子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と答えたというのであります。イエスはこの女の言葉に感動して、その女の娘をいやしてあげたというのであります。女はイエスがただイスラエルの民だけを愛するというえこひいきの愛に何の不平も言わない。「主よ、お言葉どおりです」と、そのことを受け入れるのです。そ こにイエスのイスラエル民族に集中する深い愛を見ているのです。そうしてそのおこぼれでもいいから、わたしの娘にもくださいと申し出ているのであります。その姿を見て、イエスは感動するのであります。イエスはまたイスラエル民族の傲慢な姿に比べて、ローマの百卒長の「あなたを自分の屋根の下にお迎えする資格は自分にはない、ただお言葉をください」という言葉を聞いて、この異邦人の謙遜な信仰を見て、「これほどの信仰をイスラエルの中にもみたことはない」といって感心されるのであります。それはつまり、イエスがあの選民イスラエルの民の中にもこの謙遜な信仰をもつことを切実に望んでいたということであります。

 そういう信仰こそ、主なる神はイスラエルの民にももつことを望んでいるのだということは、旧約聖書の中にもはっきりと明言されているのであります。それは申命記の七章のモーセのイスラエルの民に対するいわば遺言の言葉であります。「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなたがたを愛し、あなたがかたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民の中のうち、もっとも数の少ないものであった。ただ主があなたがたを愛し」というのであります。お前達が選ばれたのは、お前達が決して優秀な民族だからではない、むしろお前達は全国の中でもみすぼらしい民だった。それなのにお前達はただ神の愛を受けて選ばれたのだ、そういう自覚をもて、とモーセは選民イスラエルの選民意識のおごり高ぶりを打ち砕き、そのよってたつ根拠を語るのであります。

ハガルはサラの陰険ないじめを受けて、とうとうサラの顔を避けて逃げ出しました。ところがこの時主なる神はそのハガルを見捨てなかったのであります。主の使いは荒野の泉のほとりで待っていた。主の使いは「あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい。わたしは大いにあなたの子孫を増して、数え切れないほどに多くしよう」と神の言葉を告げるのであります。この約束はあのアブラハムに対する約束、星の数ほどにも子孫を与えるという約束と同じであります。そして更に主の使いは「あなたはみごもっている。あなたは男の子を産むでしょう。名をイシマエルと名付けなさい。主があなたの苦しみを聞かれたのです」と、神がこのハガルの苦しみを聞かれたと告げるのであります。それでハガルは自分に語られる主の名を呼んで「あなたはエル・ロイです」と言った。「ここでも、わたしを見ていられかたのうしろを拝めたのか」という意味だというのです。この語源はよくわからないそうです。ともかく、主なる神は自分の苦しみを聞いてくださっており、そうして自分はそのかたの後ろ姿をみることができて、それでも死ななかった、といって喜ぶのであります。当時の人々の信仰 では、神を見た者は死ぬと言われていたからであります。

 神はこのハガルという異邦人を見捨てなかったのであります。その苦しみを聞かれたのであります。もしこのままハガルが荒野で子供を産めば、親子ともども死ぬことは目に見えていたのであります。 

神は異邦人であるハガルその子を見捨てなかった。この事は後にイエスがカナンの女の訴えを最後には聞かれたということにつながることであります。そうして、この事は異邦人のわれわれが福音によって救われるということにもやがてつながる出来事ではないかと思います。あの選民イスラエルがその選民性のおごり高ぶりのゆえにイエスを十字架に追いやり、イエスは殺されてしまう。そのことによってもはやそのイスラエルの選民性が破棄されるのであります。そうして福音はイスラエルの民から異邦人へと拡がり、方向転換になっていくきざしがここにあると言えるのではないかと思います。

 自分はイスラエルの中のイスラエルだと、自分の選民性を誇っていたパウロは、イエス・キリストに救われてから、その選民性の誇りが打ち砕かれて、イエス・キリストの十字架の救いについてこう述べるのであります。「神は知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわと、無きにひとしい者をあえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみ前に誇ることがないためである」というのであります。そうして言葉を続けて、「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神による。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとなられたのである。それは『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである。」というのであります。

誇りというものは本当にやっかいなものであります。誇りは人間をだめにしてしまう、自分を誇るために他の人を見下げ、他の人を徹底的に傷つけてしまうものであります。
 そしてまた、誇りというものはわれわれ人間社会において何かを達成する大きな原動力になっている、エネルギーなっているということもまた事実であります。われわれは少しでも人からほめられたり、おだてられるとなんだって出来てしまうところがあるからであります。そしてそういう自分に対する誇りというものを全く持ってない人というのは、たいていの場合なにか生気が感じられないということがしばしばあるのであります。誇りを失った人間くらい生ける屍のにように感じられる人はいないし、また誇りを失った人間くらい扱いにくい人もいないのであります。

 われわれは誇りを失ったら生きていけないのです。その自分に対する誇りをどのようにして得るかが問題なのであります。その誇りを自分で勝ち取り、自分で懸命に維持しようとして必死になるか、それとも自分に対する誇りは、自分で勝ち取り、自分で懸命に維持すべきものではなく、ただこのような自分も愛してくださっているかたがおられる、そのことによって誇りをもてるようになるかであります。

 パウロも決して誇りというものをすべて捨てろとは言っていないのです。自堕落な生活をしている者に対して、もっと自分に対する誇りを持てと言って、叱るのであります。「お前は神の聖霊が宿っている神の宮ではないか。どうして自分を粗末にしていいか」と言って叱るのであります。自分を大事にしなさいというのであります。問題はその誇りをどこで得るかであります。パウロは神によって愛されるている、神がお前を選び、お前を愛している、そこに自分の誇りをもてというのであります。そうしたら自分の誇りを維持するために必死になって、他人を見下げてまで自分を誇ることもなくなるというのであります。
 
誇る者は主を誇れ、というのであります。この自分のために十字架について死んでくださったキリストを誇れというのであります。

 今日はクリスマスの待降節の第二聖日であります。主イエスの降誕を知り、その幼子イエスを祝福して、シメオンはこういうのであります。「あなは異邦人を照らす啓示の光、み民イスラエルの栄光です」というのであります。それはまず「異邦人を照らす啓示の光だ」と、シメオンは一番先にいうのであります。そうしてそれがみ民イスラエルの栄光なのだというのであります。このとき、シメオンがどんなに深く福音というものを予測していたかということであります。