「全き者であれ」 創世記一七章一ー一四節

 アブラムの九十九歳の時、主なる神はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。わたしはあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すであろう。」

 ここはすでに学びました、一五章一節からの箇所とよく似ているところであります。そこでは、「これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ。『アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いははなはだ大きいであろう』」となっております。そしてその内容も、彼らに子供が生まれるということと、カナンの土地を所有として与えるというもので、同じであります。これは創世記の説教でさいさい説明してまいりましたように、十五章のほうはいわゆるヤハウェ資料で、一七章では、祭司資料によるものであります。同じ内容がそれぞれの資料で述べられているということで、重複されているわけであります。

 一五章のヤハウェ資料の方では、アブラハムとサラとの間に子供が生まれるという約束を、神は契約としてそれをあらわすわけですが、その場合の契約はアブラハムの方には何一つ義務とか責務というものはいっさい要求されていないで、この契約をもし主なる神がやぶったならば、神ご自身がご自分の身を切り裂くというものでしたが、この祭司資料の方では、アブラハムの側にも義務を負わせます。それはアブラハムとその子孫たちに男子に割礼を受けさせるということであります。九節をみますと、「あなたと後の子孫とは共に代々わたしの契約を守らなければならない。あなたがたのうち、男子はみな割礼を受けなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである。」とあります。

 ここには確かに、割礼をうけなければならない、という義務が課せられておりますが、しかしこれは今日われわれが行っている契約における義務とは異なるものであります。たとえばわれわれ人間どうしの契約ならば、お金を借りる場合には、何月何日までに利子をつけて必ず返済する、それができなければ担保物件を差し押さえるという義務が課せられますが、ここで課せられている割礼を受けるという義務はそういうものではないのです。それは神の約束を信じるという応答のしるしとしての割礼であります。それは今日のわれわれの教会でいえば、洗礼を受けるということにあたります。洗礼を受けるということは、クリスチャンとなることの義務といえば義務ですが、しかしそれはなにか借金を何月何日までに返済するというような義務ではなくて、洗礼を受けるということは、これから生涯あなたの愛を信じ、あなたに従っていきますという応答の表現であります。

 これは神の一方的な恵みの約束が述べられていて、われわれ人間のほうはただその神の約束を信じ続けなさいという要請なのであります。たとえば親が子供の養育をする、しかし親が年を取って働けなくなったら、今度は子供は親の面倒を見なければならない、介護しなければならないというそういう契約ではないのです。そういう義務とか責任ではないのです。
 神はわれわれを愛する、だからお前達のほうでも最後までその神の愛を信じ続けて、神に従っていくというしるしとしての割礼であり、洗礼であります。

一節の言葉、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」という要請と同じであります。
「全き者であれ」というのは、どういう意味でしょうか。「あなたは完全な者になりなさい」ということでしょうか。

主イエスも「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがも完全な者になりなさい」と言っております。ここでも「あなたは全き者になりなさい」というのであります。完全とはなんでしょうか。神の完全とはなんでしょうか。それはある人が指摘しておりますが、ここでは「あなたがたの神が完全であられるように」とは、言わないで、「あなたがたの天の父が完全であられるように」と、言っているというのです。神の完全さ、などというと大変冷たい響きになる、ちょうど完璧という言葉で言い表される完全さを連想させる。「完璧」という字を辞書で引きますと、この「璧」という字は玉という意味で、宝石を表していて、傷のない宝石という意味、完全無欠という意味だとでております。それはたとえていえば、テストで百点とらないと完全でない、たとえ九十九点でも失格なので、百点でないとだめだという意味での完璧、完全という意味であります。しかし神が完全であるということは、そういう意味の完全さではないのです。天の父の完全さ、父の完全さということであります。父というと人間くさい響きになりますが、それは放蕩息子の父として表されております。自 分に背いていった息子をどこまでも赦し、受け入れる父として表しております。

マタイによる福音書で、「天の父が完全であられるように」となっているところを、同じ文脈でルカによる福音書では、「あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがも慈悲深い者となれ」となっております。つまりその完全さとは、傷のない宝石のない完璧というような完全さではない、愛の完全さ、どこまでも赦し、受け入れていくという慈悲深さという完全さであります。背いていくイスラエルの民をどうしても赦すことができずに、罰しようとする、しかしそれでも最後には、その心が変わり、憐れむ、「わたしは神であって、人ではなく、あなたのうちにいる聖なる者であるから、わたしは滅ぼすために臨むことはしない」と預言者ホセアが言うような神であります。心を変えてしまう神であります。それは百点以外はだめだという完璧主義者という完全さではないのです。
 
 神はアブラハムに対して、「あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」と言われているのであります。神の前で全き者であれ、と言われているわけで、われわれが神の前に自分の完璧さを誇っても何の意味もないことであります。第一われわれ人間が神のようになろうとして、アダムとエバは善悪の木の実を食べて、楽園を追放されたのであります。

神の前で歩み、全き者であれ、とは、神に従っていく、どんなことがあっても神の前で歩んでいく、そういう意味で、神に信頼し、神の愛に応えていく、神を愛していく、そういう意味で全き者になれということであります。神の前に歩み、神に従っていくといっても、それは修道院に入らなければ、全き者になれないという意味での服従ではないのです。それはこの後、アブラハムが神からお前達の間に子供が生まれるということを告げられた時に、アブラハムはひれ伏して笑ったという記事が出てまいります。アブラハムはそんなことをとうてい信じられないといって笑うのです。神を疑うわけです。アブラハムはもう神に従うとしないのです。それでも神はそのアブラハムを叱りつけはしますが、しかしだからといって、アブラハムの信仰が完璧ではないからといって見放したりはしないのであります。われわれが神の前に歩み、神に従っていこうとしても、決して完璧にはできないのです。紆余曲折がある、試行錯誤がある、川を渡る時に瀬踏みするようにして、渡るわけです、信仰から不信仰に陥り、また神によって信仰へと引き戻される、そのようにして神の前に歩んでいくのであります。それが神 の前で歩み、全き者になるということであります。

昨年でしたか、一昨年でしたか忘れましたが、「平気でうそをつく人々」という本がベストセラーになりましたが、その本のなかで、著者がこんなことを言っております。「精神の健全性は、自分よりも高いものに自分が従うことを要求するものである。この世のなかでそれなりに生きていくためには、われわれはある特定の瞬間に自分が求めているものに優先する、ある種の原理に自分自身を従わせなければならない。宗教的な人にとってはこの原理とは神である。また、非宗教的な人であっても、その人が正常な人間であるならば、意識的であろうと無意識にであろうと、ある種の『より高い力』に自分自身を従わせるものである」と言っております。その本のなかでは、ただうそをついてしまう人のことを問題にしているのではないのです。「平気でうそをつく人々」であります。別にその人々は精神的な病に陥っているわけではない、ごく普通の人々、一見普通に日常生活を送っている人であります。しかし、「平気でうそをつく」のです。それはもう精神がおかしい人だ、精神が健全ではないのだと著者はいうのです。われわれもそういう人を見たら、確かにこの人はどこかおかしいではないかと思い たくなると思います。そういう人は結局、自分を超えたもの、自分を超えたかたにみじんも従うとしない人なのだというわけであります。

主なる神は、「あなたはわたしの前に歩み、全き者になれ」と言われたあと、アブラハムと契約を結びます。名前はアブラムからアブラハムに変えさせます。サライに対して、サラに名前を変えさせます。この名前の変更は言語的にはあまり大した意味はないそうです。ただ新しい思いをもって歩みなさいという意味を込めたのでしょう。神はアブラハムに多くの子孫を与え、カナンの土地を永遠の所有として与えると約束し、その約束のしるしとしてアブラハムとその子孫に割礼を受けさせるのであります。割礼とは、男性の性に傷をつけるということであります。これはイスラエルだけで行われていることではないようであります。もともとは衛生的な意味だつたとも言われております。その起源はよくわかりませんが、これがイスラエルにおいては、神に従う者の応答のしるしとしてなったのであります。割礼というのは、肉体に傷をつけるということであります。それは一度割礼を施したら、もう取り消せないものであります。われわれの心などというものは、実にうつろいやすいものであります。ですから、そういうわれわれのうつろいやすい心の状態に左右されないものとして、肉体に傷をつけてお く、自分の心が動揺したときに、ああ、自分の肉体にはこれから神に従っていこうと決心をした徴としての傷がある、割礼があると、その原点にたちもどれるわけであります。

 それは今日われわれの信仰ででいえば、洗礼を受けるということであります。信仰さえあれば、洗礼などという形式は必要ないではいなかというかも知れません。しかしそれは信仰の立派な人がいうことであります。信仰の強い人が言えることであります。自分の弱さを知っている者は、洗礼を受けるという決定的な儀式というものが、大切なのです。それは客観的な儀式だからであります。自分の心のうつろいやすさと関わりなく、あの時、みんなの見ている前で、教会の証人の前で、神に従うという誓約としての洗礼を受けたではないかと思いだすことができる、その原点に帰ることができるのであります。

 われわれプロテスタントには、修道院というものはないですが、われわれから見ると何か修道院に入る人というのは、信仰の強い人が入るように想像しますが、本当はそうではなくて、自分の信仰の弱さをよく知っている人が修道院という一つの厳しい掟の生活に自分の信仰生活を縛ってもらおうとして修道院に入ろうとするのではないか、そういう人ばかりではないかも知れませんが、そういう人もいるのではないかと思います。
 もしわれわれが洗礼を受けていなかったならば、われわれの信仰生活は客観的なもの、その原点を失ったしまって、本当に頼りないものになってしまうと思います。

富める青年がイエスのところに来て、「永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」と、真剣なまなざしで尋ねにきました。その時にイエスはまず、戒めをまもりなさいといいますと、この青年は戒めは全部守ってきましたというのです。するとイエスは「もしあなたが完全になりたいと思うならば、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい、そうすれば天に宝をもつようになろう、そして、わたしに従ってきなさい」といわれたのであります。ここにも「もしあなたが完全になりたいのなら、」という「完全」という言葉がでてまいります。「もしあなたが完全になりたいのなら、あなたの持っているものを全部捨てなさいというのです。この青年はそれまで、戒めを全部守ってきたというのですから、道徳的にも完全だったのでしょう。貧しい人々にもなんども施しをしてきてはいると思います。しかしそれでもイエスはそれでは完全ではないと、言われるのです。それは道徳的に完全であっても、イエスから見た完全、神の前での完全さではないということであります。貧しい人々に施しをしたとしても、それは結局は自分の徳を積み、自分の善行を積むため の完全さの方向、つまり自分をますます太らせるための完全さの方向であって、それでは本当に神に従い、イエスに従うということにはならないからであります。それでは自分を捨てていないからであります。神の前に歩み、全き者になっていないからであります。

 彼は自分を捨てなさい、とイエスから言われた時にそれができないで、悲しみながら、イエスのもとを去っていったというのです。彼はイエスの言葉を聞いて憤然としてイエスのもとを去ったのではないのです。悲しみながらイエスのもとを去っていったのです。そこに彼がイエスのところに立ち返る望みというものをもつことができるのではないでしょうか。この後、イエスの弟子達は、自分たちはあの青年とは違って「すべてを捨ててあなたに従いました、ついては何がいただけるでしょうか」という愚かなことを言うのです。その時イエスは、最後に「しかし、多くの先の者は後になり、後の者は先になるであろう」と言われるのであります。この「後の者は先になるであろう」といわれた「後の者」とは、イエスは悲しそうにしてイエスのもとを去っていった青年のことを考えていたのではないか。神の前に全き者になりきれないで、悲しんでいる青年、彼がそのことに悲しんでいるという限りにおいて、やがて神の前に歩み出す可能性を残しているのではないか。