「神を迎える」創世記一八章一ー八節

 聖書をみますと、神はいろいろな形でわれわれ人間にあらわれてくださいます。モーセや預言者たちに現れたように、直接神が語りかけるというかたちで現れる場合があります。また夢や幻を通して現れることもあります。旧約聖書には、また神が旅人の姿をもって人を尋ねるという形で現れることが書かれております。今日の聖書の箇所で、アブラハムとサラに神が現れた時も三人の旅人の形をもって神が現れたようであります。一節をみますと、「主はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れた。それは昼の暑いころで、彼は天幕の入り口に座っていたが、目を上げてみると、三人の人が彼に向かって立っていた」と書いてあります。

 この箇所をよく読んでみますと、奇妙なことに気がつきます。それは一節で「主はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れた」と記しておきながら、二節以下の記事は、三人の旅人が立っていたという話になり、後にアブラハムとサラに語りかけるときには、一○節には「ひとりの人が言った」となっていて、一三節からは、はっきりと「主はアブラハムに言われた」となっているのであります。いったい主なる神はこの三人とどういう関係になっているのかがはっきりしないのです。三人のうちの一人なのか。昔の聖書学者は、ここには三位一体の神があらわされているのだとこじつけたりしておりますが、現代の聖書学者はもうそのようにここを説明する人はおりませんが、ともかく少し奇妙なのであります。

 こういう話は聖書の話というよりは、古代の神話の中に、あるいはギリシャ神話のなかに神々が旅人の姿をもってあらわれ、最初はそれが神だとは気づかないで、旅人として丁重にもてなして、それがあとで神だったとことに気がつくという話がよくあるそうであります。その話の形を聖書がここで用いたのではないかと思われます。

 神はなぜ直接アブラハムとサラにご自身の姿をあらわし、直接語りかけようとなさらないのでしょうか。一つは当時の信仰では、神は懼れおおいかたで、神を見た者は死ぬといわれているくらいで、神は直接人間にその姿をあらわさないということがあったのかも知れません。しかしそれにしても神はその姿をあらわさなくても、語りかけることはできるわけです。モーセや預言者には、その姿をあらわしはしませんでしたが、直接語りかけているのです。これまでもアブラハムに神は直接語りかけてきているわけです。それなのにここではなぜ神は三人の旅人の姿を借りて、アブラハムとサラに現れたのでしょうか。

 アブラハムは自分の目の前に突然現れた旅人をみると、彼は彼らを迎えるのですが、彼の迎えかたは尋常ではありません。「目を上げてみると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼はこれを見て、天幕の入り口から走って行って彼らを迎え、地に身をかがめて、言った。『わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通りすぎないでください。水をすこし取ってこさせますから、あなたがたは足を洗って、この木の下で休んでください。わたしは一口のパンを取ってきます。元気をつけて、それからお出かけください。せっかくしもべのところにおいでになったのですから』」というのです。「地に身をかがめて」彼らを迎えたというのです。「わが主よ」というのは、少し訳しすぎて、これは「主なる神よ」という呼びかけの言葉ではなく、尊敬をこめた言葉で、「ご主人様」というくらいの言葉だろうということです。それにしてもアブラハムの態度はまるで神を迎えるようにして丁重であり、自分の身を低くしております。その歓待ぶりも最初は水いっぱい、パン一口と言っておきながら、実際は麦粉三セヤでパンを造らせて、子牛をほふり、凝乳と牛乳と子牛で調理 して、本格的な料理をもってこの三人の旅人をもてなすのであります。

 これはアブラハムがこの三人の旅人の姿に、もしかするとこれは神の使いではないかという予感みたいなものを感じたのではないかと思わせられます。神々が旅人の姿をもって自分の前に現れる、そういう信仰みたいなものが、当時あって、この時アブラハムもそれを悟ったのではないかと思われます。

 旅人というのは、突然現れるものであります。ここでも、アブラハムが昼の暑い盛りの時、天幕の入り口のところでぼんやりとしているときに、突然三人の人が彼に向かって立っていたのであります。旅人はこちらの予想を超えて、こちらの思惑とか期待を超えて向こうから、来るものであります。そこに古代の人は神の顕現をみたのではないかと思います。神が現れるというのは、こちらの思惑とか計算、こちらの期待を超えて、突然現れるものであります。われわれはそれを場合によっては、見逃してしまうかも知れない、こちらの受け止めかたによって、神の顕現、つまり神があらわれるかどうかが受け止められる、そういう形で神はわれわれに現れるのではないか。

 われわれは神さまが現れたり、神さまが語りかける言葉を聞こうとする時に、こちらがどこか静かな何か神秘的な教会堂とか、あるいは山の中にこもってとか、そういうところで熱心に祈っているときに神が現れることを期待しますけれど、案外神はそういう形では現れないのではないか。そういう場合に現れることもあるでしょうが、つまりわれわれの熱心な祈りに応えるという形で神が語りかけてくださるということもしばしばあるでしょうが、だから主イエスも絶えず熱心に祈りなさい、と勧めているわけですから、そういう形で神が現れてくださるということもあると思いますが、しかし必ずしもそうでない場合が多いのではないか。そういうように、われわれが準備万端整えて、さあ、いつでも神さま現れてください、神さまお語りになってくださいと待っていて、神が現れた、神が応えてくださったという時には、それは案外本当の神ではなくて、われわれの想像上の神、われわれの願望が作り出してしまった神である場合も多いのではないか。

 そしてそのようにして神の声を聞いたといっても、それは本当は自分の願望が作り出した偽の神の声である場合が多いのではないか。旧約聖書にしばしば現れる偽預言者はみなそのような預言者なのであります。民衆が期待するようなことを言う預言者、平和がこないのに、平和がくるくると民衆を安心させるような預言者なのであります。
神が本当に現れる時には、案外われわれの準備とか、予想とか期待を超えて、ちょうど旅人が突然自分の前にその姿をあらわすように現れる場合もあるのではないか。

 たとえがいいかどうかわかりませんが、音楽を聴くとき、普段は自分が聴きたい曲を聴きたい演奏家を選んで、レコードを聴くわけです。自分の都合がいい時間と場所を設定して、さあこれから音楽を聴こうとするわけです。しかし時々、どこかを歩いている時、突然聞こえてくる音楽がある、ラジオをとおしてかもしれないかもしれませんし、テレビをとおしてかも知れない、その時実に新鮮な思いで、その音楽に聞き惚れるということがあります。全く同じ曲、同じ演奏家のレコードでも、こちらが予期しないとき、準備をしない時に突然聞こえてくる音楽というものに感銘を受ける時があります。
 
神が姿をあらわす、神が語りかけるということもしばしばそのようにして現れたり、語りかけたりするのではないか。だから昔から旅人の姿を借りて神が現れるという信仰があったのではないか。われわれは普段は自分の計画と自分の予定で人生を設計ばかりしようとしますが、そういうプログラムの中にどこかに旅人をもてなす用意をしておくということが必要なのではないか。そうしておかないと、せっかく神が自分に訪れても神を迎えることに、神の言葉を聞くことを逸してしまうことになってしまわないか。

 そして神が直接アブラハムに現れないで、旅人として、はじめのうちはそれが神であるとはわからないようにして、旅人として現れたわけは、アブラハムがそのようにして突然現れる旅人をどのように迎えるかを試そうとしておられたということもあるのではないか。そのことをヘブル人への手紙では、「兄弟愛を続けなさい。旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使いたちをもてなした」と記すのであります。神が突然現れた時に、われわれのほうでも「地にひれ伏す」とか、丁重に迎える、愛をもってお応えするとか、つまりそれが信仰ということになると思いますが、信仰をもって神をお迎えすることを神のほうでも待っておられるということではないかと思います。

神はいつ現れるかわからない、神はいつわれわれに語りかけてくださるかわからない、しかしいつでも神が現れた時に、神が語りかけてくださった時に、それを受け止める、その声を聞こうとする用意をして生活している、それを神さまは望んでおられるということであります。われわれが自分の人生をいつもいつもただ自分の才覚と自分の計画だけで生きていこうとしていては、そのようにして突然現れる神を見失うことになるのではないか。いつも自分のなかのどこかに、「しもべは聞きます。主よお話しください」と少年サムエルが待っていたような心を開いておく必要があるのではないか。主イエスも、わたしが再び来るときに、この地上に信仰がみられるだろうか、と怪しんだという嘆きの言葉を吐いているのであります。神はもちろんわれわれの不信仰を貫いてご自身をあらわすことができるし、そうでなければわれわれの信仰は起こらないのですが、しかしまた神はわれわれが神を受け入れる、神を信じる、神を愛するという心をわれわれがもっていることをどんなにか望んでおられ、期待しておられるかということも確かであります。

 へプル人への手紙が、「兄弟愛を続けなさい」と言った後、すぐ「旅人をもてなすことを忘れてはならない」といい、そしてこの時のアブラハムに言及し、「ある人は気づかないで御使いたちをもてなした」といっていいるのは、いつも自分の親しくしている兄弟だけを愛するという兄弟愛だけでなく、それも大事なことだけれど、それと共に、旅人、いつ訪れるかわからない人、そういう人を丁重に迎える、もてなすという広い心をいつも用意しておかなくてはならないというのです。主イエスも、この世でいと小さい者、自分の目の前の空腹な人にパンを与える人、旅人に宿を貸した人、裸の人に着物を着せた人、獄にいる人を尋ねた人、そのようにこの世の小さな人に小さな親切をした人は、イエスに愛を注いだことなのだと言われているのであります。

 自分のことばかり考える、自分の見知っている人間だけのことを考えるのではなく、突然向こうから現れて、助けを求めている人に心を開いているということがどんなに大切か、旅人をもてなす用意をいつでもしておく生き方をしているということがどんなに大事か、それがまた神をお迎えすることにもなるのであるということであります。
 もちろん今日の日本で文字通り旅人に宿を貸すなんてことはできないことであります。四国にいる時に、ある教会では、そのようにして尋ねてくる旅人に宿を貸して、盗難にあったり、ぼやを出されたりして、もうそういうことを仕事にしている教会荒らしという人がいますので、文字通りそれを行うことはできませんけれど、比喩的な意味で、旅人をもてなすという心を開いているということは大事なことなのであります。

 さて、アブラハムのところで歓待を受けた旅人は、サラはどこにいるのかといきなり尋ねます。この時にアブラハムもこの旅人が神からの使いであることを知るのであります。その一人が「来年の春、わたしはかならずあなたのもとに帰ってきます。あなたの妻サラには男の子が生まれるでしょう」と、告げます。今までもさいさい神はアブラハムとサラとの間に子供が与えられることを告げているのであります。しかしこのときには、「来年の春」とはっきりと時期を明確にして、いよいよ神の約束の成就を明確にするのであります。しかしそれを天幕のな中でもれ聞いたサラは心の中で笑ったというのです。もう自分たちは年を取りすぎている、もうそんなことはあり得ないと思って、笑ったのです。それを知って主は、もうここでは旅人の姿を捨てて、いきなり「主」つまり神であることをあらわしておりますが、「主はアブラハムに言われた」というのです。「なぜサラはわたしが老人であるのに、どうして子を産むことが出来ようかと言って笑ったのか。主にとって不可能なことがありえましょうか」といって叱るのであります。すると、サラは恐ろしくなって、「わたしは笑いません」とあわてて 自分が笑ったことを否定します。すると主は「いやあなたは笑った」というのです。ここのサラと主なる神との問答はなにかユーモラスですが、しかし単なるユーモアを超えて、人間の不信の恐ろしさというものを感じさせるものがあります。

アブラハムももう百歳にもなっているのに自分たちに子供ができる筈はないと思って、神から子供が与えられるという約束を聞くと、「ひれ伏して笑った」のですが、このアブラハムとサラの笑いとはなにか。そしてその笑いを聞きつけて、主がなぜこんなにも真剣にそれをとりあげて、叱るのか。この笑いはあからさまな神に対する不信ではないかも知れません。しかし真っ向からの否定ではないにしても、神の可能性というものを人間の常識的な思いで小さくしてしまう、そういう笑いであります。いわばこれは神を信じない者の不信仰ではなく、神を信じている人間の不信仰であります。アブラハムは「ひれ伏して笑った」と聖書は記しているのであります。神に「ひれ伏して」おりながら、しかし一方では心のなかで、そんなこといったて、といって笑うのであります。それを神が叱るのであります。

 あのイエスの誕生を告げられたマリヤは最初は神の御告げに驚き、「そんなことはありえない」と思って否定しますが、「神にはおできにならないことはない」いう天使の言葉を聞くと、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と、それを受け入れております。しかしサラの場合には、「主にとって不可能なことがありえましょうか」と聞いても、マリヤのような信仰告白はなく、「わたしは笑いません」と、自己弁明があるだけであります。

 もちろん、これもやはり象徴的な事柄で、信仰とは百歳にもなって子供が生まれることを期待したり、信じることだということではないのです。ただいつもわれわれが人間の常識だけですべてを判断していっていいのか、神にとって不可能なことはないという信仰をわれわれがどこかにもっていなくてはならない。そういう素朴な信仰を決して笑ってはならないということなのであります。

サラがあわてて「わたしは笑いません」と否定しますと、主は「いや、あなたは笑った」と言った後、そこを立ってソドムの方に向かっていったというのであります。ご承知のように、そのソドムは人間の罪が大きく、神が滅ぼそうとしている町なのであります。「いや、あなたは笑った」と言った後、聖書はなにも記さないで、彼らはソドムに向かったと記している、ここに聖書はサラの神に対する笑いと、ソドムの罪とを結びつけようとしているのだと、ある聖書の注解者は指摘しているのであります。