「うしろをふり返るな」 創世記一九章一五ー二九節

 

主なる神はアブラハムの甥ロトが住んでいる町ソドムとゴモラの町が罪に満ちているために滅ぼそうとしました。そのことをあらかじめアブラハムに打ち明けたのであります。それでアブラハムは自分の甥ロトを救うとしてなんとかしてソドムの町の滅亡を阻止しようとしてとりなすのであります。もしそこに「五十人の正しい者がいてもあなたはその町を正しい者と一緒に滅ぼしてしまうのですか」と神の公正と正義に訴えて、その町を滅ぼさないようにしてくださいと訴えるのであります。神から「もし五十人の者がいたら滅ぼさない」という約束をとりつけますと、アブラハムは更に、もし四十人でしたら、もし三十人でしたら、と問いつめていって、最後にもし十人の正しい者がいたら、どうですか、と問いつめて、神から「十人の正しい者がいたら、その町を滅ぼさない」という約束をとりつけますと、そこを去るのであります。あとはすべて神に委ねたのであります。

 十人の正しい者がいたら、その町を滅ぼさないという神の約束は、そのアブラハムとのやりとりの経過から言えば、もしひとりの正しい者がいたら、その町を滅ぼさないという事になるはずであります。しかし今日の聖書のテキストをみますと、神はそのソドムの町を硫黄と火で滅ぼしてしまうのであります。結局そのソドムの町にはひとりの正しい者もいなかったということであります。ロトとその一族だけは救い出されますが、それもロトが正しい人間だったからではなく、一九節をみますと、「神はアブラハムを覚えて、その滅びの中からロトを救い出された」のであって、ロトの一族はアブラハムのゆえにその滅びから逃れただけであります。
 
 一九章の一節から一四節までは、そのソドムの町がいかに罪に満ちた町であったかのエピソードが記されております。神からの二人の使いが夕暮れにソドムの町に着くのであります。これは恐らくロトの一族に早く逃げなさいと告げるためのようであります。ロトはその二人がソドムの町に入る時にソドムの町の門のところでぽやり座っていたというのです。ロトは旅人をみますと、立って迎え、地に伏して「わが主よ、どうぞしもべの家に立ち寄って足を洗い、お泊まりください」と丁重に迎えます。これもアブラハムが旅人を丁重に迎えて、それがあとで天からのみ使いだと知るのと同じように、突然自分の前に現れた旅人をまるで天から来たみ使いのようにして、「地に伏して」迎え、丁重に迎えるのであります。

 その時代には、やはり突然現れる旅人はもしかすると天からのみ使いかも知れないという信仰があったのかも知れません。彼らは始めは「いや、自分たちは広場で夜を過ごします」と断りますが、ロトの熱心なすすめで、家に入り、ロトの一家のもてなしを受けておりますと、ロトの家に客人が来たことを知ったソドムの町の人々が押し寄せて「今夜お前のところに来た人々はどこか。彼らをここに出せ。われわれは彼を知るであろう」というのです。これは新共同訳聖書では、「われわれは彼を知るであろう」というところを「なぶりものにしてやるから」となっていて、この「知る」という言葉は聖書では、深く知るという意味で、性的な意味で「知る」という意味をも含んだ言葉で、ソドムの町の人々が性的な意味でこの旅人に関心をもったことのようなのであります。後に男色、つまり男の同性愛を示す言葉が英語では、ソドミイという言葉が使われていて、この聖書の記事からそういう言葉が生まれたようなのであります。

 それでロトも「兄弟たちよ、どうか悪い事はしないでください。わたしにはまだ男を知らない娘がふたりあります。わたしはこれをあなたがたに、さし出しますから、すきなようにしてください。ただ、わたしの屋根の下に入って来たこの人たちには、なにもしないでください」と言ったというのであります。旅人が性的に犯されるよりは、自分の娘が汚されるほうがまだましだというのであります。今日からみればひどい話であります。しかし聖書はこのロトの行為が特別に道徳的に非難されて書かれていませんから、むしろそれほどに旅人である客人を守った者として評価されたような書き方がされているのであります。そこには旅人というものはもしかすると天からの使いであるかも知れないという信仰があったからなのかも知れません。

 旅人がソドムの町の人々の男色の対象としてなぶり者にされるよりは、まだ処女である自分の娘が汚されるほうが罪が軽いということなのかも知れません。聖書の時代には同性愛というものが神が定めた性の秩序を破壊するものとして重大な罪として考えられたようなのであります。それを今日そのまま当てはめて、聖書のこうした記事をもって、だから同性愛は最大の罪だとすることは間違いを犯しやすいのであります。聖書もまた時代的な産物であるという限界をもっていることをわれわれはよく知っておかなくてはならないことであります。聖書をみれば明らかに男尊女卑であります。あるいは奴隷は蔑視されております。それでも聖書は他の世界に比べれば女性は重んじられ、奴隷の人権も守られているということはあるのであります。今日では、同性愛の問題は、これは生まれつきの遺伝子の問題で、道徳的価値判断の対象にすべきものではないというのが有力な意見となっております。

 ソドムの町の人々は、そのようにして客人を守ろうとするロトは生意気だということで、今度はロトに危害を加えようとするのであります。それで神の使いでもある旅人は襲ってきた人々の目をくらましたので、彼らはロトの家の入り口を見つけられなかったというのであります。
 
 この一連の出来事を身をもって体験した神の使いはロトに告げます。「人々の叫びが主の前に大きくなり、主はこの所を滅ぼすためにわれわれをここに遣わしたのだ。お前達一族だけはみなここから逃げなさい」と告げます。一六節をみますと、「彼はためらっていた」というのです。ロトはこの神からの「逃げなさい」という勧告を受け入れることにためらった。すると、主なる神は「あわれみを施されたので、かのふたりは彼の手と、その妻の手と、ふたりの娘の手を取って連れだし、町の外に置いた。」彼らは外に連れ出した時にこういうのであります。「逃れて自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山に逃れなさい。そうしなければ、あなたは滅びます。」「逃れて自分の命を救いなさい」というところは、新共同訳聖書では「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはならない」と訳されています。別の訳では「自分の命を惜しんで、逃れよ」となっております。逃れる時、逃げる時には、命がけで逃げなくてはならない、従って後ろを振り返る余裕などないのだというのであります。

 「うしろを振り返るな」ということで思いつくのは、芥川龍之介の「くもの糸」の話であります。生きている時にさんざん悪いことをしたカンダタという人間が死んで地獄に落とされた。ある時お釈迦様が天上から地獄をみていたら、そこにカンダタがいた。彼は生きている時にさんざん悪いことばかりしていたが、ただ一度だけ自分の足下にいた一匹のくもをふみつけていこうとして、可哀想に思って踏みつけるのをやめたことがある。それをお釈迦様は思い出して、彼を地獄から助けだそうとして、くもの糸を地獄に降ろしてあげた。カンダタはこれはしめたと思い、その細い糸を頼りに天に昇っていこうとするわけです。そして途中で、自分がいた地獄の連中はどうしているかと下を見下ろすと、なんと自分のあとにその細いくもの糸を頼りに地獄の連中がみな天に昇ろうとしている。

 それで彼は「これはおれの糸だ。お前達にはこれを上る権利などない。降りろ、降りろ」とわめくのであります。するとその振動でくもの糸はぷっつりと切れてしまって、カンダタもまたもとの地獄に落ちてしまった、それを天の上でお釈迦様が悲しそうな顔でみておられたという話であります。カンダタはお釈迦様のあわれみにすがってただくもの糸を上ればよかったのです。それを途中で自分がいた地獄の連中はどうしているか、などとうしろを振り返ったために、彼は再び地獄に落ちてしまったというのであります。これは彼の功績で地獄から極楽に救われるのではないのです。自分の足下のくもをただ一度哀れに思って踏みつけなかったなどということが自分が救われる功績などになりようはないのです。彼の目の前に降ろされたくもの糸は、これはただひたすらお釈迦様の憐れみであります。彼はお釈迦様の憐れみにただすがっ上らなくてはならないのです。下をみる余裕などない筈なのであります。

 今天の使いもロトとその妻に「逃れて自分の命を救いなさい。うしろをふりかえってはならない」というのであります。ただひたすら神の憐れみにすがって逃げなさい、うしろを振り返るな、というのであります。ところが二六節をみますと、ロトの妻はうしろをふりかえったので、塩の柱になってしまったというのであります。なぜロトの妻はこの時うしろをふりかえったのか。なにも書いていませんからわかりませんが、後にルカによる福音書では、終末のさばきの時にはただひたすら逃げなさいという勧告をして、その例としてこのロトの妻のことをとりあげております。こういう文脈のなかでロトの妻のことをとりあげます。「その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りに降りるな、畑にいる者も同じようにあとへもどるな。ロトの妻のことを思いだしなさい。自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うもの、保つのである」というのです。つまり、うしろを振り返ったロトの妻は「自分の持ち物を家の中からとりにいこうとして引き返した者」の例として取り上げられているのであります。うしろを振り返るということは、この場合、自分の持ち物に執着 し、自分に執着することなのだというのであります。カンダタの例で言えば、自分の功績のお陰でこの救いのくもの糸が降ろされたのだと自分のことを誇りたくなって、地獄にいる連中を見下そうとするということであります。

 われわれが救われるのは、自分の功績などを頼りにしてはならない、自分というものに執着してはならない、ただただ神のあわれみによりすがる以外にないのだということであります。自分の命を救うために逃げる時には、ただひたすら神のあわれみを信じて逃げることに徹しなくてはならないのであります。

 ただここでルカによる福音書の記事では、少し奇妙な言葉をその後に付け加えているのであります。それは「ロトの妻のことを思い出しなさい」と言った後、すぐ続けて「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」という言葉であります。つまりロトの妻は自分の命を救おうとして、うしろを振り返って、そのために命を落として塩の柱になってしまったのだということになるのであります。しかし創世記の記事は、天の使いはもともとロトとその一家に対して「自分の命を救うために逃げなさい、うしろを振り返ってはならない」と命じているのであります。自分の命を救うことに懸命になって、うしろなど振り返る余裕などもたないほどに自分の命を救うことにひたすらになって逃げなさいという勧告であります。ところがルカによる福音書では、「自分の命を救うおうとする者はそれを失うのだ」と、逆のことを言っているようなのであります。

この勧告の言葉は全体の文脈からすると、終末のさばきの時にはただひたすら逃げなさいという勧告であります。つまりもう懸命に自分の命を救うために逃げなさいという勧告であります。ですから、自分の命を救おうとしてはならないというようなことではない、むしろ自分の命を救いだすことに徹底しなさいということであります。そうしますと、この「自分の命を救おうとする者は、それを失い」というのは、屋上にいる者が自分の持ち物に執着してそれを取りに戻ろうとすること、ちょうど火事になっていったんは建物から逃げ出したけれど、家の中に貯金通帳があることを思い出してそれを取りに帰って返って焼け死んでしまうのと同じようにして、そういう意味で、「自分の命を救おうとするもの」という意味であります。つまり自分の命を救うためにただひたすらに逃げるということは、自分の持ち物に執着して、自分の持ち物を誇りにして、それを持ち出して、だから自分は救われる権利があるのだなどということではない、われわれが救われるのは、ただただ神のあわれみを頼りにすることなのだ、そういう意味では「自分を捨てる」ことなのだ、神のあわれみによりすがって救われるという ことは、自分を捨てること、自分で自分の命を救おうなどと思わないことなのだということであります。自分の貯金通帳などを頼りにするなということであります。

この「自分の命を救おうとする者はそれを失い、それを失う者は、保つのである」という言葉は、福音書のなかでは、「自分の十字架を負うて、自分を捨てて、わたしに従ってきなさい」というイエスの勧告の言葉のなかにでてくる言葉であります。その後に「自分の命を救おうとする者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」という言葉が続いているのであります。つまりここで自分の命を救おうとする者とは、自分を捨てきれないで、自分に執着して自分の命を救おうとするものであることがわかります。救われるためには、自分を捨てなくてはならない、それが自分の十字架を負うということなのであります。そして自分を捨てるということは、具体的にはイエスに信頼し、ともかくイエス従っていくということ、ロトの場合で言えば、途中でうしろを振り返るなどということをしないで、ただひたすら神の憐れみによりすがるという逃げかたをするとことなのであります。

われわれが救われるためには、自分を捨てて、ただ神の憐れみにすがる以外にないのです。自分の功績などを頼りにしてはならないし、また逆に自分の過去を反省してばかりしていてもだめなのです。悔い改めと後悔とは違うのです。悔い改めというのは、回心という言葉が使われておりますように、自分のことを後ろ向きに反省して後悔することではなく、自分に向かっている視線を回転させて、神に方向転換すること、それが悔い改めということであり、それは後悔とか、反省とは違うのであります。日記ばかりつけて、自分の過去をあまり反省してもそこからはなにも生み出さないのではないでしょうか。ある意味では、もう日記をつけることを捨てて、ただ神のあわれみにすがっていくことが大事なのではないか。

 ロトの妻は後ろを振り返ったために、塩の柱になってしまいました。しかしロト自身もほめた話ではないのです。神の使いから「うしろを振り返るな、自分の命を救うためにただひたすら逃げよ。低地にとどまってはならない。山に逃れよ、そうしなければ、あなたは滅びる」といわれながら、ロトは「わが主よ、どうかそうさせないでください。しもべはすでにあなたの前に恵みを得ました。あなたはわたしの命を救って、大いなる慈しみを施されました。しかしわたしは山までは逃れることは出来ません。災いが身に追い迫ってわたしは死ぬでしょう。あの町をごらんなさい。逃げていくのに近く、また小さい町です。どうかわたしをそこに逃れさせてください、それは小さいではありませんか。そこで救ってください」というのであります。ロトという人間がいかに不徹底な人間か、安易な人間か、いつも楽な道、楽な道に逃れようとする人間かということがわかるのであります。逃げる時には、もうただひたら逃げなくてはならないのに、それができないのです。神はそれを許しました。しかしロトはいざその小さな町に住んでみますと、その町の住民ゾアルを恐れて、山に逃げて、山の洞穴で娘達と 住んだというのであります。結局は山に逃れるのであります。
 
 ソドムの町は硫黄と火が天から下ってきて、ちょうど火山の噴火に滅ぼされるようにして滅亡したというのであります。二七節をみますと、アブラハムは朝早く起き、さきに主の前に立った所に行って、ソドムとゴモラの方、及び低地の全面を眺めると、その地の煙がかまどの煙のように立ち上っていた」というのであります。かつてアブラハムがロトを助けようとして主なる神と「もしそこに五十人の正しい者がいたらその正しい五十人と一緒にそこをほろぼされのですか」と神に訴えた場所、そしてとうとう十人の正しい者がいたらその町を救うという神の約束をとりつけた場所に立って、ソドムの町のほうを見たというのであります。そこは神の裁きを受けてかまどの煙のようになっていたというのであります。そこにはただの一人も正しい者はいなかったことをアブラハムはどんな思いで見ていたかということであります。義人はいない、ひとりもいないと、アブラハムは人間の罪の深さを思ったことだろうと思います。