「息子の嫁取り」  創世記二四章一ー一四節

 今日の説教題はあまり信仰的ではない説教題であります。いつもいいますように、説教題は外にも看板としてだしますので、苦労しているのですが、どうもほかに適当な題がないので「息子の嫁取り」という題にしました。説教題があまり信仰的でないのは、その内容もあまり信仰的でないのです。ごくごく世俗的な話であります。それは一つの短編小説を読むような牧歌的な話であります。

 アブラハムは年も進んで、自分の死の近いことを知るのであります。それで自分の息子イサクに嫁をとりたいと切実に思います。それでしもべを呼んで、「今自分たちが住んでいるカナン人の中から息子の嫁をとりたくない。自分の故郷まで行って嫁を探してきてくれ」と頼みます。なぜ今住んでいるカナン人を忌み嫌うのかはここには記されておりませんが、これはカナン人がアブラハムたちが信じているヤハウェという神を信じていない、別の神々、アブラハムからすれば偶像を信じているから、そういう人の中から自分の息子の嫁をとりたくないということのようであります。しかしだからといって、息子イサクをその故郷につれていってはならない、そこの人から適切な嫁を探し出して、その嫁をこちらにつれてきてほしいというのです。「神がわたしを父の家、親族の地から導き出して、この地を与えると約束してくださっているから、息子イサクを故郷に返してはならない。天の神はそれを望んでおられない。神はきっと嫁をその故郷の中から探して出してくれるに違いない、主はみ使いをあなたの前に使わされるだろう。」としもべに言うのであります。そしてアブラハムはしもべにこういいま す。「あなたはあそこからわたしの子に妻をめとらなくてはならない。けれどもその女があなたについてくるのを好まないなら、あなたはこの誓いから解かれる。」というのです。この誓いから解かれるというのは、この女がイサクの嫁にふさわしいと思っても、その女がここまでくるのはいやだといったならば、あなたに責任はないということであります。その時には、その任は解かれるということであります。
 
 ここで面白いと思いますのは、アブラハムはすべては「主は、み使いをあなたの前につかわされる」、つまり神がすべてを導いてくださる、と信じていて、そのことをしもべにも告げておりながら、しかしだからといって、そうならない場合もある、相手がその主の導きを拒む場合もあり得るということをアブラハムは知っているということであります。彼はそういう信仰理解をしているということであります。人間は決して神の道具ではない、こんなところまでくるのはいやだと拒むこともあり得るということをアブラハムは考えている、またそういう心配もしているというところは大変われわれの信仰理解と近いのではないかということなのです。アブラハムはそういう柔軟性をもった信仰をもっていた、ある意味では大変常識的な信仰理解をしていたということであります。

 しもべは主人のらくだのうちから十頭のらくだを取って、また主人アブラハムからさまざまのよい贈りものを用意してアブラハムの故郷へと旅立ちます。そしてナホルの町に入り、井戸のところに来たました。ちょうど夕暮れで女たちが水をくみにくる時刻だった。その時しもぺは自分の主人の息子の嫁探しにひとつのよいアイディアを思いつきます。町の娘たちが水をくみに来た時に、「あなたの水がめを傾けて、わたしに飲ませてください」と頼んでみよう。その時に自分だけにでなく、らくだにも飲ませましょうと言ってくれる娘がいたら、その娘こそ自分の息子イサクの嫁にふさわしいのではないかと思うのです。そしてその事を神に祈り、「そのものこそあなたがしもべイサクのために定められたものということにしてください。わたしはこれによって、あなたがわたしの主人に恵みを施されることを知ることになりましょう」と祈ったというのです。

 自分の主人の息子の嫁選びという大変重要なことには、最終的には神の判断、神の判定で、ことを決めたいのです。その判定はまことに人間くさいというか、どんな親でも自分の息子の嫁を選ぼうとするときに選ぶ基準となるような判定であります。神の判定を何か奇跡的なことに求めようとはしていないのです。たとえば、ここに最初に水を汲みにくる娘を主人の息子の嫁にするとか、そういういう選びかたではないのです。

 神の摂理とか、神の導きとかといいますと、聖書には人間の思いを越えて、人間の計らいを逆転させるようにして、神があることを進めるということがよく語られております。たとえば、創世記の記事で後に学ぶことになりますが、ヨセフ物語のなかに出てくるヨセフの運命ですが、ヨセフは兄弟たちのねたみをかい、エジプトに奴隷として売られてしまいます。しかしそのことが後に世界に飢饉が訪れた時に、その兄弟たちの一族を救うことになります。兄弟たちはヨセフに対して悪をたくらんだが、しかし神はそれを良きに変えさせた、という話であります。人間は悪をはかる、しかし神はそれを逆転させてよいものに変えるというのです。そこにわれわれは神の強力な導きを感じる、神の摂理を思うのです。キリストはみんなからもうこんな救い主はいらないと言って捨てられた石だった、ところがその捨てられた石がいつのまにか家を支える隅のかしら石になっていたというところに神の摂理をわれわれは知るのであります。

 あるいは、イスラエルの王を選ぶ時に、サムエルという預言者が自分の目の前に姿のよいエリアブをみて、この者こそイスラエルの王にふさわしいとして、王に選ぼうとしますと、主なる神はそのサムエルにこういうのです。「顔かたちや身のたけを見てはならない。背の高さで判断してはならない。わたしはその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」と言われて、エリアブではなく、ダビデを王にしなさいと、命ぜられたというのです。人間の価値基準と神の価値基準とは違うのだというのです。人間は人の外面的な美しさにとらわれて失敗するが、神は人の内面の心を見て、判断するというのであります。ところが面白いことに、そのようにして選ばれたダビデは「血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人」であったというのです。
 
イサクの嫁選びに関しては、人間の価値基準と神の価値基準は同じなのであります。同じでいいですかと神に祈り、神はそれを受け入れてくださっているのであります。人はだれでも外面的な美しさよりは、らくだにも親切に水をくんでくれる心のやさしい娘を嫁にしたくなるものであります。信仰生活というと、ある意味では人間の常識を越えた、人間の常識に逆らう何か激しいものをわれわれは想像したりしますが、本当はそうではなく、信仰生活というのはある意味でこの世の常識にそうものでもあるということをアブラハムの息子の嫁選びの物語はわれわれに教えているのではないかと思います。

 しもべが神にそのことを祈らないうちに、アブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ペトエルの娘リベカが水がめを肩に載せて、水を汲みに来た。それでしもべが走りよって、「お願いです、あなたの水がめの水を少し飲ませてください」といいますと、娘は彼に水を飲ませただけでなく、らくだにも水を飲ませましょうと親切に申し出たというのです。娘がらくだに水を飲ませている様子を彼は黙って見ていたというのです。心のなかでこの娘こそ、自分の主人の息子の嫁にふさわしいと思ったのです。それでらくだが水を飲み終わった時に、しもぺは重さ半シケルの金の鼻輪一つと、重さ十シケルの金の腕輪二つわ取って、娘に与え、あなたの家に今晩泊まらせてもらえないかというのです。すると娘は快くその申し出を受け入れて、彼とらくだを自分の家に導いた。そこにいきますと娘の兄ラバンが出迎えて妹からその成り行きを聞いて、その申し出を受け入れ、そこで泊まらせてもらえることになります。それで彼は兄ラバンに自分がなぜここに旅をしにきたかを話し、自分の主人の息子の嫁探しに来たこと、そしてその嫁選びの判定として、親切にも自分だけでなく、らくだにも水を飲ませてくれる者 こそ主人の嫁にふさわしいと自分は思い、そして神にもそのことを祈っていたら、ちょうどあなたの妹が来てその通りのことをしてくれたので、自分はこの人こそ主人の息子の嫁にふさわしいと主に感謝したこと、主なる神はわたしを嫁選びのために正しい道に導かれたのだと思い、主を礼拝したのだと話します。

 そして兄ラバンに対して「あなたがもしわたしの主人のいつくしみと、まことを尽くそうと思われ、あなたの妹リベカを嫁にくださるならば、そうとわたしにお話ください。そうでなければ、そうでないとお話ください、それによってわたしは右か左に決めましょう」と丁重にお願いします。するとラバンは「この事は主から出たことですから、わたしどもはあなたによしあしを言うことはできません。リベカはここにおりますから連れていって、主が言われたように、あなたの主人の子の妻にしてください」と申し出を受け入れます。するとアブラハムのしもべは地にひれ伏し、銀の飾りと、金の飾り、及び衣服を取り出してリベカに与え、その兄と母とにも価の高い品々を与えたというのです。そしてすぐ翌朝、「わたしを主人のもとに帰らせてください」と申し出ます。するとリベカの兄と母は驚いて、「娘は数日、少なくとも十日、わたしどもと共にいて、それから行かせましょう」と、躊躇しますが、しもべは「主はわたしの道にさいわいを与えられましたから、わたしを引き留めずに主人のもとに帰らせたください」と、少し強引にいいます。それではリベカはどう思うか聞いてみようということ になり、リベカはそれを承知して、その日に旅立ったというのです。

 創世記はこのイサクの嫁選びの話を実にくわしく、まるで短編小説のように書き残しているのであります。大変人間くさい、また牧歌的な話であります。つまりあまり信仰的でない話であります。兄のラバンがリベカを遠い地まで嫁にやることに承知したのは、言葉の上では「この事は主から出たことですから、わたしどもはあなたによしあしを言うことはできません」と、いかにも信仰的なことをいいますが、創世記はしかしこの兄ラバンは三○節をみますと、「彼は鼻輪と妹の手にある腕輪とを見た」と記しているのであります。つまりこの兄ラバンは結局は高価な贈りものを見て、計算高く妹を遠いところまで嫁にやることを承知したようなのであります。それはしもべがアブラハムから預かってきた銀の飾りと金の飾り、衣服をリベカに与え、そればかりでなく、その兄と母とにも価の高い品々を与えたと、さりげなく記しているところからもわかります。これもまた大変人間くさい決断であります。そのことを聖書は隠そうとはしないのであります。

 信仰生活というと、何かこの世の常識を越えたことを信じることだとばかり考えがちです。たとえば何か大きな苦しみとか試練を与えられるなかで、神の恵みを感じることが信仰的だと無理して考えなくてはならないのだと思いがちですが、実際はそうではなくて、われわれがさいわいだと感じる時にこれは神がわれわれに恵みを与えてくださったのだと受け止めてもいいのだということであります。 この世的な小さな親切の中に神の祝福を感じてもいいのだということであります。旅人だけでなく、らくだにも水を飲ませてくれる、そういういわば小さな親切の行為のなかに、喜びを見いだして、自分の主人の息子の嫁にしようと思うこと、そしてそれがまた神も承認してくださるに違いないと思うこと、それもまた信仰深いことなのであります。

 今日は説教のあとに、第二編の賛美歌の二六番を歌いますが、これはある人からこれはいい賛美歌ですと紹介されて知ったのですが、始め紹介された時には、その歌詞はいかにも人間的で、教会学校のこどもたちと一緒に歌うならばいいけれど、大人の礼拝にはあまり歌えないな、と思ったのですが、しかしよく味わってみますと、大変素朴な歌詞で、メロディーもかわらしいし、こういう賛美歌もいいなと思ったのであります。こういう歌詞であります。「小さなかごに花をいれ、さびしい人にあげたなら、部屋に香り満ち溢れ、くらい胸もはれるでしょう。愛のわざは小さくても、神のみ手が働いて、なやみの多い世の人を明るく清くするでしょう」という歌詞であります。二番も「『おはよう』とのあいさつも、心をこめて交わすなら、その一日お互いに、喜ばしく過ごすでしょう」と歌い、「愛のわざはちいさくても」と繰り返し歌うわけです。少し少女趣味かもしれませんが、信仰生活というものを大変素朴につつましく表現している賛美歌ではないかと思います。

 イエスもあの弱い弟子たちのことを思い、この弟子たちがやがて迫害に会うかもしれないことをおそれて、弟子たちを励ます意味をこめてこういっているのであります。「わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」、神の祝福を受けるといわれたのであります。

 旅人にコップ一杯の水をあげる、それだけでなく、らくだにも水をのませてあげる、その小さな親切を神も喜ばれ、それがやがて選民イスラエルの歴史のなかで大きな働きをするイサクの嫁選びの基準になったのであります。
 
 アブラハムのしもべはこのリベカをつれて、アブラハムのもとに帰るのであります。彼らを迎えたのは、アブラハムではなく、直接イサクでした。もうこの時にはアブラハムは死んでいたのではないか、だからアブラハムが年が進んで老人となり、しもべを呼んで自分の息子イサクの嫁選びをさせたのは、アブラハムの遺言だったのだと考えられのであります。しかし創世記は実際にアブラハムが死んだ記事は二五章に記されております。二五章の七節をみますと、「アブラハムの生きながらえた年は百七十五年である。アブラハムは高齢に達し、老人となり、年が満ちて息絶え、死んでその民に加えられた。その子イサクとイシマエルは彼をヘテびとゾハルの子エフロンの畑にあるマクペラのほら穴に葬った」と、聖書は淡々とイスラエル民族の大父祖であるアブラハムの死について記しております。
 
 イサクの嫁になったリベカは後に選民イスラエルの歴史のなかで大変重要な役割を果たすことになります。それはこれから学ぶことになりますが、夫イサクに逆らって、長男のエサウではなく、次男のヤコブを熱愛し、夫をだましてヤコブに長子の特権を奪わせるのであります。旅人に水をやり、らくだにも水をあげるという心優しいリベカは、夫をだますほどに強力な妻になっていくのであります。これも神の摂理のなせることなのか。このイサクの妻としてリベカが選ばれた背後に「主はみ使いをあなたの前につかわせるであろう」と記されておりますから、この嫁選びには神の導きがあり、そしてそれはやはり神の摂理、神の導きというものが、人間の常識を越えて働くものであることもこれから創世記はわれわれに告げようとしているのであります。