「祝福はただ一つ」 創世記二七章一ー

 

しばらく中断しておりました創世記の説教に帰りますが、今日はイサクの次男ヤコブが父をだまして、長男のエサウの長子の祝福を奪いとってしまうという記事であります。これはすでにイサクについての説教のところで少しふれていたと思いますが、少し時間が経っておりますので繰り返しになるかとも思いますが、かいつまんで今日の記事についてまずお話しします。

 イサクは年老いて目がかすみ、長子エサウを呼んで、「もうわたしは年老いていつ死ぬかわからない、それで死ぬ前に鹿の肉をどうしても食べて死にたい。それでわたしのために猟に出て、鹿を射止めて、わたしに鹿の肉のご馳走をしてくれ、そうしたらお前に長子の祝福しよう」というのであります。死ぬ前にイサクが望んだことが鹿の肉が食べたいということで、なんとも意地汚い老人のような気がするのであります。しかしある注解書によれば、これは最後に長子の祝福をするためには、体力が必要なので鹿の肉を食べたいということなのだと説明する人もおりますが、しかし後にヤコブがやはり死ぬ前に孫たちを祝福する記事が出てまいりますが、その時はもうヤコブは大変体力が衰えていて、子どものヨセフがその手を支えてあげてようやく祝福できたという場面が出てまいりますので、体力がないと祝福ができないという説明はおかしいので、ここはやかりイサクという人間性がでているところだと思います。イサクはなんとも人間臭い人物なのであります。

 イサクの妻リベカは自分の夫が長男エサウを呼んで、長子としての祝福をしようとしていることを聞いていたのであります。リベカは長男エサウよりも次男のヤコブを愛していた、ただ愛していたというよりは偏愛していた、それでなんとかして、ヤコブに長子としての祝福を受けさせようとしたのであります。そしてとんでもないことを計画します。ヤコブを呼んで、「お父さんがエサウに鹿の肉をとってこさせてそれを食べてエサウを長子として祝福しようとしている。わたしはお前になんとしてでも長子の祝福をうけさせたいのだ。ついて今からいうことを実行しなさい。鹿を射止めるには時間がかかるし、大変だから、家畜として飼っているすぐ手近にいる山羊の肉をわたしが調理してあげるから、それをもって父親のところにいって、これは鹿の肉だとだましてしまいなさい。どうせもうお父さんはもうろくしているから、鹿の肉だか山羊の肉だかの区別などつくはずはないのだから」というのです。

 ヤコブはさすがにためらいます。「兄エサウは毛深い人間でわたしはなめらかな肌をしているから、父がわたしのからだにさわったら、すぐわかってしまいます。そうしたらわたしは祝福を受けるどころか呪いをうけることになるでしょう」といいます。するとリベカは「お前が受ける呪いはわたしが受けます」といって、ヤコブにエサウの晴れ着を着させ、ヤコブの手と首のとろに山羊の皮をつけさせて、イサクがさわってもヤコブだとわかってしまわないように工作するのであります。もうこの時はイサクは目が見えなくなっているからであります。

 そうしてまんまんとヤコブは父親をだまして、長男エサウの長子としての祝福を奪ってしまうのであります。イサクは「どうしてこんなに早く鹿の肉を手にいれられたのか。どうも声はヤコブのようだが、しかし肌は確かにエサウの毛深い肌だ」といって、イサクはだまされたと知らないで、ヤコブを長子として祝福してしまうのであります。

 そうしているところに、兄のエサウがおいしい鹿の肉を調理してもってきます。その時ようやくイサクは自分がだまされたことを知ります。「わたしがエサウです」というエサウの声を聞いて、イサクは激しくからだをふるわせていうのです。「それではあの鹿の肉をとって、わたしに持ってきた者はだれか。わたしはお前が来る前に、鹿の肉をみんな食べて彼を長子として祝福してしまった」。それを聞いてエサウは「わたしをも祝福してください」と大声をあげて激しく父イサクにつめよりますと、父イサクは「お前の弟が偽ってやってきて、おまえの祝福を奪ってしまった」と答えます。するとエサウは「よくもヤコブとなづけたものだ。彼は二度までもわたしをおしのけた。先にはわたしの長子の特権を奪い、今度はわたしの祝福を奪った」と悔しがります。

 これは二五章のところで学んだところですが、エサウが猟に出ておなかをすかして帰ってきたときに、ヤコブは豆をおいしそうに煮ていた。おなかの空いたエサウは「わたしは飢えて死にそうだ。その赤いものをわたしに食べさせてくれ」というのです。するとヤコブは「あなたの長子の特権をわたしに譲ってくれたら、これをたべさせましょう」と、人の弱みにつけ込んでとんでもないことを言うのです。しかしおなかが空いているエサウは「わたしは死にそうだ、長子の特権などなんになろう」と、あっさりと一腕の豆と引き替えに、大事な長子の特権、つまり遺産相続としての長子の特権を譲ってしまったという出来事であります。聖書はその時のエサウに対して、「このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた」と記しております。ヤコブというへブル語は、「押しのける」という言葉と少し発音が似ているので、エサウはそれにひっかけて「よくもヤコブとなづけたものだ」といったのだということであります。エサウはここでついに自分の長子の特権を奪われただけでなく、長子の祝福までヤコブに奪われてしまったのであります。長子の特権というのは、遺産相続の財産という、ある意味では この世的なもの、物質的なものですが、長子の祝福は神からの祝福を意味しておりますから、こちらの方が重要な意味を持っているのであります。

 それでエサウは父親イサクに必死に訴え「あなはわたしのために祝福を残しておかれませんでしたか。父よ、あなたの祝福はただ一つだけですか。父よ、わたしを、わたしをも祝福してください」と訴えて声をあげて泣いた。それに対して父イサクはエサウを祝福しますが、もうそれは長子としての祝福ではなく、むしろ彼の不幸を暗示するような予言でしかないのであります。「あなたのすみかは地の肥えた所から離れ、また上なる天の露から離れるであろう。あなたはつるぎをもって世を渡り、あなたは弟に仕えるであろう。しかし、あなたが勇み立つ時、首からそのくびきを振り落とすだろう」というものであります。最後の言葉がよくわからないところですが、新共同訳では「いつの日にかお前は反抗を企て、自分の首からくびきを振り落とす」となっております。「くびき」というのは、彼のくびきで、つまりヤコブのくびき、イスラエルのくびきで、イスラエルから独立するという意味のようであります。

 聖書は、このヤコブが後にイスラエルと名前を変えられて、このヤコブの子孫から選民イスラエル民族、ユダヤ民族が形成されていくことを語るのであります。そして驚くべきことに、その物語を語り継いで言って、そうしてこのような形に文書として残していったのが、そのイスラエル民族なのであります。これは自分たちの民族の根本的な土台にこんな卑劣な手段で長子の特権と長子の祝福をだしまとったヤコブが存在していることを決して隠そうとしていないのであります。これは考えてみれば、驚くべきことではないでしょうか。自分たちの民族の歴史の出発がこんな卑劣な手段で勝ち取ったものであるということを語りついできているのであります。

 もちろんこれから続く創世記のヤコブ物語は、このままなんの苦労もなく、ヤコブは神からの祝福を受けて幸せいっぱいの人生を歩んでいくのだとは記しておりません。彼は自分の犯した罪のためにそれをいわば自分で刈り取るようにして、苦難に満ちた歩みをしていくのであります。まず第一にエサウから憎まれ、エサウは「父が死んだら、ヤコブを殺す」と口ばしったというのです。それを聞いた母リベカはヤコブを自分の里に逃亡させるのであります。ヤコブは自分の犯した罪のために自分の故郷を去らなければならないのであります。

 彼を待っていたのは、決して単なる祝福ではなく、労苦であります。しかしそれでもこのヤコブの長子としての祝福は取り消されないのであります。ここで考えておかなくてはならない大事なことは、ヤコブが長子としての祝福を受けるということは、もう彼が生まれる前から神によって定まっていたことなのであります。ヤコブが長子としての祝福を神から受けるのは、母親リベカのそそのかしと、それに従うヤコブの邪悪によって奪い取られたのではない、実は神がエサウとヤコブという双子が生まれ前に、二人が母のリベカの胎内にいる時にすでに、「兄は弟に仕えるであろう」ということが定められていて、そのことを母親リベカも神から告げられていたのだと聖書は記しているのであります。これは初めからの神の選びのご計画だったのであります。

 問題はこのリベカとヤコブの邪悪な行為によっても、ヤコブの長子としての祝福という神の選びのご計画は取り消されなかったということであります。この事をしっかりと考えておかなくてはならないのであります。つまり、神の選び、それは神の救いといってもいいと思いますが、神の選びは人間の欲望によって勝ち取られるものではなく、それはあくまで神の選びであって、神がお決めになることであるということなのです。そしてそれはたとえ、神が決められた選びが人間の邪悪な罪によって曲げられたり、汚されたりされようが、それは決して取り消されないということなのであります。

この事をパウロは明確な言葉で語るのであります。ローマ人の手紙の九章からは、選民イスラエル民族、ユダヤ民族が今キリスト教会を迫害し、イエス・キリストを信じようとしない、受け入れようとしない、それならばそのイスラエル民族は神に捨てられるのか、という問題を論じているところであります。それに対してパウロは、神がひとたび選んだイスラエルを決して見捨てないということを論じているところであります。「福音について言えば、彼らはあなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。神の賜物と召しとは変えられることはない」というのであります。神はひとたび選んだものを、その選ばれた者が邪悪な罪によって転落していこうが、決して見捨てることはしないというのであります。それが神の愛だというのです、それが神の選びだというのです。あの放蕩息子の父親は、子供が自分の遺産相続の取り分を先取りして、父親のもとを離れ、さんざん放蕩して帰ってきても、その息子を見捨てることをせず、帰ってきた息子を黙って父親のほうから走り寄って受け入れた、それが父なる神の愛だとイエスは語るのであり ます。

 われわれが神のもとに帰ることができるのは、この神の愛があるからなのではないでしょうか。われわれも洗礼を受けたからといって、信仰ひとすじにというわけにはいかないのです。それこそ紆余曲折がある。ある時には信仰を捨てることもあるかもしれない。教会を遠ざかる時もあるかもしれない。その時にわれわれをもう一度教会に帰らせ、信仰に帰らせるのはこの神の愛があるからではないかと思います。それは選びの愛であります。つまりわれわれが救われたのは、自分が信仰をもったからとか、自分が悔い改めたからとか、自分がなにかよい行いをしたからとか、そういうことではなく、まず神が先手をうってわたしを選んでくださっていた、そういう信仰にわれわれが立てる時に、われわれはどんなに神から離れてもこの神のもとに立ち戻れるのであります。

 母リベカはなぜこんなにまでして、次男のヤコブを偏愛し、夫であるイサクを卑劣な手段でだましてまで、ヤコブに長子としての祝福を受けさせたかったのでしょうか。それはリベカの単なる母親としての人間的な思いから出た偏愛であったのだろうか。そうではないのではないかと思うのです。リベカはエサウとヤコブがまだ生まれない時に、母の胎内にいるときに、彼らは双子でしたので、母の胎内で争っていた。それでリベカはこんな事では将来どうなるか心配して、神に尋ねて、祈ったのです。そうしたら、神から「二つの国民があなたの胎内にあり、二つの民があなたの腹から別れて出る。一つの民は他の民よりも強く、兄は弟に仕えるであろう」と、告げられているのであります。リベカが弟のヤコブを偏愛し、そしてこんな卑劣なことまでして、ヤコブに長子としての祝福を受けさせようとしたのは、ここにその原因があつたのではないか。神はヤコブを選んでいるのであります。その選びをリベカは人間的な思いで、補強しようとした。本当はそんなことをしなくても、ヤコブは長子として祝福を受ける道が進んでいくはずなのに、母親リベカは人間的な思いで、この神の選びを補強しようと した。神の選びは本当はそんな人間的な補強を必要としないのにであります。そこにリベカの過ちがあったのではないか。

 それはまさにイスラエル民族の過ちでもあります。イスラエル民族の歴史は、旧約聖書をみれば、そうしてあえて言えば、今日のイスラエルという国の現状をみても、この選民性のおごり高ぶりが苦難の歴史を生み出しているともいえるのではないか。自分たちは神に特別に選ばれている、そのことを本当に深く受け止めて、だからこそ神の前に謙遜になり、すべての世界の祝福の基となって、すべての民族に仕える民として、祭司の国として道を歩まなくてはならないのに、逆にこの選民意識のために、イスラエル民族はおごり高ぶり、他の民族を軽蔑し、そしてついに神に裁かれて国を失い、アッシリヤに滅ぼされ、バビロンに滅ぼされていく、それが選民イスラエルの歴史なのであります。そしてそのイスラエルの傲慢の罪を救うために神が派遣した神の子イエス・キリストまで、ついに十字架で抹殺してしまうのであります。それはまさにイスラエルの選民性のおごり高ぶりの故であります。

 母親リベカにはそういう思いがあったのではないか。神の選びを人間的な小細工で補強しようとした。選ばれたのだからそれくらいの事はしてもいいと思っておごり高ぶった。ヤコブはその後、故郷を追われ、さんざん苦労いたします。そうして最後にはゆくところがなくなって、ついに自分を憎み、自分を殺そうとして待ちかまえているエサウがいる自分の故郷に帰らざるをえなくなるのであります。その旅の途中で、ヤボクの渡し場というところで、深夜ヤコブは神の使いのものと相撲をとるのであります。そしてその相撲に勝つのであります。しかしヤコブはその神との相撲に勝ちながら、泣いて自分を祝福してくださいと訴えたというのであります。勝ちながら、まるで負けたようにして泣き、この自分を祝福してくださいと神に懇願したというのです。それで神は「もうお前はヤコブと呼ばないで、イスラエル、神が支配したもう、という意味だとされていますが、これからはイスラエルと名前を変えなさい」と言われて、そのもものつがいをはずされて、神から祝福を受けたというのであります。ここからイスラエル民族が生まれていくのであります。

 エサウは「あなたはわたしのために祝福を残しておかれませんでしたか。祝福はただ一つだけですか」とイサクに訴えたというのです。「祝福はただ一つ」なのであります。ひとたび神の前でヤコブを長子として祝福してしまった限り、それはもう取り消すことはできなかったのであります。ひとたびなされた神の選びの決定はたとえ人間的な邪悪によって曲げられ、汚されたとしても、われわれがどんなに罪を犯そうが、それは取り消されことないというのであります。神の選びと召しは変えられないのであります。この事は確かにわれわれを甘えさせることかもしれませんが、しかしこのことだけがわれわれを悔い改め、神のもとに立ち返らせるものなのではないでしょうか。