「天からのはしご」  創世記二八章一○ー二二節

 ヤコブは母リベカにそそのかされたとは言え、父イサクをだまし、兄エサウが受けるべき長子の祝福を奪い取ってしまったのであります。そのためにエサウから恨みを買います。「父の喪の日も遠くはないであろう。その時に、ヤコブを殺そう」とエサウは口ばしっていたというのです。それを聞いた母リベカはヤコブを自分の兄ラバンがいるところにヤコブを一時ほとぼりがさめるまで避難させるのであります。ヤコブはそのようにして、自分の故郷を去らなくてはならなかったのであります。
 
 ヤコブはベエルシバを立って、ハランに向かった。日が暮れたのでそこで一夜を過ごそうと、そばにあった石をとり、それを枕にして寝たのであります。彼は夢を見た。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使いたちがそれを上り下りしているのを見たのです。ここは「はしご」と訳されておりますが、新共同訳聖書では、「先端が天に達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」と訳されていて、「はしご」とは訳されておりません。これは旧約聖書では、ここだけにしかない文字だそうで、なんと訳していいか苦心するところのようであります。よく古代の神殿の建築などにありますように、長い傾斜の階段なのだという説があります。新共同訳聖書はそれをとってそう訳しているようであります。口語訳聖書は、これが近隣の言葉で使われている「木製のはしご」を現す字と似ているので、「はしご」と訳されたようであります。どちらにせよ、大事なことは、そこを「神の御使いたちが上がり下りしている」というイメージであります。「上がり下り」しているというイメージからすると、はしごというイメージのほう がふさわしいように思えます。

 その後、聖書は「そして主は彼のそばに立って言われた」と続きます。奇妙なことにそのはしごを上り下りしている御使いたちがヤコブに語りかけるのではなく、主なる神が直接、といっても夢の中でですけれど、主がヤコブに語るのであります。そうしますと、あの「はしご」は何の意味があるのだろうという気がいたします。それは御使いたちが天と地を自由に行き来している、つまり天は閉じられていない、開かれている、つまり神はヤコブを見放したりしていないということを示すためのイメージとして、与えられた光景のようであります。それは主がヤコブに語りかける内容に関わってくるのであります。

 「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫に与えよう。あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南に広がり、地の諸族はあなたと子孫によって祝福を受けるであろう。わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう。」と告げるのであります。この言葉はあのヨシュアに言われた主の言葉と同じであります。イスラエルの民をエジプトから脱出させたモーセが死んで、ヨシュアがあのかたくななイスラエルの民を約束の地カナンにまで導かなくてはならないという使命を与えられて、大変不安な状態にいたに違いない、まだ若いヨシュアを励ます主の言葉であります。そのヨシュアに主なる神は現れて「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」と、言って励ますのであります。
 
 ただヨシュアとは違って、ここでは驚くべきことに、卑劣な手段で父イサクと兄エサウをだまし、長子の祝福を奪いとり、その結果いわば自業自得のようにして、故郷を追われていく、そのヤコブに主なる神がその同じ言葉を持って語りかけておられるということであります。「わたしは決してお前を見捨てない」と語りかけるのであります。
 この時ヤコブはたったひとりで野原に石を枕にして寝ていたのであります。孤独であります。その孤独は、ただひとりぽっちだという意味での孤独というだけでなく、今自分が故郷を追われ、一人旅をして、まだ見知らぬ地、叔父ラバンのところに行かなくてはならない、しかもそれもこれもみな自分が犯した罪の結果なのであります。この厳しい状況はみな自分が蒔いた種を自分が刈り取っているのであります。誰にも文句は言えない、みな自分が悪いのです。この時にわれわれは一番孤独を感じるのではないでしょうか。自分の不幸な状況を誰にも不平をいうことができない、みな自分の犯した罪の結果なのだということがよくわかっている、その時に一番われわれは孤独を感じるのではないか。 

 そのときに、神のほうから、ヤコブに現れ、ヤコブに「わたしは決してお前を見捨てない」と言うのであります。もう自分は神からも、人からも家族からも見捨てられたと思っている時に、神からそのように語りかけられるのであります。この時に、ヤコブは自分の犯した罪の結果を自分が引き受けなくてはならないことは覚悟はしていたでしょうけれど、まだ神の前に悔い改めたわけではないのです。まだ悔い改めてはいない、それなのに神が先手をうってヤコブに「わたしは決してお前を見捨てない」というのです。

 ヤコブは眠りから醒めた時に、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった。これはなんという恐るべき所だ。これは神の家だ。これ天の門だ」といったというのです。「主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」とヤコブは言っておりますが、これは単に「神がここにおられるのにわたしは知らなかった」という意味だけでなく、主なる神というかたがこういう神であるとは思いもしなかったということなのではないかと思います。われわれは神が現れてくださる時というのは、われわれが自分の罪に泣き、自分の罪を悔い、そうしてなんとかして自分の罪を清めようとした時に、神が現れてくださるのだと思っているのではないかと思います。罪を犯して、その罪の結果、人の恨みを買い、人から殺されそうになって逃亡している人間に、神のほうから現れてくださるなどとは思ってもみないのではないかと思います。

 イエスは「心の清い者はさいわいである、彼らは神を見るであろう」と言われたと聖書に書かれております。われわれは神というものをいつもそのように考えていないか。自分の心を清くしたら、神を見ることができるんだと思っているのではないか。しかしそこで訳されている「心の清い」というのは、本当はわれわれがイメージするような意味での心の清いという意味ではなくて、ただひとすじに神に心を向けるという意味、ふたごころを持たないという意味での「こころの純粋性という」という意味での「心の清い」という意味なのですが、われわれはその言葉を何か修道院にでも入って自分の心をきれいにしたら、神を見れるのだと考えがちですが、福音書はそんなことを決して語ってはいないのです。十字架で死に、復活したイエス・キリストはそのような神だったでしょうか。イエスは十字架にかかる前に、弟子達の足を洗って、自分の十字架につく意味を弟子達に示そうとされたのであります。ペテロが「わたしの足など洗わないでください」といいますと、イエスは「もしわたしがお前の足を洗わなければ、わたしとお前とはなんの関わりもなくなる」と言われたのであります。

 われわれが自分の心とか魂を浄化して、そうして神を見るのだと思っている、神を見れるんだと思っている、そういう神というのは、少なくもイエス・キリストを通して示された神ではない、それは結局はわれわれが自分が勝手にイメージした神、自分が作りあげた神でしかないのではないか。 われわれはそういう意味では、いつでも神を誤解している、そして、本当の神の声を聞いた時に、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」と告白することになるのではないかと思います。

 われわれはいろんな書物や、人の講演会や、そういものを通して、感動する時があります。そのときに多くの場合は、ああ、この人は自分が日頃考えていることと同じことを言っている、自分の考えは間違っていなかったと思って感動する場合が多いのではないかと思います。それは確かにうれしいことだし、また安心することかもしれませんが、しかしそういう感動というのは、実はただ自分は正しかったと自分に感動しているだけで、本当に人の話に感動したことにはならないのではないかと思います。本当の感動は、本当に心揺さぶられるような感動というものは、自分が思っても見なかったことを聞くということではないかと思います。それが本当の意味での「聞く」ということではないかと思います。

 ヤコブは今そういう意味での神にお会いし、神の言葉を聞いたのであります。「まことに主がここにおられるのに、わたしは知らなかった」。神の声をきくということは、いつでも「わたしは知らなかった」という思いがなくてはならないと思います。自分が思っている通りの神の言葉だったというのでは、それは自分が作りあげた神でしかないかもしれないと思います。

 われわれは聖書を読む時に、自分が気にいったところに赤線をひくことがありますが、しかしそういうことばかりしていると、聖書をいつも自分が気にいったところしか読まなくなることにならないか。ある人が言っておりましたが、そのように聖書に赤線を引く場合には、毎年新しい聖書を買って、毎年年の始めに、まっさらな聖書を読み始めることが大切だといっておりますが、この事は大切だと思います。赤線をひくことが悪いというのではないのです、それはそれで大切なことだと思います。しかしいつでもそれをまたまっさらにしておかなくてはならないと思います。

それならば、神の言葉は、神の声はわれわれが普段神様のことを全く考えもしないときに、突然天から降ってわいたように聞こえてくるのかといわれれば、やはりそうではないのではないかと思います。そういうことももちろんあるとは思いますが、実際はそうではないと思います。神の声を聞く、神の言葉を聞くということは、こちら側で、意識していないかもしれませんが、自覚的ではないかもしれませんが、やはりこちら側では、必死に神の声を聞きたい、神にお会いしたいとい思いがないと、神の言葉は聞こえてこないのではないかと思います。

 ヤコブは今そのようなところに追い込まれていたのではないかと思います。それがイエスがいう「心の清い者は神を見る」という意味であります。「ひたすらに、ふたごころを持たないで神をひたすらに求める者は神を見る」という意味であります。

 預言者エリヤは、アハブ王に迫害されて追いつめられて、神の言葉を聞きたいと必死になっていたのであります。必ず神が自分を励ましてくれると期待していたのであります。預言者エリヤは神から「山にゆけ、そこで主の前に立て」といわれて、山に行って神を待ちます。激しい風が吹いてきて、きっとこの激しい風の中から神の声が圧倒的な声で聞こえてくるのかと期待していたら、神の声は聞こえてこなかった。その後、地震があった。そこにも主はおられなかった。その後火が燃えた。その中にも主はおられなかった。そうしてその後に静かな細い声で神の声が聞こえてきたというのです。それは預言者エリヤが予想していた神の声とは全く違っていたのであります。その神の語りかける内容もエリヤが期待していたものとは違っておりました。それはまさにヤコブが「まこに主がここにおられるのに、わたしは知らなかった」という経験と似ているのであります。預言者エリヤは本当の主なる神の声を聞いたのであります。それはエリヤの思ってもいない神の声でした。しかしその神の声をエリヤが聞くことができたのは、そこに至るまでにやはりエリヤが必死に神の声を聞きたいという思いがあっ たからだと思います。

 パウロもそうだったのではないかと思います。彼もクリスチャンを迫害して、息をはずませてダマスコの道を歩いているときに、突然イエスの声がして「サウロ、サウロ、これはパウロのことですが、サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という言葉を聞くのであります。それでパウロが「あなたはどなたですか」といいますと、「わたしはお前が迫害しているイエスである」と聞かされるのであります。これもパウロにとっては全く思いがけないことだったと思います。思ってもいない主イエスとの出会いだったのです。イエスを迫害している時に、その当のイエスがパウロに呼びかけて、パウロを伝道者にするのであります。これもヤコブの経験と似ているところがあります。そしてパウロもまたクリスチャンを懸命に迫害しておりましたが、それだけまたイエスを必死に追い求めていたとも言えるのではないかと思います。すくなくも彼はイエスに関心があった。ユダヤ教徒として熱心に律法を守りながら、しかしこんなことで人間は救われるのかと必死に神の義、神の救いを追い求めていたはずであります。

 われわれがただぼんやりと生きていたり、無関心の状態の時には、決して神はご自身をあらわしてはくださらないのではないかと思います。われわれのほうでも必死に神を追い求める、その時に自分が期待していた神とは全く違う神がご自身を現してくださるのではないかと思います。ヤコブには、エサウとは違って、長子の特権と長子の祝福を必死に追い求めるところがあった。その動機には大変世俗的な思いがあったかもしれませんが、しかし単に長子の特権だけでなく、長子の祝福までなんとしてでも得たいと思ったのは、なんとしてでも神からの祝福をうけたいという必死の思いがあったのではないかと思います。それは自己中心的な、まこに利己的な、世俗的な求道心かもしれませんが、しかしその奥の奥に神からの祝福を求めてやまないという思いがあったのではないかと思います。そういう思いがないと、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」という体験はできなかったと思います。

 神はわれわれの願い通りに現れたり、期待通りの神としては現れないのであります。本当の神が本当の神として現れる時には、いつでもわれわれの期待とか、観念とか、われわれの御利益的信仰をうちくだくことを通して現れるのでります。それでもわれわれは、たとえ純粋な信仰心、求道心でなくてもいい、きわめて御利益的な信仰でもいいと思うのです、ともかく自分を越えた、人間的なものを越えた神からの祝福をいただきたいという思いをもつことが大切だと思います。ヤコブにはそれがあったのであります。
そのような神にお会いして、ヤコブは驚き、また喜びました。ヤコブは誓いを立てたというのです。「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神としたいしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家としたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一をわたしは必ずあなたにささげます。」

 読むとすぐわかりますように、この誓いもまことに御利益的で、虫のいい話であります。なぜなら「もしなになにしてくださるなら」という条件つきの誓いだからであります。神のほうではいっさい条件をつけないで、「もしお前が悔い改めたら、わたしはお前を守る」とか、そういう条件をいっさいつけないで、「わたしはお前を決して捨てない」と約束しているのに、ヤコブは「こうこうこならば、」という条件をつけているのであります。われわれ人間はどこまでいっても、御利益的信仰を脱することはできないのです。この御利益的信仰を打ち砕いてくださるのはただ神だけなのであります。

 復活の主イエスが弟子達に対して最後に言われた言葉は「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という言葉でした。そういわれて、主イエスは天に昇られていったのであります。これは主イエスが誕生した時に、「インマヌエル」「神われらと共にいます」と呼ばれるであろうと言われたとマタイ福音書は記しておりますが、その最後の言葉もまた「いつもあなたがたと共にいる」という約束なのであります。十字架を前にしてみなイエスを見捨てた弟子達に復活の主イエスはそう言われたのであります。罪を犯して自分の故郷を追われたヤコブ、まだ悔い改めてもいないヤコブに「わたしはお前と共にいる、お前を決して見捨てない」と主は言われたのであります。