「ヤコブの労苦」 創世記二九章

 ヤコブは自分の犯した罪のために自分の故郷を去ることになります。父イサクと兄エサウを卑劣な手段で騙して長子の祝福をエサウから奪い、そのために兄エサウの恨みを買い、殺されそうになって、母リベカの勧めで、母の兄ラバンのいるところに逃げていくのであります。その旅の途中で、全くひとりぽっちのヤコブに夢の中で主なる神が現れて、神から「わたしはお前がどこに行くにも見捨てない」と励まされるのであります。

 ヤコブは叔父ラバンのところに行きますが、そこで大変苦労いたします。このヤコブの労苦は結局は自分の犯した罪ののために、自分の蒔いた物を自分が刈り取るということであります。さきほど読みましたガラテヤ人への手紙には、パウロが「まちがってはいけない。神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」と書いておりますが、まさにヤコブの労苦は自分の蒔いたものを刈り取ることになるのであります。

 労苦というのはいろいろな労苦があると思いますが、われわれの労苦の大部分は自分の蒔いた物を自分で刈り取らなくてはならないという労苦ではないかと思います。そしてまた、他人の犯した罪の被害を被っての労苦、あるいは他人の犯した罪の後始末をするための労苦であるかもしれません。他人から負わせられる労苦であります。そういう意味では、われわれの労苦というのは、自分の罪であれ、他人の罪であれ、何らかの意味ですべてそれは人間の罪と深く関わっていると言えるのではないかと思います。
 
 さて、ヤコブは故郷を離れて叔父のいるラバンのところにまいります。野にひとつの井戸があって、そこで休んでおりますと、羊飼いたちが羊に水を飲ませに集まってくるのを見るのであります。それでヤコブはあなたたちはどこからきたのかと聞きますと、ハランから来たという答えが帰ってまいります。ハランはこれから自分がいくラバンのいるところだったので、いろいろと話を聞いていると、ラバンは元気で、ちょうどそのうちにラバンの娘ラケルが羊に水を飲ませに来るというのです。細かい経過は省きますが、ヤコブはそのラケルのためにひとりで井戸の水をふさいでいる大きな石を転がして彼女の羊に水を飲ませてあげます。そしてラケルに自分のことを告げて、彼女に口付けして声をあげて泣いたというのです。ラケルは驚いて、帰ってから父ラバンにこのことを告げますと、ラバンもびっくりしてヤコブを迎えに出てくれます。そうしてヤコブは自分がなぜここに旅をしなくてはならなかったかをすべて話すのであります。すべてを話したというのですから、当然、自分が父イサクと兄エサウをだまして長子の特権と長子の祝福を奪い取ってしまい、そのために兄エサウの恨みを買い、こう して逃げて来たことを話したはずであります。そうでなければ、ヤコブがなぜわざわざここまで来たかの理由はわからないし、ラバンはヤコブを受け入れるはずはないからであります。

 このラバン一家との出会い、そして後にヤコブの妻になるラケルとの出会いが井戸の水をめぐってであるというのは面白いところであります。イサクの嫁選びの話も井戸の水での出来事でした。イサクのしもべがその井戸の傍らにいる時に、水を汲みにきた女に、水をくださいと求め、その娘が自分だけにでなく、らくだにも飲ませましょうと親切に言ってくれる人を自分の主人イサクの嫁にしようと決めて、そうしてリベカがイサクの嫁として選ばれたという話をすでに学んだところであります。この井戸をめぐる話はモーセが自分の妻を選んだ時もそうでした。モーセは自分の犯した過ちのためにエジプトの王から逃れてミデヤンの地についたときに、ミデヤンの祭司の娘たちが水を汲みにきて、羊飼いたちの嫌がらせにあった時に、モーセが娘たちを助けてあげたことがきっかけで、彼はそのミデヤンの祭司の世話になり、そうしてその井戸でのかたわらで助けてあげた娘と彼は結婚することになるという話が出てまいります。

 井戸の水というのはいわば人間の命の水であります。その命の水をめぐって、助けられたり、助けたりすることが、嫁取りのきっかけになるというのは面白いことであります。誰を自分の伴侶として選ぶかということは、井戸の水、特に砂漠地帯では、井戸の水は命の水であります、その命の水をめぐってどれだけ親切にふるまうか、あるいはふるまわれるかによって決められるかということであります。結婚の相手に誰を選ぶかということは、やはり命に関わる大事なことであるということであります。いかげんなことで選ぶわけにはいかないということであります。

 さて、ヤコブが叔父ラバンのところで一ヶ月滞在した時であります。叔父のラバンから「あなたはわたしの甥だからといって、ただでわたしのために働くこともないでしょう。どんな報酬を望みますか」と言われます。するとヤコブは「あなたの娘ラケルを自分の妻としていただきたい。そのために七年間あなたに仕えます」というのであります。ラバンには娘がふたりおりました。姉さんのレアは目が弱かったために、あまり美しくなかったようです。ラケルは美しく愛らしかったというのです。それでヤコブはラケルに恋いしたのです。ラバンはそれを承知した。聖書はこう書いております。「こうして、ヤコブは七年の間ラケルのために働いたが、彼女を愛したので、ただ数日のように思われた」と記しております。

 そしていよいよヤコブはラケルを自分の妻にする時が来たのであります。結婚披露宴が盛大にもようされた。ヤコブはしたたかにお酒を飲んだようであります、いや自分から飲んだというよりは、ラバンから飲まされたようであります。その夜ラケルと一夜を過ごしたと思ったヤコブは朝になって、自分の傍らにいるのが自分の恋するラケルではなく、姉のレアのほうだったことに気がつくのであります。ヤコブはラバンに言った、「あなたはどうしてこんな事をされたのですか。わたしはラケルのために働いたのではありませんか。どうしてあなたはわたしを欺いたのですか。」するとラバンがこう答えたというのです。「妹を姉より先にとつがせる事はわれわれの国ではしません。まずこの娘のために一週間過ごしなさい。そうすればあの娘もあなたにあげましょう。あなたはそのために更に七年わたしに仕えなくてはならない。」

 この国に妹を姉よりも先にとつがせてはならないという風習があったのかどうかわかりません。それならば、ヤコブが妹のラケルを妻に欲しいと言った時に、そのように言えばよいはずであります。これは明らかにラバンの策略であります。レアはあまり容貌がきれいではなかったので、嫁のもらい手がないことをラバンは親として心配したのかもしれません。しかしそれにしてもこのラバンの言葉「妹を姉よりも先にとつがせる事はわれわれの国ではしない」という言葉は、ヤコブにとって痛烈な言葉だったのではないでしょうか。

 ラバンがどれだけヤコブの犯した罪、長子の特権と長子の祝福を卑劣な手段で奪い取った事を意識して、それをいさめようとしてこの事を言ったのかどうかはわかりませんが、しかしこの言葉はヤコブにとっては痛烈な皮肉に聞こえた事は確かだと思います。ヤコブは卑劣な手段で父と兄をだまして長子の特権と長子の祝福を奪い取ったのであります。そしてここにきて、その同じことを今度は自分が身にうけなくてはならないことになるのであります。叔父ラバンに騙されて、ラケルではなく、レアを自分の妻として受け入れなくてはならないのであります。「妹を姉よりも先に嫁がせるわけにはいかない」、姉と妹にはれっきとした順序があるというのです。次男のヤコブが長男の権利と祝福を奪い取るなどということは許されることではないというわけであります。ヤコブはそれを父と兄をだまして奪い取ったとラバンは皮肉るのであります。だからお前が今だまされても文句はいえまい、もしお前が妹のラケルを妻として欲しいならば、もう七年わたしのためにただ働きをしなさい、とラバンはヤコブにいうのであります。

 ヤコブは自分の犯した罪の因果を今こうして身に引き受けなくてはならないことになるのであります。ヤコブは自分が肉に蒔いたものを自分で刈り取るはめになるのであります。ヤコブの労苦は結局は自分の蒔いたものを自分が刈り取るはめになるという労苦であります。

 ラバンは「われわれの国では妹を姉より先にとつがせる事はしません」と言って、ヤコブに姉のレアを妻として無理に押しつけております。確かにそういう風習というか、掟があったのかもしれません。もしそうであるとするならば、聖書が語る神は逆になんと自由であるかをわれわれは知っております。なぜなら、ヤコブが弟でありながら、長子としてふるまうことになり、兄は弟に仕えるようになるということは、これはあらかじめ神がそのように定めたことだったからであります。聖書にはしばしば長男が退けられて、次男が、あるいは末っ子が選ばれていくということがよく出てくるのであります。イスラエルの王ダビデがそうでした。ダビデはエウッサイの一番の末っ子だったのであります。その末っ子であるダビデを神はイスラエルの王として選ぶのであります。次男のヤコブが選ばれているということは、ヤコブが自分勝手にそれを奪い取ったからそうなったのではなく、神がそのように定めていたことなのであります。ただヤコブはそれを人間的な思いで卑劣な手段で奪い取ろうとしたということが問題なのであります。ヤコブは神の約束を静かに待っていればよかったのであります。

 ヤコブは恋するラケルのために、もう七年ラバンのために働かなくてはならないことになります。もっともレアと結婚してから、更に七年働いてからラケルと結婚しなくはならないというのではなく、一週間後にはラケルもヤコブの妻となるようであります。しかしその後七年間ラバンに仕えなくてはならないということのようであります。この時にはもうヤコブはかつてのように策略をもちいて、ラケルを奪い取ってしまうわけにはいかなっかのであります。ただ黙々と働かなければならなかったのであります。

 聖書はヤコブが恋するラケルを得ようとして働いた七年間について、「ヤコブは七年の間ラケルのために働いたが、彼女を愛したので、ただ数日のように思われた」と、書いております。その後の、ラケルを妻にしてからの七年間については聖書はもう何も書いておりませんからどのような七年間であったかはわかりませんが、おそらく最初の七年間よりは、ラバンにだまされたという悔しさもあって、それほど楽しい七年間ではなかったのかもしれません。
少なくとも、最初の七年間は「ヤコブは彼女を愛していたので、数日のように思われた」という聖書の記述はおもしろと思います。さきほど、われわれの労苦というのは自分の

 犯した罪のための、自分が肉に蒔いたものを自分が刈り取る労苦ではないか、あるいは他人の罪によって背負わされる労苦ではないかと、話しましたが、われわれにはもうひとつの楽しい労苦があることをこの聖書の言葉はわれわれに告げているのであります。それは愛のための労苦であります。そしてそれは七年間の労苦をを数日の労苦にしてしまうような労苦であるというのであります。

 前に、「サラダ記念日」を書いた歌人の俵万智さんが新聞に「結婚する相手に誰を選ぶか。この人となら苦労しないですむと思える人を選ぶか、あるいは、この人とならどんな苦労もできるという人を選ぶか。わたしなら後者を選ぶ」という意味のことを書いておりました。しかし本当はどちらも同じことだと思うのです。つまり本当に好きなと人ならば、どんな苦労も苦労でなくなってしまう、つまり苦労しないですむようになるからであります。

 しかし恋いのための労苦ならば、七年間が数日のような労苦になるかもしれませんが、現実にはわれわれの労苦は、それがたとえ愛のための労苦であっても、労苦であることはに変わりなく、決して数日のように思われるよなものでもないことはわれわれが経験しているところであります。どんなに愛する人のためとはいえ、病人の介護という労苦は大変なものだと思います。本当に人を愛そうと思ったら、楽しいことばかりではなく、その人を愛するが故に労苦する、その労苦を避けて通ることはできないのであります。その人を愛するための労苦とは、いわばその人の罪を覆ってあげるための労苦であり、その罪を赦し、その罪を引き受け、その人をまるごと受け入れる労苦であります。その人の汚れた足を洗うという労苦であります。 パウロは、「われわれは神の相続人である」といった後、「キリストと栄光を共にするために、苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」というのであります。われわれが神の子であるということは、なにかおいしいとこだけ、神の相続人になるのではない、キリストがわれわれを救うために十字架の苦難を担ったように、われわれも苦難をすすんで喜んで担うことがなければ、キリストと共同の相続人にはなりないというのであります。

 そうして、パウロはその手紙のなかでしばしば「喜んで苦難を担おう」というのであります。われわれはやはり、パウロのように「喜んで」苦労を担うとはなかなか言えないし、そういう気持ちにはなれないかもしれませんが、少なくとも、逃げ回ってしまって、あるいは、いやだいやだといって、苦労を避ける道ばかり探すのではなく、よし、その苦難を、この苦労を引き受けていこうという覚悟はもっていきたいと思います。

 人を愛するということは、結局は罪人を愛するということであって、それはたとえ恋いの対象の相手でも、罪をもち、弱さをもち、欠点をもった人間を愛することには変わりはないのであります。そうであるならば、そこに労苦のない愛はないのであります。