「ヤコブの労苦 その二」 創世記二九章三一ー三○章八節

 ヤコブは叔父ラバンの娘、美しく愛らしい妹のラケルのほうを恋して、そのために七年ラバンに仕えて、自分の嫁としてもらおうとしましたが、叔父ラバンに騙されて、あまり容貌の美しくない姉さんのレアのほうを嫁に押しつけられてしまいます。「われわれの国では姉よりも先に妹を嫁がせる事はしない」という叔父の言葉で、ヤコブは反論もできずに、ラケルのためにもう七年間働くことになります。

 当時はまだ一夫一婦制は確立されていなかったようです。しかし、ヤコブはラケルのほうが好いていることは隠しようがなくて、姉のレアはヤコブに嫌われていることを察知して、悲しい目に遭っているわけです。それで主なる神は「レアが嫌われているのを見て、その胎を開かれたが、ラケルはみごもらなかった」というのです。レアは次つぎに子供を産んでいきますが、ラケルはみごもらないのです。レアはそのようにして、ルベンを産み、シメオンを産み、レビを産み、ユダを産むのであります。しかしヤコブはそれでもレアを好きにはなってはいないようであります。

 一方ラケルは自分が子供を産めないので、姉をねたんで夫のヤコブに言います。「わたしに子供をください。さもないと、わたしは死にます。」するとヤコブはラケルに向かって怒ってこう言った。「お前の胎に子供を宿らせないのは神です。わたしが神に代わることができますか」。

 そのようにして、妹のラケルと姉レアとの争いは続き、子供を産むことが夫ヤコブを自分に引き寄せることになるわけです。ラケルは自分の胎に子供ができないことを知ると、自分の仕えめビルハを自分の代わりとして夫ヤコブに与え、自分の子供とする。そうしてダンという子供が生まれます。そして次にナフタリを産ませる。ラケルは「わたしは激しい争いで、姉と争って勝った」と言ってナフタリと名付けた。ナフタリという言葉が「争う」という意味を持った言葉なのでそう名付けられます。そうして今度は負けてはいけないというので、姉のレアのほうは自分自身に子供がなかなか産めないことを知ると、ラケルと同様、つかえめジルバをヤコブに与え、子供を産ませ、ガドと名付け、さらにジルバはもう一人の子供を産み、アセルと名付けた。

 そのようにして、次から次と子供が生まれ、十二人の子供が生まれるのであります。最後に神はラケルを憐れみ、彼女の願いを聞き入れ、ラケルは身ごもり「神はわたしの恥をすすいでくださった」と言って、ヨセフと名付けたというのです。ヨセフとい名前は「加える」という意味をもっているようであります。これで姉と妹の争いは終止符をうつようであります。ラケルはもうひとりを産んで、ベニヤミンと名付けられます。
このレアとラケルの争いを通して生まれた子供の名前が創世記の三五章二二節に載っております。

 イスラエルという国は、十二部族の連合体であると言われております。それは聖書の記述によれば、みなこのヤコブから生まれた子供が土台になって、そこから派生していって十二の部族になっていくわけです。ですから、この十二人の子供はいわば選民イスラエルにとって重要な子供たちです。その重要な子供たちの誕生がまことに人間的な、あまりにも人間的な争い、滑稽と思われるような姉と妹の争いを通して、十二という数の子供が生まれていったというのです。ここに聖なる信仰的なことは何ひとつ記されていないということは、驚くべきことであります。つまりイスラエルの人は自分たちの国の成り立ちをこのような形で伝えていると言うことは、驚くべきことではいなかと思います。

 こういう創世記に記されているヤコブ物語とかヨセフ物語というのは、実際にあった歴史上の話ではありません。それは確かに全部が創作されたもの、つまり全部がフィクションではないかもしれませんが、それは代々祖先から伝えられて来た伝承で、その中核にはそういう出来事があった事はあるかもしれませんが、その中核にある出来事を土台にして、物語がつまりフィクションが作られていって、つまり創作されていって、後世の人々に伝えられていったわけです。このヤコブ物語も実際にこういう出来事があったのだというよりは、これを物語ることによって、われわれに何かを伝えようとしている、いわば神学的物語であります。これは物語ですから、このヤコブの十二人の子供の誕生の記事をもっと美しく、清らかな誕生として語り伝えようとしてもよかったはずであります。しかしイスラエルの人はそうしないで、代々このように語り伝えていって、ひとつもこの伝承を美しい物語に改竄しようとしなかったということは、イスラエルという民族のすごいところだと思います。このイスラエルという民族は自分たちの罪というものを決して隠そうとはしていないということなのです。決して美化 しようとしていない。

人間のわざというものは、まことに罪に満ちたものであります。人間的なものはそれを免れることはできないものであります。今日のキリスト教の発展、キリスト教がこのように世界中に広がっていったという歴史的背景もそれは福音を全世界に述べ伝えたいという純粋な動機からだけではなかったようであります。それももちろんあったことは事実ですが、宣教師たちはそのような純粋な動機から世界伝道に向かっていったのでしょうが、それに資金をだし、援助した人たち、またそれを受け入れた国も、自分たちの経済的利益を思ってキリスト教を宣べ伝え、受け入れたということは否定できないことであります。ザビエルの日本伝道にもそのような思惑があったことは歴史上の事実であります。

 それは今日の日本の教会もまた大きい教会は、まことに人間的な事情で分裂して、二つの教会になり、それがそれぞれまた大きくなっていったという経過をへている教会はたくさんあるのであります。何かが大きくなる、何かが発展するということは、その底にどこかに人間的な野心というエネルギーというものが潜んでいてそうなっていく、そういう宿命を逃れることはできないのではないかと思います。教会の発展もまたそのような人間の罪と深く結びついていくものであります。だからこそ、マルチン・ルターやカルビンが主張したように、教会は絶えず改革されるべき教会でなければならないのであります。われわれもまた改革派の教会、つまりプロテスタントの教会に属しているものですが、それは一度改革されたらもうそれでいいというものではなく、絶えず新しく改革されるべき教会でなければ、プロテスタント教会の意義はなくなってしまうのであります。

この後学びますが、ヨセフ物語にはこう事が語られています。それはヨセフがヤコブの恋するラケルの実子ということで、父ヤコブから特別にかわいがられたために、兄たちのねたみを買い、細かい経過は省きますが、エジプトに奴隷として売られてしまいます。しかしそこで大臣にまで昇格して、最後には飢饉で苦しんでいる自分たちの兄たちを救ってあげることになるという物語であります。そのとき兄たちが自分たちの犯した罪をヨセフに謝ると、ヨセフはこういうのです。「恐れることはいらない。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変わらせて、今日のように多くの民の命を救おうと計られました。それゆえに恐れることはいりません」というのであります。

 われわれ人間は野心があり、自分だけが幸福になりたいという自己中心的な思いに満ちているものですが、それを完全に無くして、何かをするということは到底不不可能であります。そこには密かに悪がひそんでいる。ある時にはあからさまに悪が潜められている。しかし神はそれを必要であれば、良きに変わらせてくださって、われわれ人間を救いに導くご計画に用いてくださるのであります。ヨセフはだから、「恐れることはいりません」と兄たちに言っておりますが、しかしある意味では、だからこそわれわれは「恐れる」必要がある、それはただ恐怖の「恐れる」という意味ではなく、畏れかしこむという意味での「懼れる」必要があるのではないかと思います。パウロは神様の救いのご計画のわざを賛美して、「ああ、深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」と言っているのであります。

 二九章の三一節をみますと、「主はレアが嫌われるのを見て、その胎を開かれたが、ラケルはみごもらなかった」と記されております。主なる神はかつては、兄のエサウを退けて、弟のヤコブをイスラエルの嫡子として選んでいるのであります。それならば、ここでヤコブが姉のレアではなく、妹のラケルのほうを自分の妻として選んだとしても、このことを祝福してラケルの胎を開かせてもよさそうなものであります。しかしここでは、神はレアを哀れに思って子供を産ませたというのであります。神は兄を退け、弟を選んでいる、それならば、ここで、姉を退け、妹を祝福なさってもよさそうであります。なぜ神はそうなさらないのか。神の選びをわれわれ人間が勝手に推し量ることはできないことであります。それは全く神の自由な主権に関わることであります。神は「自分の憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとするものを慈しむ」のであります。神の選びは神の主権と自由に関わることであります。

 ただここで考えておきたいことは、神はエサウとヤコブがまだ生まれる先に、もうすでにヤコブを選び、エサウを退けていたということであります。つまりヤコブと言う人間が容貌がよく、才能や性格も優れているから神はヤコブを選んだわけではないということであります。彼らがまだ善も悪も知らない先に、神の選びの計画がわざによらず、召したかたによって行われるために「兄は弟に仕えるであろう」と、決定されていたということであります。

 それに対してヤコブが姉のレアではなく、妹のラケルを選んだ理由は何か。それは姉のレアは目が弱く、あまり美しくなかったが、妹のラケルは美しく、愛らしかったからであります。その選択の基準は相手が自分にとって価値があるかないかで選んでいるのであります。それはまことに人間的な価値基準によってであります。それは結局は自分にとって都合がよいから、ラケルを選んでいるのであります。それは神の選びとは違うのであります。結局われわれ人間が何かを選ぶときには、自分にとって相手が価値があるかどうかによって選ぶという、まこに自分中心の選びでしかないのであります。ラケルは美しく、愛らしいから選んだ。それならば、ラケルがだんだん年をとっていったときに、ヤコブはラケルを嫌いださないと言えるだろうか。

 神の選び、神がどの人を愛するかをわれわれ人間が推し量ることはできないことであります。しかしただ一つのことはわかる、ただ一つのことについては聖書は明確にしている、それは「主はレアが嫌われるのを見て、その胎を開かれた」ということ、つまり主なる神は悲しんでいるもの、苦しんでいるものに対しては、いつでも深い憐れみをもって関わってくださるということであります。神はレアが夫ヤコブから不当に扱われ、嫌われているのを見て、深く憐れまれたのであります。

 ラケルが夫ヤコブに対して、「わたしに子供をください。さもないと、わたしは死にます」と言ったときに、ヤコブの言った言葉は「あなたの胎に子供やどらせないのは神です。わたしが神に代わることができようか」という言葉は、われわれが現代深く受けとめなくてはならない言葉ではないかと思います。現在の医療技術の進歩はめざましいものがあります。それはまさに神に代わるところまでいこうとしている。人間の生命誕生とそして死という問題、それは神が支配なさることで、われわれ人間が「神に代わる」ことはできないはずであります。

 この時にはまだ一夫一婦制ではなかったようであります。ヤコブには二人の妻がいた。それはヤコブの本意ではなく、叔父ラバンの押しつけではありましたが、二人の妻がいることによって、このような滑稽な争いが起こったのであります。それによって確かに子供がたくさん生まれていきましたが、またそこには絶えず争いが起こることも確かであります。

 聖書はイスラエルではいつのまにか、一夫一婦制になっていったことを記しております。それはいつからそうなったのか、何か国会審議を通して法律でそのように設定してそうなったようではないようであります。いつのまにか、人間の自然の知恵と経験で、やはり夫婦の関係は一夫一婦制がよいということになったようなのであります。この事もまた夫婦のあり方として、愛のあり方として、考えておきたいことであります。