「主が共におられたので」 創世記三九章

 ヨセフはヤコブの年寄り子で、しかもヤコブの愛する妻ラケルの子どもであったということもあって、特別にかわいがったのであります。後にヨセフの弟ベニヤミンが生まれますが、ヤコブはヨセフのことをことさら愛したのであります。それで彼だけには長袖の着物を着せて、羊たちの世話をするという仕事をさせなかったようであります。そのために兄弟たちは彼を憎み、彼とおだやかに語ることができなかった。ヨセフもまた少しいい気になって、兄弟たちの悪口を父に告げ口をするようなことをしておりました。

 そのヨセフが夢を見ました。一つの夢は、ヨセフの束が畑の真ん中に立ち、兄たちの束がまわりに来て、ヨセフの束を拝んだという夢であります。
もう一つの夢は、日と月と十一の星とがヨセフを拝んだという夢であります。日というのは、太陽のことで、これは父親をあらわし、月は母親をあらわし、十一の星はヨセフの兄弟たちをあらわしているのであります。ヨセフはそういう夢を見た。それを兄弟たち、また父親にも語った。もちろん兄弟たちは怒り狂って、ヨセフを憎んだ。父親ヤコブも最初はそんな夢を見て、それをみんな吹聴している息子をたしなめましたけれど、しかし父親だけは、この不思議な夢を心にとめたのであります。

 ある時、父はヨセフを兄弟たちが羊に草をやるために遠くまででかけているところに、その様子を見に行かせるのであります。ところが遠くからやってくるヨセフを兄弟たちが見つけるのであります。自分たちは働いているのに、ヨセフだけはぶらぶらしているということにも更に腹を立てたのでしょう、兄弟達は、こう言い合ったのであります。「あの夢見る者がやってくる。さあ、彼を殺して穴に入れ、悪い獣が彼を食ったと云おう。そうして彼の夢がどうなるかを見よう」。兄弟達はヨセフを殺してしまおうと相談した。さすがに一番上の兄ルベンだけはそんなことはすべきではないと思った。それで「血を流してはいけない。ヨセフを穴の中に投げ入れておこう。」と言って、ただちに殺すことをやめさせたのであります。それは一時ヨセフを穴の中に投げ込んでおいて、後で救い出してあげようと思っていたようであります。それで兄弟たちはヨセフをつかまえ、彼の着物、彼らの憎しみの象徴ともいうべき長袖をはぎ取り、深い穴の中に投げ込んだ。その穴の中には水はなかったというのです。ですからそのまま放置しておいたら、ヨセフは死んでしまうわけです。ヨセフをそのように穴に投げ込 んでから、彼らはすわってパンを食べていた。

 聖書はそう記しております。おそらく兄弟たちはヨセフが苦しみ、叫んでいるのを見ながら、すわってパンを食べていたのではないかと思います。そこをちょうどイシマエル人のキャラバンが通りかかった。これはべつの所ではミデアン人になっておりまかが、これは創世記でさいさい出てまいります問題、二つの資料かが混ざり合っているからそういう違いが出てきたようですが、そのキャラバン隊がらくだに商品をいっぱい積んでエジプトに下っていくようすが見えたわけです。それで兄弟のうちのユダが「われわれがヨセフを殺しても何の益にもならない。彼をイシマエル人に売ってしまおう。やはりヨセフはなんといっても自分たちの兄弟なのだから、殺すのはやめよう」と提案するのであります。このユダの提案が、長兄ルベンの提案と同じように、ヨセフを助けるための善意からでた提案なのか、あるいは、ただ殺すよりは、お金になったほうがいいという、よこしまな思いからでた提案なのかよくわかりませんが、ともかくユダはそういう提案をした。それでみんなは賛成して、彼らはヨセフを穴から引き上げて、銀二十シケルでイシマエル人のキャラバン隊に売ってしまうのであります。その 時長兄のルベンはいなかったようであります。ルベンはあとで穴からヨセフを助け出そうと思っていたのですが、帰ってきてみると、穴のなかにはもうすでにヨセフの姿は見えなかった。「あの子はいない。ああ、わたしはどうしたらいいのか」と言って、嘆きます。

 兄弟達はヨセフの着物を取り、雄山羊を殺して着物をその血に浸し、その長袖の着物を父に持ち帰って、「自分たちはこれを見つけた。これはヨセフの着物かどうか見定めてください」と、ぬけぬけと嘘をつきまます。父ヤコブは自分が息子たちにだまされたとも知らずに、「これはわが子の着物だ。悪い獣が彼を食ったのだ。確かにヨセフはかみ裂かれたのだ」と言った。父は、着物を裂き、荒布を腰にまとって、長い間ヨセフのために嘆いた。彼らはあわてて父を慰めようとしたが、ヤコブは慰められるのを拒んでこう云った。「いや、わたしは嘆きながら陰府に下って、わが子のもとに行こう」。こうして父はヨセフのために泣いた。

 ヤコブはかつては、父イサクをだまして、兄エサウになりすまして、獣の皮を自分の肌にはりつけて、自分はエサウです、といって、父から長男エサウの祝福を奪い取ったのです。そのヤコブは、今度は息子達に獣の血にぬられたヨセフの着物を見せられて、だまされて、ヨセフの死を嘆き悲しむはめに陥るのであります。自分の蒔いた種を同じような仕方で自分がつみ取ることになるのであります。その時ヤコブはこういったというのです。「わたしは嘆きながら陰府にくだって、わが子のもとへ行こう」。陰府とは、当時のユダヤ人が考えていた死んでからいく世界のことであります。それはいわゆる地獄とは違うようであります。なぜなら、この陰府の世界には、生前悪いことをした人間だけが、行くのではなく、良いことをした人間も、死んだ人間はすべてそこにゆくものだと考えられていたからであります。ヨセフもまたそこに行くのであります。ある聖書の注解者によれば、ここでは、われわれ日本人が考えるような、死んだ国で愛する者と再会する慰めといったような考えはないということであります。日本人ならば、子供を失った時に、自分も死んで、死んだ子供と再会したいという希望のよ うなものを抱くかも知れませんが、ここにはそんなことはひとつもないというのであります。「嘆きながら陰府にくだり」というのであります。

 しかしわれわれ日本人がここを読む時に、果たしてその解釈はただしいだろうかという気がしないでもないのです。確かにここには陰府の世界で生きているわが子に再会する喜びはないかも知れません。しかし、我が子はもう死んでいる、自分には愛する子どもを失った者としてもうこの地上に生きている喜びはない、だからヨセフのいる陰府にくだるほうが自分には喜びだという気持ちは感じられるのではないかと思います。陰府の世界で生きている我が子に会えるという喜びはもっていないかもしれませんが、もう我が子は死体となって横たわっているだけかもしれないが、それでもわたしはこの地上に生きていているよりは、そこにゆくほうがましだという思いが感じられるのであります。ここには死んだ子供に対する情愛の深さというものを感じ取れるのではないかと思います。そう言って、ヤコブは慰められるのを拒んだのであります。
 
 兄弟達は、ヨセフが憎かった。妬んだ。それで彼を抹殺しようとしたのであります。しかし聖書の記事は、それはただヨセフを抹殺しようとしただけのことではなかったと記すのであります。三七章一九節をみますと、「あの夢見る者がくる。さあ、彼を殺して穴に投げ入れ、悪い獣が彼を食ったと言おう。そして彼の夢がどうなるかを見よう」と考えたというのであります。単にヨセフを殺そうとしたのではない、ヨセフの見た夢を抹殺しようとしたのだというのであります。これは神に対する挑戦なのであります。なぜなら、この夢をヨセフに見させたのは神だからであります。夢はすべてただちに神の啓示とはかぎらないでしょうが、しかし当時は夢は神の啓示だという考えは強くあった筈であります。ですから、父ヤコブはヨセフのいわば傲慢な夢をたしなめはしましたが、もしかしたら、これは神の啓示かも知れないと思って、この夢について心に留めていたのであります。ですから、兄弟達もこのヨセフの見た夢に不気味な関心はあったわけです。もしかすると、この夢はヨセフの単なるでたらめではなく、これから起こることの神の暗示かもしれないという思いはあったかもしれないのでありま す。しかし彼らはそれを受け入れたくなかった。なぜなら、それはあの生意気なヨセフに自分たちが頭を下げるという夢だったからであります。後にこの夢はその通りになっていくのです。

 われわれは確かに神がこの世を支配し、自分の人生を支配してくださることを望んでいるかも知れません。そのようにしてわれわれは救われたいと望んでいるのであります。しかしその場合、われわれはこのヨセフの見た夢のようにして、自分が誰かに頭を下げる、まして自分が憎いと思っている人間に頭を下げるというような形で、神の救いのご計画が起こることはいやなのであります。やはり救われるということならば、自分が中心になって救われたいという思いがどこかにあるのではないか。

 あのヨセフが見た夢が実現されては困るのであります。しかし彼らはヨセフを抹殺したら、それで本当にあの夢そのまでも抹殺できるのか、その確信もなかったようであります。彼を殺して、「その夢がどうなるか見よう」と考えた。彼らにはやはりどこかに不安があったのかも知れません。自分たちの手で神のご計画を抹殺できるものか、という不安があったのではないかと思います。後の物語の展開からすると、神のご計画は抹殺されないのであります。神のご計画は着々と進んでいくのであります。ヨセフの兄弟たちのいろいろな思惑、そこにはルベンの善意とか、ユダのずるがしこい考え、そして他の兄弟たちの憎しみと嫉妬、そうしたさまざまな人間の思惑に運ばれながら、神の救いのご計画は着々と進められていくのであります。

 われわれは神のご計画を抹殺することはできないのであります。ユダヤ人の指導者たち、祭司長、長老、律法学者、パリサイ人たちは、神の独り子イエスを殺してしまえば、われわれにとって都合の悪い神の救いのご計画は抹殺できると思っていた。そのためについに、イエスを十字架にかけて殺してしまったのであります。人間の罪がイエスを抹殺したのであります。しかし神はその人間の罪によって十字架へと運ばれていったイエス・キリストを十字架で死なすことによって、逆に罪の贖いとして、われわれの救いの捨て石として、より確かな救いの道を切り開いてくださったのであります。大工らにこなん石はいらないといって捨てられた石が、いつのまにか建物全体を支える隅のかしら石になっていたのであります。

 神の救いの意志は、われわれ人間の悪よりも強力なのであります。この歴史は確かに人間の罪によって支配され続けたように思われます。日本を含めたこの世界の歴史、ドイツのヒットラーによるナチズムの支配などはその最たるものであります。しかしそれも崩壊したのであります。これからもそれと同じようなことは起こるかも知れません。現に起こりつつあるかも知れません。われわれは楽観的なることはできませんが、しかしその底に神の救いのご計画は人間の悪を超えて働いてくださるのだという信仰をわれわれは、常に、強力にもっていなくてはならないと思うのであります。

 この創世記のヨセフ物語はなによりもそのことをわれわれに教えていると思います。

 創世記の三九章にいきますと、ヨセフは兄弟達のうらみによってエジプトに奴隷として売られていきます。エジプトの王パロの役人侍衛長ポテパルに買い取られます。ヨセフはそのポテパルに奴隷の身でありながら、大変な信用をかちとるのであります。ポテパルは家のすべての管理をヨセフに託すようになった。ヨセフの才覚で、彼の財産は増えていったのであります。ヨセフは姿がよく、顔が美しかった。それがわざわいしました。ポテパルの奥さんがヨセフを誘惑するのであります。しかしヨセフはそれを拒んだ。彼は自分を誘惑する奥さんに「あなたのご主人はわたしを信用して、家の中のことをすべて任せてくれている。どうしてそのご主人を裏切ることができるでしょうか。どうしてわたしはこの大きな悪を行って、神に罪を犯すことができましょうか」と言って、頑としてこの誘惑を退けます。しかし奥さんは更に執拗にヨセフに迫り、その着物をつかんではなそうとしませんでした。それでヨセフは着物を彼女の手に残して、奥さんから逃れるのであります。ところが奥さんは自分のいうことを聞かないこの奴隷であるヨセフを逆恨みして、主人が帰ってきた時に、「あなたがわたしたちに連 れてこられたへブルの奴隷はわたしに戯れようとして、わたしの所に入ってきた。わたしが声をあげて叫んだので、彼は着物をわたしの所に残して外に逃れた」と訴えるのであります。主人は烈火のごとく怒り、自分があんなに信用していた者に裏切られたということで、彼を獄屋に送ってしまったのであります。

 一時は奴隷としてエジプトに売られたヨセフは、もうただ悲劇だけが彼の人生をまっているかと思うと、その奴隷として売られた主人から信用を勝ち取り、破格の待遇を受けるのであります。彼の人生は逆転した。そう思ったら、今度は一転して、その主人の奥さんの恨みを買い、獄に入れられてしまうのであります。ところが今度はその獄の中で、獄屋番がヨセフを信用するようになった。そしてその獄の管理を全てヨセフの手に委ねるようになったというのであります。

 これらの事はすべて「主がヨセフと共におられるので」、そうなったのだのだと聖書は告げるのであります。この創世記三九章には、「主が共におられたので」という言葉が四度も出てまいります。二節に「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。その主人は主が彼と共におられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た」と記され、そして二一節には「主はヨセフと共におられて慈しみを垂れ、獄屋番の恵みを受けさせられた」とあり、そしてその結びの言葉は「主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた。」とあります。

 「主が、神様がヨセフと共におられたからである」というのであります。それならば、これからヨセフの人生はいいことづくめが続くのだとわれわれは期待したくなるのですが、聖書はそうはいわないのです。主がヨセフと共におられるのに、なぜヨセフは奥さんから誘惑されたり、それを拒否したために獄に入れられるようになるのかとわれわれは思いたくなるのであります。しかし聖書は、「主が共におられたので」、ヨセフは主人の信用を勝ち得たし、また「主が共におられたので」、主人の妻のあくどい誘惑と逆恨みによって獄に入れられてしまうという最悪の事態に陥っても、そのところでヨセフは恵みを得たというのであります。神が共におられるということはそういうことだというのです。神がおられるから、すべてのことがなにもかもうまくいく、万事が自分の思い通りに益になるという御利益主義の信仰をわれわれに与えるのではないということであります。神が共におられるから、どんな人間の悪にも拘わらず、神はわれわれに最善の道を備えてくださるというのであります。それでは結局は御利益信仰ではないかと言われるかもしれません。

 しかしヨセフ物語がわれわれに告げようとしていることはそうではないのです。少し先取りして、いいますと、ヨセフがこの「主が共におられる」という信仰、これが摂理信仰ということでありますが、この信仰を悟ったのは、自分がエジプトで奴隷の身から総理大臣に昇進した時に、そう思ったのではないのです。もし「神が共におられる」という信仰が御利益信仰であるならば、自分が総理大臣になった時にその信仰に目覚めてもよさそうなのに、ヨセフは一度もそんなことは思わないのであります。彼がその摂理信仰を得たのは、自分を一度は殺そうとした兄弟たちと再会し、その兄弟たちが自分の犯した罪に悔いる姿を見て、そうして自分が今ここにあるのは、ただ自分の繁栄のためではなく、自分の一族を救うために神が先手をうって、自分をここに遣わしてくださっていたのだということを悟った時なのであります。自分がただ自分一人の幸福のためにあるのではなく、他の人の救いの捨て石になれたのだと悟った時、そして心から兄弟達の罪を赦せるようになった時に、ヨセフは摂理信仰を得るのであります。

 「主が共におられる」「神が共におられる」という信仰は、なによりも神がおられるのだから、人間のあらゆる悪、人間の罪にも拘わらず、それを乗り越えて神の救いのご計画がすすめられていくのだという信仰なのであります。

 この創世記の三九章には、ヨセフが奴隷の身分でありながら、どなに恵まれたか、あるいは獄にいれられながら、獄屋番から信用を勝ち得て破格の待遇を得たかということに関して、それはヨセフの人柄がそうさせたのだとは一言も述べようとしていないのであります。ただ「主が共におられたので」という一言で説明しているであります。逆にヨセフの姿のよさとかという人間的美点は、奥さんの誘惑を引き起こし、彼を不幸に導くというのであります。これは聖書がわれわれに語る皮肉なのかも知れないと思います。