「夢を解く」 創世記四一章

 ヨセフは夢見る人と言われておりました。それはヨセフが「自分の束が真ん中に立ち、兄弟たちの束がその束を拝んだ」という夢、それから「日と月と十一の星が自分を拝んだ」という夢を見て、それを父と兄弟たちに語ったからであります。それをヨセフが語った時、ヨセフとしたら、ただ淡々と自分が見た夢を語っただけなのでしょうが、それを聞いた兄弟たちは怒り、ヨセフを憎み、ついには殺そうとまでするのであります。父ヤコブはその夢の内容が内容でしたから、それは大変傲慢なものに聞こえますから、ヨセフをたしなめますが、しかし父だけはこのヨセフの見た夢を不思議なこととして心に留めていたのであります。

 兄弟たちはヨセフを一度は殺そうとはしましたが、結果的にはエジプトに奴隷として売ってしまうのであります。ヨセフはそこでエジプトの王の侍衛長をしていましたポテパルの奴隷になりましたが、そこで大変信用されて家の管理のすべてを任されます。しかしポテパルの妻の誘惑に会い、それを毅然として拒否したために、逆恨みをかって、獄にいれられてしまいます。そこでもヨセフは獄屋番から信用されるようになって、彼は獄屋のすべての管理を委ねられるようになった。

 ある時その獄に王様の機嫌を損ねた二人の役人、給仕役と料理役の役人が獄に入れられて来た。そのふたりがそれぞれ夢を見た。夢を見たふたりは何か悲しそうな顔をしていたというのです。それでヨセフがどうしてそんな顔をしているのかと聞きますと、自分たちは夢をみたがその夢を解く人がいないので、気分が悪いのだというのです。それでヨセフは「夢を解くことは神がなさるのではありませんか」といい、「その夢の内容を話してください」といいます。

 給仕役の見た夢はこういう夢でした。「わたしの前に一本のぶどうの木があった。そのぶどうの木に三つの枝があって、芽を出し、花が咲き、ぶどうのふさが熟した。時にわたしの手にエジプトの王パロの杯があって、わたしはそのぶどうを取り、それをパロの杯に絞り、その杯をパロの手にささげた。」そういう内容の夢でした。するとヨセフはただちにその夢を解いて、「それはこういうことでしょう。三つの枝は三日です。今から三日のうちにパロはあなたの頭を上げて、あなたを元の役目に返すでしょう。あなたはさきに給仕役だった時にされたように、パロの手に杯をささげることになるでしょう」といいます。そしてヨセフはこう付け加えます。「もしその通りになって、あなたが獄からでられようになったら、このわたしのことを覚えていて、わたしが今獄にいるのは、冤罪だから、この獄からだすように王に話してください」と頼むのであります。

 それを一緒に獄に入れられてきた料理役の長も聞いていて、その解き明かしが良かったので、自分の見た夢を語った。「白いパンのかごが三つ、わたしの頭の上にあった。一番上のかごには料理役がパロのために作ったさまざまの食物があったが、鳥がわたしの頭の上のかごからそれを食べてしまった。」ヨセフはその夢を解いてこういいます。「その解き明かしはこうです。三つのかごは三日です。今から三日のうちにパロはあなたの頭を上げ離して、あなたを木に掛けるでしょう。そして鳥があなたの肉を食べるでしょう」。
 そして三日経ってから、王は誕生日に家来たちにふるまいをもうけ、家来たちの給仕役の長を給仕役の職に復職させ、料理役の長を木に掛けて処刑したというのです。すべてヨセフが彼らの夢を解いたとおりになったというのです。
 
 夢を解くのは、神によることだとヨセフはいいながら、役人達の見た夢を解いて上げるわけですから、少しおかしい気もしますが、ともかくヨセフの解いた通りになっていくわけです。
 

 夢というのは、今日精神医学では重要な精神分析の対象になっていると思います。しかし今日精神医学で問題にしている夢というのは、その人の心の過去の経歴をあらわすのが夢だとされているわけです。ですから、精神医学者がその夢を解くことによってその人の過去の傷を見いだして、その治療に当たるわけです。

 しかしここに登場する夢、聖書に出てくる夢は、その人の過去の思いが夢に現れるのではなく、その人のこれからの将来を予知する夢なのであります。それは今日精神医学が扱う夢とは全く性格を事にする夢であります。それはその人の過去とは何の関係もない夢であります。その人のこれから起こる将来、これから起こる運命を占うというか、予知する夢であります。ですからそれはあるいは、場合によっては、その人のこうなりたい、こうありたいというその人の願望がそういう夢を見させるということもあり得るわけです。

 ですから、すべての夢がただちに神の啓示になるとは限らないわけです。その人の願望がそういう夢を見させて、自分はこういう夢をみたから、やがて将来こうなるんだとひとり有頂天になっているということだって出てくるわけです。夢というのは、夜寝ているときに見るわけですから、人間の作為的な意志とか、意識が作用できないように一見思われるわけで、それで夢は神の啓示だと考えられやすいわけですが、しかし今日の精神医学でも夢は全く客観的なものではなく、その人の過去の生活経験がいろいろと深く深く反映しているわけで、その意志とか意識とかと深く関わっているものと考えているのではないかと思います。夢にこそその人の本当の思いがあらわれるのだと考えているようであります。

 その点は聖書も同じで、夢をただちに神の啓示として見ることはむしろ非常な警戒心をもっていて、夢占いというものは異教的なものでむしろそれは厳しく禁じているのであります。

 預言者エレミヤがこう言っているところがあります。神はこう言われるというのです。「わが名によって偽りの預言する預言者たちが『わたしは夢を見た、わたしは夢をみた』というのを聞いた。偽りの預言する預言者たちの心に、いつまで偽りがあるのか。彼らはその心の欺きを預言する。彼らはその先祖に従ってわが名をわすれたように、互いに夢を語って、わたしの民にわが名を忘れさせようとする。夢を見た預言者は夢を語るがよい、しかし、わたしの言葉を受けた者は誠実にわたしの言葉を語らなければならない。」
夢を語る預言者というのは、単に自分の願望を語るだけで、神の名を忘れさせようとするのだというのです。偽預言者というのは、人々が聞きたいことを語って、人の心を満足させようとしているからなのであります。平和がないのに、平和だ平和だという。具体的には、このとき預言者エレミヤは今イスラエルの民は罪を犯したので、神の裁きを受けなくてはならない、バビロンにむしろすすんで降伏して、バビロンに捕囚の民として捕らわれていきなさい、と預言するのです。それは民が一番聞きたくない預言なのです。しかし偽預言者たちはそういう預言はしない、民が聞きたいことを語って、満足させようとするわけです。それは民の願望をただ神の名において語るだけなのです。それが夢を語る偽預言者なのであります。「夢を見た預言者は夢を語るがよい、しかし、わたしの言葉を受けた者は誠実にわたしの言葉を語らなければならない」というのです。

 ですから、夢そのものがただちに神の啓示にはならないことを聖書はしっかりと見ているのです。将来を占う夢ですから、その夢にはその人間の願望が無意識のうちに入り込む可能性はおおいにあるわけです。従ってその夢を解くということも、解く人の邪な願望が入り込む可能性もおおいにあるわけです。ですから、夢を解くということは、人間の知恵によるのではない、「夢を解くのは神による」と、ヨセフはいうのです。

 それならばヨセフはどのようにしてその夢を解いたのか。ここでヨセフは給仕役の夢を聞いて、それは冤罪が晴れる夢だ、罪赦されて復職する夢だと解きますが、それを聞いた料理役の長は自分もまたそのようなことになるのではないかと思ってヨセフに自分の見た夢を語りますが、しかしヨセフはその料理役の長の願望に惑わされないで、いわばヨセフは私心を捨てて、料理役の長の見た夢に即して解いた。つまり、一番の上のかごにのっているパンを鳥が来て食べてしまった、という夢を解いて、それは「あなたが木に掛けられることだ」とその料理役の長の前で正直に答えたのであります。料理役の長の気に入るように夢を解いてあげてもよかったし、そうしたくなるところですが、ヨセフはそういう自分の思いに惑わされないで、その夢に即して夢を解いたのであります。それが神のようになるということだと思いますが、夢を解くのは神によるということになるのだと思いますが、ヨセフはそのように夢を解いたわけです。

 われわれは今日、夢を見て自分の将来を予想するなんてことはいたしませんし、むしろそんなことは迷信的なことで、そんなことは神懸かり的な事ですから、夢を神の啓示とか、これから自分の身の上に起こる啓示だなどと考えることはむしろ避けたいと思います。もちろん、夢をとおして神の啓示があるという可能性を否定することはできないと思いますが、それはやはり特殊なことで、それを一般化することはむしろさけたほうがいいと思います。それならば、われわれにとっては、夢に代わるものとして、自分の将来を占うものは何があるのか。今日のわれわれにとって神の啓示となるものは、聖書ではないかと思います。聖書の言葉であります。聖書の言葉が、ただちに自分たちの将来を占うとか、予知するとかということではないでしょうが、しかし今日われわれにとって、聖書の言葉をしっかりと聞き取る、正しく聞き取るということが、自分たちの将来を占う重要なことになると思います。そのために私心を捨てて、聖書の言葉を聖書の言葉に即して聞き取るということがどんなに大切かということであります。預言者イザヤがイスラエルの民がどんなに神の言葉を神の言葉に即して聞こうして いないかを嘆いて、糾弾して、「彼らは見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである」というのです。

 聖書の言葉をどんなに読んでも、どんなに聞いても自分流に聞いていたらそれは聖書の言葉を聞いたことにはならないというのであります。大変われにとっては耳の痛いことであります。主イエスがどんなに「耳のある者は聞くがよい」としばしば言われたかということであります。

 給仕役はヨセフがその夢を解いてあげた通りになって、王の給仕役に復職したのですが、彼はヨセフとの約束、復職したら、自分が冤罪でいま獄にいれられているのだということを王に話してくれ、というヨセフとの約束をすっかり忘れてしまったのであります。

 その二年の後、エジプトの王パロは不思議な夢を見ました。自分がナイル川のほとりに立っていると、その川から美しい肥え太った七頭の雌牛が上がってきて、葦を食べていた。その後、今度は醜いやせ細った他の七頭の雌牛が川から上がってきて、川の岸にいた雌牛のそばに立ち、その醜いやせ細った雌牛が美しい肥え太った七頭の雌牛を食い尽くした、という夢であります。そして再び夢を見た。一本の茎に太った良い七つの穂が出てきた。その後また、やせて、東風に焼けた七つの穂が出てきて、そのやせた穂が、あの太った七つの穂をのみつくしてしまった。そういう不思議な夢を見て、王の心は騒いだ。不安でいっぱいになった。それでエジプト中の学者、魔術師、夢占いを呼び集めて、この夢を解かせたが、だれもこの夢を解き明かし得る者がなかった。その時、あのヨセフに夢をといてもらって、その夢の解き明かしどおりになって、復職した給仕役がヨセフのことを思い出した。それで彼は獄に自分の夢を正しく解いてくれた人がいたことを王に話すのであります。それで王はすぐヨセフを獄から連れてこさせて、自分の夢を解いてもらおうとするのです。するとヨセフは「わたしが夢を解く のではありません。神があなたに平安をお告げになるのです」と言って、ここでも夢を解くの自分ではない、神が夢を解いてくださるのだと言って、パロの見た夢をただちに解くのであります。

 「最初の美しい肥え太った七頭の雌牛と、七つの実った良い穂とは、七年の大豊作をあらわしている。そしてつぎの七頭の醜いやせ細った雌牛と東風の焼けた実の入らない七つの穂は、その後に続く七年の大飢饉をあらわしている」と告げるのであります。そして更にヨセフはそれに対する対策まで王に進言します。「その七年の大豊作は、やがてくる七年の大不作によって飲み尽くされてしまうでしょう。そして国は滅んでしまう。それ故王は賢く、賢い人を探し出して、このエジプトをおさめさせなさい。エジプト中に監督をおいて、七年の豊作で得た産物の五分の一を取り、続いて起こる大飢饉のために備えさせなさい。そうしたらこの国は滅びから免れます」と進言します。このことは王とすべての家来たちに感動を与えた。「われわれは神の霊をもつこのような人を、ほかに見いだせようか。神がこれを皆あなたに示された。あなたのようにさとく賢い者はない。あなたがわたしの家を治めてください。わたしの民はみなあなたの言葉に従うでしょう。わたしはただ王の位でだけあなたにまさる」とまで言って、ヨセフが王につぐ大臣の座につかせて、いっさいをヨセフの手に委ねるのでりあります 。ヨセフは奴隷の身からエジプトの頂点にまで上りつめてしまうのであります。

 ヨセフは王の見た夢を解いてあげました。解いただけでなく、それに対する対策まで指示しました。ヨセフは自分がエジプトの大臣になろうとしてそのことを王に進言したわけではありません。エジプトの国中を捜して賢い政治家を見いだしなさいと進言しただけであります。ここにはヨセフの野心も私心も全くなかったのであります。このことが王がヨセフを信用した一因にもなっているのではないかと思います。

 夢を解くのは、神によるのだ、決して人間の知恵によるのではない、とヨセフは言うのです。そういいながら、ヨセフは夢を解いていくわけです。それはヨセフが自分からよこしまな私心をすっかりなくしているから、いわば自分が傲慢な意味ではなく、謙遜な意味で神になり切れたから、夢を解けると思ったから、夢を解いたのであります。そしてそうだからこそ、夢を正しく解くことができたのであります。そしてその後の指示もまた私心がなかったから、後に大臣にまで上りつめたのであります。
給仕役の夢を解いてあげた時に、ヨセフは少し私心をだしたかも知れません。「あなたが復職してしあわせになったら、わたしのことを覚えてくれ。そしてこの冤罪をはらしてください」と給仕役に訴えております。しかしこのヨセフの願いは給仕役にすっかり忘れられてしまうのであります。少しうがった見方かも知れませんが、私心をもって行動しようとすると、あまりうまくいかないということなのかもしれません。

ヨセフはかつて「わたしの束が真ん中に立ち、兄弟の束がわたしの束を拝んだ」という夢をみました。また「日と月と十一の星がわたしを拝んだ」という夢をみた。しかしその時ヨセフはその夢の内容を兄弟と父親に話はしましたが、その夢はどういう夢なのかという夢の解き明かしはしていないのであります。この夢を解き明かそうとしたら、内容が内容ですから、ヨセフの私心、私利私欲が入り込んでくることは必然だったと思います。だからヨセフはこの夢については、解き明かそうとはしなかった。他人の夢については解き明かすことはできても、自分の見た夢については解き明かしはできなかったし、またヨセフはしようとしなかったのであります。自分の見た夢に関してはどうしてもそこには邪な私心が入りこむからではないかと思います。

 ヨセフは奴隷の身から、一気にいわばエジプトの総理大臣にまでなったのであります。それならば、この時あの若い時見た自分の夢、自分が真ん中に立ち、みんなが自分にひれ伏すという夢、を思い出してもよさそうなのに、彼はこの時ひとつだにこの夢のことを思いだしもしなければ、これは神の恵みによって自分は大臣にまでのぼりつめたのだともひとつも思いつこうとしなかった。「神は神を愛する者と共に働いて、万事を益となるようにしてくださる」という摂理信仰をヨセフはひとつも思いだそうとはしなかったのであります。