「罪を赦す」創世記四五章

 

今日はヨセフ物語の続きをいたしますが、扱う聖書の箇所は四二章から四四章の箇所で、大変長い箇所であります。そこを小刻みに学んでいこうとしても、説教にはなりません、ここは一つの物語ですので、どうしても一連の箇所を一気に読まないと、意味のないところですので、少し物語りの筋を追っていくということになりますので、あらかじめ承知しておいて欲しいと思います。

さて、エジプトの王のパロのみた夢、ナイル川に、始め肥え太った七頭の牛が出てきて、その後、醜いやせ細った牛が現れ、そのやせ細った牛が肥え太った牛を食い尽くしてしまったという不思議な夢を、ヨセフは解いてあげるわけです。それは七年の大豊作の後に七年の大干ばつが来て、七年の大飢饉の時が来ることを予言している夢だと解くわけです。だから、最初の大豊作の七年の間浮かれてしまうのではなく、その収穫の五分の一を倉に治めて、次の七年の大飢饉に備えなくてはならないとヨセフは王に進言するのであります。その進言が王に大変気に入られて、ヨセフは一気に王につぐ大臣の席につくのであります。

 そしてヨセフの予言通りの七年の大豊作のあと、七年の飢饉の年が始まります。それはエジプトだけでなく、全世界に及び、ヨセフの家族が住んでいるカナンの地にまで及んでいるわけです。それでヨセフの父ヤコブはエジプトにはこの大飢饉にもかかわらず、穀物が保存されているということだ、エジプトまで行って食料をかいつけてこいと、十人の息子をエジプトにやるのであります。ヤコブの子供は十二人いたのですが、そのうちのひとりはヨセフ、そしてそのヨセフと母が同じであるベニヤミンはのぞかれるわけです。ヤコブは自分が一番かわいがっていたヨセフは野獣に殺されたと思っているわけです。そして、その弟であるベニヤミンを自分のもとから手放して危険な目に遭わせたくないと思って、ベニヤミンはその一行に参加させなかったのであります。

 ヨセフの兄弟たちはエジプトにヨセフがいて、まさかそのヨセフがエジプトの大臣にまでなっているなどということは、想像すらしていなかったのであります。彼らはそれがヨセフだとは知らずに、地にひれ伏し、穀物を売ってくれるように懇願します。ヨセフのほうは一目でそれが自分の兄弟たちであることに気づく。しかし彼らはそれがヨセフだとは気づかない。彼らはおそらく始めから顔をろくろくあげもしないで、ヨセフを見ることもしていなかったのではないかと思われます。ヨセフは彼らが自分の兄弟であることを知った時に、すぐ自分が一度は殺されそうになり、そうして結局は奴隷として売られてしまったことを思いだすのであります。それでヨセフは彼らに対して荒々しく迫ったというのです。「お前達はどこから来たのか」。彼らは「食料を飼うためにカナンから来ました」と、彼らが答えますと、ヨセフは「お前たちは食料を買いになんかきたのではない。お前達は回し者で、この国のすきを伺うために来たのだろう」と、嫌がらせをいいます。これはおそらく、エジプトの様子を見に来て、エジプトには食料が沢山あるから、あとですきをみて、その食料の収めてる倉を見つけて、そ こを襲って食料を奪おうと言う策略なのだろう、お前達はその回しもの、偵察隊だというわけです。おそらく、それまで色々な国からエジプトにある食料を奪おうとしてそうした偵察隊が入り込んで来たのではないかと思われます。

 聖書は、四二章の九節をみますと、その時「ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して」、と記しております。その夢とは、自分の束が畑の真ん中に立ち、兄弟達の束が自分の束を拝んだという夢であります。兄弟たちはそれがヨセフだとは知らずに、エジプトの大臣の前にひれ伏して食料を売ってくれと懇願してまさに今ヨセフを拝んでいるわけで、その夢の通りになっているわけです。

 しかしこの時ヨセフはかつて自分の見た夢が実現したのだと思いはしましたが、この夢のもっと深い意味については思いもいたらないし、自分の夢が実現したからと言って、ひとつもうれしいとも思わなかったようであります。ましてこれが神の導きだなどということもひとつも思わなかった。自分は今兄弟たちよりも上に立ったことを見て、幸福だとも思わなかった。従って神に対する感謝の思いもわかなかったのであります。むしろ、その夢を思いだして、苦々しい思いがこうじて、兄弟たちにいやがせをするのであります。ヨセフはお前達が回し者でないというのなら、その証拠をみせろ、おまえたちのうち一人がカナンに帰って、お前達の末の弟をつれてきないさい、それまでは他の九人は監禁しておくというのであります。そして三日間彼らを監禁所に入れておいた。そして三日経ってから、ヨセフは少し譲歩して、「ひとりだけ、一番末の子だけをここに残して、あとは国に帰そう、食料をもって帰って、家族の飢えを救いなさい。そしてこの子をとりもどしたいならば、国に残っている末の弟をつれてこい」といいます。前はひとりだけを国に帰すといったのですが、今度は逆にひとりだけこの 地に残して、後の兄弟は国に帰そうというわけで少しヨセフは譲歩したわけです。

兄弟たちはこのヨセフの申し出を受けて困惑して、自分たちの間で話しあった。彼らはへブル語で話し合うわけですから、自分たちの言葉がエジプト人にわかるはずはないと思っていた。「これはかつて自分たちが弟ヨセフのことで罪があり、その報いを今受けているのではないか。あの時、弟ヨセフはしきりに命ごいをしたのに、自分たちはその苦しみを聞き入れてやらなかった。そのために今自分たちはこのことで苦しみにあっているのだ。」といいあっていた。そして兄弟のうちのルベンが「自分はヨセフの命を救おうとしたのにお前達はそれを聞き入れなかった。その血の報いを受けているのだ」と言って、兄弟たちの間で言い争うのであります。ヨセフはもちろん彼らの言葉は全部わかるわけです、それで今彼らが自分に対して犯した罪について苦しんでいることを知って、いたたまれなくなって、席をはずして泣いたというのです。彼らに対するうらみ、憎しみが少しづつ和らいでいくのであります。それはヨセフは今エジプトの大臣という地位におり、兄弟たちは今自分に頭を下げるという立場にいるという、そういう余裕から兄弟を赦す気持ちがめばいているというだけのことなのかも知れませ ん。本当に罪を心から赦すにはいたっているわけではないようであります。

 それでも兄弟たちがかつて自分に対してした罪に対して困惑し、心を痛めている様子をみて、兄弟たちに対する恨みの思いが薄らいだことは確かであります。なぜなら、彼らを釈放して、食料をいっぱいにして国かえすわけですが、その時その食料の代金である銀をそれぞれの袋に、そっと入れていた、つまりその食料はただで彼らあげているからであります。

 兄弟達は国に帰る途中で、ロバに飼い葉をやるために袋をあけた時に、そこに自分たちの銀が入っていたので、非常に驚き、互いに震えながら、「神がわれわれにされたこのことは何事だろう」と互いに言った。これは彼らにとってはあまりにも恐ろしい恵みだったのであります。あんなにエジプトの大臣から嫌がらせを受けながら、今はその代金である銀が返されているということは、思いもよらない恐ろしい恵みだったのです。それで彼らは「神がわれわれになされたこの事は何事だろうか」と、震えたというのです。ここに神の導きがあるのではないかと思ったのであります。

それはわれわれだって同じだと思います。われわれもまたそれほどの大きな幸せではなくても、どんな小さなささいな幸せであっても、そこに神の恵み、神の導きがあると思うのは素直な信仰だと思います。

 このことから逆にヨセフのことを考えますと、兄弟達がかつて自分にした罪のことで、いいあって後悔している様子をみて、泣きたい気持ちになったでしょうが、まだこの時は神の導きだとはひとつも思い至っていないのです。ということは、ヨセフはまだまだこのことで、幸福な気持ちにはなっていなかったということ、まだまだ兄弟に対する恨み、罪のゆるしは完全になされてはいなかったということであります。

 彼らは国に帰ってきて、父親にエジプトであったことを報告して、ベニヤミンをエジプトにつれていかないと、シメオンを連れ戻すことはできないといいますと、父親ヤコブはそれを拒否して、「お前達はわたしの子を失わせた。ヨセフはいなくなり、シメオンもいなくなった。今度はベニヤミンをも取り去ろうというのか」と言って、拒否するのであります。

 しかし飢饉は激しく、エジプトから携えてきた食料も食い尽くしてしまった。仕方なく父ヤコブはもう一度息子たちをエジプトにやろうといたします。しかし息子たちは、今度行くときにはどうしても末の弟ベニヤミンをつれいかなくてはならないといいます。最初はどうしてもそれはあいならぬと父ヤコブはいいますが、結局はそれを受け入れます。そうして前に返された銀をそれは何かの間違いだったのでしょうといって、それを返し、その上に贈り物を沢山用意させた。そして仕方なく、ベニヤミンもつれていくことを父ヤコブは承知するのであります。

 そうして彼ら一行はエジプトについた。ヨセフは自分と同じ母の子である弟のベニヤミンをみるともううれしくて彼ら別室に招いてご馳走しようといたします。しかし兄弟たちはそんなことはしらないで、自分たちはあの袋にあった銀のことで監禁されるのではないかと恐れて、しきりに弁明いたします。しかしヨセフはこういいます。「安心しなさい。恐れてはいけない。その銀はあなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたの袋に入れてあなたがたに賜ったのだ。あなたがの銀はわたしは受け取っている」といって、彼らを安心させます。ここで始めて、ヨセフは「神がそうさせた」のだ、神の名を口にだすのであります。これは事実としてはヨセフがそれぞれの袋に銀を入れてあげたわけですが、しかしヨセフは次第次第にこの一連の兄弟をめぐっての出来事の背後に神の支配があることを感じ始めていたのではないかと思います。

 ヨセフは彼らに最大のもてなしをしました。兄弟たちが贈り物をヨセフにささげますと、ヨセフは「あなたがたの父、あなたがたが先に話していたその老人は無事ですか、なお生きていますか」と、尋ねます。そしてベニヤミンをあらためて見て、「これはあなたがたが前にわたしに話した末の弟ですか」と尋ね、ベニヤミンの対して「我が子よ、どうか神があなたを恵まれますように」といって、弟なつかしさのあまり心が迫り、涙をこらえることができずに、急いで別室に行って泣いたというのです。そしてしばらくして、顔を洗って兄弟たちをもてなして食事をしようとします。その席のならべかたで、聖書はこう記してます。「こうして彼らはヨセフの前に長子は長子として、弟は弟としてすわらせたので、彼らはヨセフがどうしてその識別ができるのかと思って互いに驚いた」というのです。そして聖書は、「ヨセフの前からめいめいの食事が運ばれていったが、ベニヤミンの分は他のいずれの者よりも五倍多かった」と笑えるようなことをしるします。

 そしてヨセフは彼らに食料をもてるだけもたし、前とおなじように代金である銀は袋にそっといれておきました。そしてベニヤミンの袋には銀の杯をひそかに入れさせます。これは後から追っ手のものをやって、どうして銀の杯を盗んだのだと言いがかりをつけて、その銀の杯が入っていたベニヤミンを捕らえて、兄弟たちはカナンに帰して、ベニヤミンだけをそうしたいいがかりをつけて、エジプトにとどまらせようとヨセフは策略したのであります。ことはその通りに運んでいきました。ところが兄弟たちはベニヤミンだけに罪をかぶせるわけてにはいかない、自分たちも同じ罪を犯した者としてこのエジプトに残るというのです。それはもちろんヨセフの本意ではないのです。そんなことをしたら父ヤコブは飢え死にすることになるし、ヨセフとしたらただベニヤミンだけが自分のところに残ってくれたらいいわけです。それでヨセフはベニヤミンだけを残せばいいとい言い張ります。

 すると上の兄ユダがこうヨセフに訴えます。「われわれには老齢の父がおり、その父には年寄り子がいたが、その子は死んでしまった。父はその子を特別にかわいがっていたのに、その子は死んでしまった。そして同じ母の子であるこのベニヤミンを父は特別にいま愛している。だから父はどうしてもベニヤミンをつれていくことを最初は承知しなかった。父はわれわれにこう言った。『おまえたちの知ってのとおり、わたしの愛する妻はわたしにふたりの子を産んだ。ひとりは外へ出たが、きっと獣に裂かれて殺されてましまった。もしお前達がこの子ベニヤミンをわたしからとって行って、彼が災いにあれば、お前達はしらがのわたしを悲しんで陰府にくださらせるであろう』と言われた。もしわれわれが帰ってこのベニヤミンが一緒にいなかったならば、父は死んでしまうでしょう。父の魂は子供の魂に結ばれているからです。自分はこのベニヤミンを連れていくときに、『もしわたしがこの子をあなたのもとに連れ帰らなかったなら、わたしは父に対して永久に罪を負いましょう』と誓ってきた、だからどうかしもべをこの弟の代わりにわが主の奴隷としてとどまらせ、この弟を兄弟たちと一緒に上り 行かせてください」と懇願するのであります。

 かつては父ヤコブの偏愛を受けたヨセフに対しては、恨み、そしてついには殺そうとまでした兄弟たちであります。今はやはり同じように父の偏愛を受けているベニヤミンの身代わりにまでなろうとしているのであります。兄弟たちがヨセフのことでどんなに深く反省しているか、悔い改めの気持ちをいだいて、今までずっと生きていたかということであります。それをヨセフはこのユダの言葉を通して知るのであります。

 そしてヨセフはこのユダの言葉を聞いている時に、自分を制しきれなくなって、エジプト人を全部部屋から出てもらい、兄弟たちだけになった時に自分の身をあかします。「わたしはヨセフです。父はまだいきながらえていますか」。兄弟たちは何も言えなかった。彼らは驚き恐れた。そしてヨセフは彼ら対して「わたしの顔をよく見てください」という意味で「わたしに近寄ってください」といいます。そしてヨセフはこういいます。「わたしはあなたがたの弟ヨセフです。しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔やむこともいりません。神は命を救うために、あなたがより先にわたしをつかわされたのです。この二年の間、国中に飢饉があったが、なお五年の間は耕すことも刈り入れることもないでしょう。神はあなたがのすえを地に残すために、また大いなる救いをもって、あなたがの命を助けるために、わたしをあなたがより先につかわされたのです。それ故、わたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。」というのです。ここにきて、ヨセフはすっかり兄弟達の自分に対する罪を赦すことができたのです。「わたしをここに売ったのを嘆くことも、悔やむこともいりません 」というのです。もうわたしはあなたがたに対して恨んでいないというのです。すべて赦すというのです。

 ヨセフはそれまでも兄弟達の罪を赦しかかっかてはいたのです。人の罪を赦すというのはなかなかすぐできることではないのではないかと思います。よく時間が解決してくれる、といいますが、人に対する恨みをなくすというのは、本当に時間を必要とします。

 しかしヨセフはただ時間を稼いで、ここで兄弟たちの罪を一気に赦せるようになったのではないのです。「神があなたがたの命を救うために先にわたしをこの地に遣わしていたのだ」と悟ったのです。後にもう一度ヨセフは兄弟たちにこういいます。「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変わらせて、今日のように多くの民の命を救おうと計画されのだ。それゆえに恐れることはいらない」というのです。

 ここに神が登場して来た時に、ヨセフは心から兄弟たちの罪を赦すことができたのであります。人間の思いだけで、またどんなに時間かせいでも人の罪を赦すということはできないのではないかと思います。人の罪を時間とともに忘れることはできるかも知れませんが、赦すことはなかなかできないと思います。

 ヨセフは兄ユダが今ベニヤミンの身代わりになろうとしている様子をみて、この事の背後に神の導きがあると悟ったのではないかと思います。兄ユダがベニヤミンの身代わりになるという心情、そしてかつてのヨセフに対して犯した罪に対する悔い改めている様子を見て、そこに神の支配を感じたのではないか。われわれは人が悔い改めている様子を見るときに、いつもそこに神の支配というものを感じるのではないか。それは自分自身が本当に悔い改める気持ちになれた時も、そこに神の導きを感じるだろうし、また人が悔い改めている様子をみる時もその背後に神の支配をわれわれは感じるのではないかと思います。だからすぐヨセフは「もう自分は恨まない、神は命を救うためにあなたがよりも先にここにわたしをつかわしたのだ」という思いにいったたのであります。

人を悔い改めに導くのも神ならば、人の罪を赦す力を与えてくれるのも神なのではないかと思います。

 イエス・キリストは「もしあなたがたが人々のあやまちをゆるすならば、あなたがの天の父も、あなたがたをゆるしてくださるであろう」といわれました。これは言葉の上では、われわれが人のあやまちを赦すということが条件になって、神のゆるしを受けられるんだという意味になりますが、本当はそうではなく、神の赦しが背後にあって、神がわれわれの罪を赦してくださるということに促されて、われわれは人のあやまちをゆるせるようになるということであります。どちらが先行するとか、条件になるということではなく、われわれが人の罪を赦すということと、われわれが神から自分の罪を赦されるということとは密接につながっているということであります。