「摂理信仰」創世記四五章

  ヨセフは兄弟たちがヨセフに対して犯した自分たちの罪を悔い、ベニヤミンをこのエジプトに残しておきなさいというヨセフの要求に対して、「それだけはどうしてもできない、そんなことをしたら父親ヤコブは死んでしまう、だから自分がそのベニヤミンの身代わりになるから、それだけは許してください」と訴える兄のユダの姿を見て、ヨセフはそこに神の支配を強烈に感じたのであります。それでヨセフはもういたたまれなくなって、そばにいたエジプト人をみな部屋から出て行ってもらって、兄弟たちだけになった時に、「わたしはあなたがたの弟ヨセフです」と身をあかしして、そして「あなたがたがエジプトに売った者です。しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔やむこともいりません。神は命を救うために、あなたがより先にわたしをつかわされたのです。神はあなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救いをもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがよりさきにつかわされたのです。それゆえわたしをここにつかわしたのは、あなたがたではなく、神です。」と言うのであります。

 事実としては、ヨセフの兄弟たちがヨセフを妬み、恨んで、エジプトに奴隷として売り飛ばしたために、今ヨセフはエジプトにいるのです。しかしその背後に神の導きがあったのだと今ヨセフはいうのです。つまりここでヨセフは神の導きとか神の支配というものを、人間の思惑とか行動よりももっと奥深いところで、働くものとして受けとめている、あるいは人間の思惑とか人間の邪な思いを変えて、人間を救うために導いてくださっている、とヨセフは感じている、感じているという情緒的な思いではなく、信じている、信じたということであります。

 これが摂理信仰であります。摂理という言葉を辞書でひきますと、「すべおさめる」とか「代わって処理する」とかでてまいります。そしてキリスト教用語で神が世界と歴史を支配することだと解説されております。ヨセフ物語はこの摂理というものをよくあらわした物語であります。

 摂理信仰と言う場合には、ただ神の支配とか神の導きという以上に、もっと強力なというか、もっと深い神の支配とか神の導きを言い表すときに用いられるのではないかと思います。摂理信仰という場合の「摂理」と言う字の「摂」という字は、「とりおこなう」とか「おさめる」とかという意味とともに、「かねること、代わっておこなう」という意味があるようであります。つまり人間の思惑に代わって、神が支配する、神が導く、神が導くのですから、とうぜん良い方に導く、人間を救うために導くわけです。

 それをヨセフは後に兄弟たちにもう一度告げるところがありますが、そこでは「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変わらせて」といっているのであります。

 ですから、摂理信仰とあえて表現する場合には、ただの神の導きとか神の支配というのではなく、そこにはその神の支配に対抗する悪とか、神の支配を疑わせるような苦しみとか悲しみがある、そういう状況のなかにあって、それを否定するようにして、いや違う、そういう人間の罪とか悪とか、苦しみと悲しみの背後にもっと強力な神の支配と導きがあるのだという信仰なのであります。

 パウロの有名な言葉「神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることをわたしたち知っている」という言葉も摂理信仰をいいあらわしている箇所だと思いますが、この言葉を語る前の節では、パウロは、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないというわれわれ人間の苦しい状況を述べているのであります。その時に御霊がわれわれと共にいて助けてくださると言って、われわれ人間の苦しい状況のなかで、神が最後には万事を益としてくださる時がくるのだから、望みを失ってはならないとわれわれを励ますのであります。

 ここでもやはりわれわれが自分たちの罪の問題、人間の罪の問題で苦しみうめいているなかで、それを逆転するように神の支配が勝利を収めるのだと述べるのであります。
 ですから、摂理信仰という時には、神の導きとか神の支配を疑わせるような状況の中にあって、なお神の支配と導きを信じさせてくださる信仰であります。
 
 ヨセフはその信仰をどの時点で得たかということであります。つまり自分の人生の背後に神の支配があったのだという信仰をどの時点で得たかということであります。

 ヨセフがそのような神の支配を信じられた時点が三つあったと思います。第一の時点は、ヨセフが奴隷の身をとして冤罪を受けて牢獄のなかにおりながら、エジプトの王パロの夢を解いてあげたために一気にエジプトの大臣になり、エジプトの頂点に立った時であります。この時にヨセフは「ああやはり神様はおられた」と思ってもよさそうであります。その時に摂理信仰を得てもよさそうであります。われわれだったならば、まずその時に神の存在と神の導きを信じるのではないかと思いますのに、聖書はヨセフがそんなことはひとつも思い浮かべたような事は書き記していないのであります。

 第二の時点は、ヨセフの兄弟たちがエジプトに食料を買いに来て、それがまさかヨセフだとは知らずに、ヨセフにひれ伏し、食料を売ってくれと懇願した時であります。この時ヨセフはかつて自分が見た夢を思い出したとは聖書は記しておりますが、この時ヨセフは神の支配とか導きをひとつも感じていないのであります。確かにあの夢、自分の束が中央に立ち、兄弟の束が自分の束を拝んだという夢がその通りになったとは思いましたが、その背後に神の導きがあったのだとはヨセフはひとつも思い至っていないのであります。従って、あの夢を思い出し、ついに自分が兄弟たちに勝ったとかと思って有頂天になったりしていないのであります。むしろ、その夢を思いだすことによって、かつての兄弟の自分に対するいやがらせを思い起こして、兄弟に小さな仕返しをしてやろうと思うだけでした。この時もヨセフは神のことはひとつも思いいたらないのであります。

 もしヨセフがこの第一の時点、第二の時点で、神の支配を思い、ああ、やはり神はおられるんだ、神は最後には万事を益としてくださるのだという信仰を得ていたのであるならば、その信仰はなんと底の浅い信仰になっていたか、それは御利益信仰にすぎない、はなはだ自己中心の信仰になっていたのではないかと思います。

 ヨセフが神の支配と神の導きを感じとったのは、そういう時ではなく、兄弟達が自分たちの犯した罪を思いだし、その罪に泣き、そして今その兄弟のひとりユダが弟の身代わりになって自分がエジプトに残るから、ベニヤミンを父親の所に返してくださいと必死に懇願している姿を見た時なのであります。かつては自分を妬み憎しみ、自分を殺そうとした兄弟たちをここまで悔い改めに導いたのは、とても人間業とは思えない、この背後に神の支配があったのだとヨセフは思い至ったのであります。その時ヨセフは一気に、「神がこの兄弟たちとその一族を救うために、神が自分をこの兄弟達より先にここに自分をつかわしてくださったのだ」という信仰を得たのであります。そして神の支配を確信した時に、ヨセフは始めて心からこの兄弟たちの罪を赦すことができた。「わたしをここに売ったのを嘆くことも、悔やむこともいらない」と言いきるのであります。ヨセフが自分がこんなにも心から兄弟たちの罪を赦せることがきるとはそれまでは思いもしなかった、しかしそれができた、そこに神の支配を更に強く感じたに違いないと思います。われわれは自分の思いだけでは、真に悔い改め、心から人の罪 を赦せることなど到底できないのです。ヨセフはそこに強力な神の支配を感じたのであります。

 摂理信仰とは御利益信仰とは違うのです。それは人間の罪と人間の悪にも拘わらず、そりよりももっと強力に神の導きと神の支配があるのだという信仰であります。それはその人がどんなに不幸でも、最後にはハッピーエンドで終わるのだという気楽な虫のいい信仰ではないのです。人間の、と言うよりは自分たちの罪と自分たちの悪に対抗して働く神の支配と神の導きに対する信仰であります。だからそれは人間を悔い改めに導き、われわれに人の罪を赦せる力を与えてくれるのであります。
ヨセフは今兄弟達の悔い改めを目の当たりに見ることができた、そして自分もまた心から兄弟の罪をすっかり赦せる気持ちをもてたのであります。これにまさる幸福な気持ちがあるでしょうか。われわれが人の罪を心から赦せるようになる、それにまさる喜びとか幸福というのがあるでしょうか。

 そしてそれはただ自分が最後には幸福になるという信仰ではないのです。最後は万事がわたしにとって益となるという信仰ではないのです。そうではなくて、「神はあなたがのすえを地に残すために、また大いなる救いをもってあなたがの命を助けるために、わたしをあなたがよりさきにつかわされたのです」という信仰、それはただ自分一人の幸福のためではない、他者の命を救うための捨て石に自分がなったのだという信仰であります。そしてこれこそがわれわれ人間にとって最大の喜びであり、幸福なのではないでしょうか。

 われわれが摂理信仰をもっとも力強く与えられるのは、イエス・キリストの十字架の出来事であります。主イエスはご自分が十字架で死ぬことを旧約聖書の言葉を引用してこういうふうに言っているのであります。「あなたがたは聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』」。人々はイエスなんていう軟弱な救い主なんかいらない、と言って捨てたのであります。十字架で殺し、みんながそれに拍手喝采したのであります。ところがその弱い弱いイエス・キリストがわれわれを救う隅のかしら石になったのであります。これが摂理信仰というものであります。人間の罪にすべてを委ねて死んでいった。そのイエスを神はよみがえらせて、人間の罪に勝利を示してくださったのであります。

 摂理信仰は、確かにパウロがいうように、最後には万事が益となるという信仰であります。しかしそれは一発逆転というおめでたい信仰ではなく、あくまで人間の罪と死に対抗して、最後にはそれに打ち勝たしてくださるという神の支配と導きへの信仰であります。

 そして大事なことは、この摂理信仰を神はヨセフに対してそのように信じなさいとか教えたわけではない、その信仰を悟り、その信仰を獲得したのはヨセフの自発的なものだったということなのであります。

 つまりこういうことです。神はヨセフに夢を見させた。その夢はヨセフの束が中央に立ち、兄弟たちの束がそのヨセフの束にひれ伏したという夢であります。あるいは日と月と十一の星がヨセフを拝んだという夢であります。夢というのは、この場合、これから起こる神の導きを暗示する夢であります。それならば神はどうしてもっと先までヨセフに夢を見させなかったのか。つまり、兄弟たちがヨセフの束にひれ伏すというだけで終わるのではなく、その後その兄弟たちの束をヨセフの束が起こしてあげる、そして共に束が手を結ぶとか、そこまでの夢を見させて、その将来の暗示をさせてもよさそうなのであります。しかし神はそうはしなかった。ヨセフの束に兄弟たちの束がひれ伏す、そこまでしか神は暗示しなかった。実際は神はそこで終わらすのではなく、神はその選ばれた民をそのようにしてその命を救い、そのすえをたやさないということのために、ヨセフを奴隷としてエジプトに先に追いやっていくのですが、そこまではヨセフには暗示していなかった。それから先のこと、つまりヨセフが兄弟たちその一族命を救うことになるという事は、ヨセフが自分で悟るように、ヨセフが自分の信仰で 「神はあなたがたの命を助けるために先に、あなたがたよりも先に自分をエジプトにつかわしておられたのだ」という信仰を自分で悟らせたのであります。そうでなかったら、ヨセフは単なる神のあやつり人形になってしまうからであります。

 ですから、摂理信仰というのは、キリスト教のひとつの教理にしてはならないのであります。これはあくまで、自分が悟り、自分が信じるという信仰でなければならないということなのです。

 摂理信仰というのは、そう信じなさいと他人に教えたり、強制する信仰の教理であってはならないということなのです。たとえば、苦しい病の床に伏している人に向かって、この苦しみは神があなたを救いに導く試練なのですよとか、と言って慰めたり、励ましたりしたくなるのですが、本当はそんなことをいってもなんにもならないのですが、そんなことを言われたほうは、苦々しい思いになるだけかもしれません。これは本人がこれは神の摂理なのだと悟る以外にない信仰なのではないかと思います。

 摂理信仰というのは、教理にはなりにくい教えではないかと思います。なぜならば、それならば、神は始めから悪を排除してくれていればよいではないかとか、なぜ人間に罪を犯せる自由など神は与えてくれたのかとかという議論を引き起こすからであります。
 
 神はヨセフが自分で神の摂理に気がつくまで、じっと待っておられたのであります。そこまでは夢でヨセフを指導をしようとはしなかったのであります。摂理信仰というのは、他人が教条主義的に教えたり、そして神すらもわれわれにおしつけようとなさらない信仰であります。これはただ自分が悟り、自分が信じるようになるという信仰なのであります。