「ヤコブの旅路」 創世記四七章七ー一二節

 ヨセフは兄弟達に自分の身を明かしした後、まだまだ干ばつの年は続くから父ヤコブをエジプトに連れてくるようにと兄弟たちに言って、彼ら一族が移住できる土地を用意するのであります。ヨセフは生きている、しかもエジプト全国のつかさになっていると聞いて、父ヤコブは気が遠くなったというのです。とても彼らの言うことを信じられなかった。しかし兄弟達が自分たちが経験したことを丁寧に話し、そして父ヤコブを迎えるために車も食料もまた晴れ着まで与えられていることを知って、ヤコブはようやく彼らの言うことを信じ、「よかった。本当によかった。わが子ヨセフがまだ生きている。わたしは死ぬ前にどうしても彼に会いたい」と言って、エジプトまでくることになります。そしてヨセフは父ヤコブをエジプトの王パロに引き合わせます。王はヨセフの功績を十分知っておりますから、ヨセフの父ヤコブを丁重に迎えます。

四七章の七節をみますと、ヨセフは父ヤコブを導いてパロの前に立たせた。ヤコブはパロを祝福した、と記されております。王のパロがヤコブを祝福したのではなく、ヤコブが王を祝福しているのであります。別れる時もまたヤコブがパロを祝福し、パロの前を去ったと記されています。これはおそらくヤコブのほうが年長者だったからそういうことになったのかもしれません。またヤコブとしたらやはり自分たちの一族の名誉にかけてそのような姿勢を示したのかも知れません。それはともかく、パロはヤコブに「あなたの年はおいくつですか」と聞きます。するとヤコブは「わたしの旅路のとしつきは百三十年です。わたしのよわいの日はわずかで、ふしあわせで、わたしの先祖たちのよわいの日と旅路の日には及びません」と答えているのであります。

 わたしは創世記を読んでいて、この箇所に来ますと、いつも胸をつかれるのであります。ある人に言わせると、これはヤコブがエジプトの王に対するへりくだった姿を示しているだけだといいますが、わたしにはそうとは思えないのであります。王パロのほうはなにげなく、ありきたりの挨拶のつもりで「あなたはおいくつですか」と、問うたのに対して、ヤコブが一瞬自分の人生を振り返り、しみじみと答えたのではないかと思います。あれほど長子の特権と長子の祝福を求めて、そしてそれを獲得したヤコブであります。それは一体なんだったのだろうか。ヤコブが死んだのは、四七章の二八節をみますと、百四十七年だったと記されておりますが、この時ヤコブがパロの前に立った時は、百三十歳だったわけですから、それから後まだ十七年も生きたわけです、百三十歳の時に、「わたしの旅路は百三十年で、わたしのよわいは短い」と言っている。彼はもうこれからそう長くは生きられないと思ったのかもしれません。

 アブラハムの年は百七十五年、イサクの寿命は百八十年でした。それに比べると確かに短い人生だったかも知れません。ちなみにヨセフの年は百十歳であります。旧約聖書では、長寿は神の祝福をあらわしておりますから、確かにヤコブの寿命が百四十七年だったということは、アブラハムに比べ、イサクに比べれは短いとはいえますが、しかしヨセフに比べれば長いわけです。ヤコブの王パロに対する答え「わたしのよわいの日はわずかで、ふしあわせで」とつづく、その言葉に彼の思いが込められているのではないかと思います。ただ年齢が短いということではなく、「ふしあわせであった」という言葉にその年齢の短さが表現されているのではないかと思います。ここは新共同訳聖書では、「苦しみ多く」と訳されております。いろんな訳をみましても、「苦しみ多く」という意味の訳が正しいようであります。「苦しみが多い」というのと、「不しあわせで」というのでは、少し意味がちがってくるのではないかと思います。苦しみが多かったけれど、よかった、幸せだったとも述懐することもできるからであります。「不仕合わせで」という表現は、自分の今までの人生をふりかっての評価がこめら れているのであります。口語訳はそういう意味では少し訳しすぎかもしれませんが、しかしなにかヤコブ物語の全体から受ける感じは、ヤコブがここに来て、「ふしあわせで」と、ここを訳したくなるのもわかる気がいたします。

 ヤコブの人生に楽しい祝福に満ちた時というのがあっただろうか。長子の特権を兄エサウから奪いながら、なんらその実質的な財産分与があったたことを聖書は記しておりませんし、それよりは、卑劣な手段で長子の祝福を奪ったばかりに、兄エサウの恨みをかい、殺されそうになって、故郷を追われる身になるわけです。そうしてそのところでさんざん苦労して自分を殺そうとしているかもしれない兄エサウが待ちかまえている故郷に帰ることになるわけです。さいわいそこで兄エサウと和解いたしますが、ようやく安住の地を得たと思ったシケムの町では、娘のデナが土地の若者に陵辱されたことがきっかけになって、息子たちの残忍なまた卑劣な復讐を引き起こし、そこにもおれなくなる始末なのでりあます。

 そして息子のなかでも一番愛していたヨセフは兄弟達の妬みをかい、エジプトに奴隷として売られてしまう。ヤコブはそのことは知らないで、ヨセフは野獣にかみ殺されたと報告を受けて悲しみにくれるのであります。そして今度は再びベニヤミンまで失いそうになる。そういう人生がヤコブの人生だったのであります。それはまことに苦しみの多かった人生、不仕合わせな人生だったといっても仕方ない人生だったかも知れない。彼の人生で楽しい時というものがあったのでしょうか。もしあったとしたら、叔父ラバンのところでその娘ラケルに恋して、そのラケルを嫁にするために七年叔父のために働いた時であったかも知れません。その期間は聖書によれば、「ヤコブは七年の間ラケルのために働いたが、彼女を愛したので、ただ数日のように思われた」と記しているのであります。幸せと言えば、この七年間の時だけだったのではないか。

 長子の祝福を受けるということは、必ずしもこの世的な意味で幸福だったとは言えないようであります。この世的な意味では、ヤコブの人生というのは、本当に苦しみの多い年月だったのであります。ヤコブが長子の特権を兄エサウから奪いとり、やがてイスラエル民族の父祖として、イスラエルという名前に変えられますが、イスラエル民族というのは、まさに流浪の民で、今日までいまだに安定しない民族の歴史をたどって来ているのであります。現在のイスラエルの民も決して安泰でないことはテロにいつもさらされている様子をみてもわかるのであります。イスラエル民族というのは、ある意味では本質的に流浪の民で、一生寄留の他国人としてこの地上に住み続ける民族なのかもしれない。それをこのヤコブの「わたしのよわいの日はわずかで、ふしあわせで」という述懐なのだと言えるかも知れません。この言葉は将来のイスラエル民族の運命を暗示する言葉なのだと、ある聖書の注解者は述べているのであります。

 このヤコブの「わたしのよわいの日はわずかで、ふしあわせで」という言葉でわたしが思いだすのは、森有正や関屋綾子の母の言葉であります。その母というのは、文部大臣をした森有礼の息子、森明という大変優れた牧師の妻であります。その母について、娘の関屋綾子さんがある本に書いているのですが、母が死ぬ前日に、母はふと誰にいうともなく、かぼそい声でこうつぶやいたというのです。「わたしは一生、不しあわせせだった」と、つぶやいた。関屋さんはこう記してりおます。「『わたしは一生、不しあわせだった』と。それは静かではあったが、何かしら迷いのない透徹した言葉だった。私は返事するでもなく、ただその言葉を心に受けとめてうなずいた。『そんなことないでしょ、それは比較の問題でしょ』などとは到底言えない、一人の人間の魂の底から語られる真実な気持ちとして受けとめたからである。

 その言葉は母が一生涯を通して、耐えて生きて来た大小すべてのことがらから立ち上るひそやかな息の如くに受け取れた。それは死の平野を見渡した者のみが持つ、心せわしい生の平野に再びもどらいなことを知っている者ののみが持つ言葉なのである」と書いているのであります。お母さんは翌日静かに息を引き取ったというのであります。その母というのは貴族の家系で生まれて、その没落を経験し、そして牧師である主人のもとで労苦の多い生涯を送った人なのであります。その人が死ぬ前日に誰にいうともなく「わたしは一生、不仕合わせだった」とかぼそい声でつぶやいたというのは、胸をつかれたのであります。それをそのまま書き記している娘である関屋綾子さんという人もすごい人だと思います。わたしはこの言葉を読んだ時に、すぐこのヤコブの言葉を思いだしたのであります。

 神から祝福を受ける、長子としての祝福を受けるということと、この地上での幸不幸とは、必ずしも一致しないのだということ、一致しなくてもひとつも不思議はないということであります。なぜなら、神の祝福を受けるということは、われわれの本当のふるさとはこの地上にはないということ、われわれの本当のふるさとは天にあるのだということだからであります。関屋綾子さんのお母さんが死ぬ前の日に、「わたしは一生、不しあわせだった」と言ったという言葉は、「死の平野を見渡した者のみが持つ、心せわしい生の平野に再びもどらないことを知っている者のみの持つ言葉」だったのであります。

 へブル人の手紙では、こうしたイスラエルの族長たち、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフたちは、みな天にあるふるさとを望んでいたのだというのであります。「まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして地上では旅人であり寄留者であることを、自らいいあらわしていたのだ」と記しております。

 確かに自分の親が死ぬ前に、「わたしの一生は不仕合わせだった」などと述懐されたら、子供としたらショックかも知れません。しかしわれわれはその言葉の背後にあるもっと深い意味を読みとらなくてはならないと思います。どんなにこの地上で幸せな人生を送ろうが、あるいは不仕合わせな人生を送ろうが、われわれの人生はこの地上だけで終わるのではないということを知っておきたいと思います。

 それではヤコブは自分の人生を振り返って、ただ不仕合わせだったとしか思わなかったのか。自分の人生をすべてマイナスとしてしか、否定的にしか見ることができなかったのか。そうではなかったということが、やがてヤコブが自分の死が近いことを自覚し、ヨセフの子供を祝福した時のことでわかるのでりあます。ヤコブから見れば孫に当たります。ヨセフがエジプトに来てから生まれた孫であります。マナセとエフライムであります。この時ヤコブはもう目がかすんでいたというのです。それでヨセフはマナセを長子として、エフライムを次男として、祝福を受けられるようにと、父ヤコブの前に座らせた。ところがヤコブは右の手を弟であるエフライムの頭におき、左の手をマナセの頭に置いて祝福した。

 それでヨセフはあわてて、「お父さんはそれは違います。こちらが長子ですよ、その頭にあなたの右の手をおいて祝福してください」といいます。するとヤコブはそれを拒んでこういうのであります。「わかっている。子よ、わたしにはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大いなる者となり、その子孫は多くの国民となるであろう」というのであります。ヤコブは意識的にエフライムを長子として祝福しているのであります。ヨセフの「それは違います」という指摘に対して、ヤコブは「わかっている、子よ、わたしにはわかっている」と答えますが、この言葉には、ヤコブのこれまで歩んできた人生をふりかって、これでよかったのだ、自分が兄エサウから長子の祝福を奪い取ってしまったこと、それもよかったのだという思いが込められているのではないかと思うのです。そうでなければ、わざわざ弟であるエフライムを長子として祝福する筈はないからであります。もし自分の人生が呪われた人生だったとヤコブが思っていたら、自分の孫に二の舞は踏ませる筈はないからであります。

ヤコブは母の胎内を出る時からすでに「兄は弟に仕えるであろう」と、神から、弟でありながら、長子として選ばれていたのであります。もちろんだからといって、その後のヤコブの人生は神のあやつり人形だったというのではありません。ヤコブはヤコブの思いで自分の自由な意志で自分の人生を歩んでいくのであります。ヤコブは長子の特権を奪い、長子の祝福を奪い取っていく、そのために苦労の多い人生を歩まざるを得なかったかもしれない。しかしその背後にやはり神の強力な導きがあったのだと今ヤコブは思って、死を迎えようとしているのではないかと思います。

 ヤコブは神に選ばれた者でした。生まれる前から、長子として、イスラエル民族の父祖として選ばれていたのであります。ヤコブはこの世的な意味では労苦の多い、あるいは不仕合わせな生涯であったかも知れませんが、しかしヤコブは神に選ばれていたが故に、どんなに追いつめられても、そのところで神はヤコブを祝福しました。ベテルで天の梯子の夢を見させて祝福し、ヤボクの渡し場では、神の使いと相撲をとらせて、祝福いたしました。それはこの地上の幸福不幸を超えて、はるかに深い幸せな人生だったのではないかと思います。ヤコブは自分の本当のふるさとは天にあるという望みをいつももって生き、そして死んだ人生だったからであります。