「ヨセフの死」 創世記五○章

 今日で創世記の説教は終わります。ちょうど五十回目になります。創世記はヨセフの死の前に、ヨセフの父ヤコブの死について語ります。ヤコブは先週学びましたように、ヨセフの孫、マナセとエフライムを祝福したあと、自分の息子たちを呼び寄せて、祝福します。四九章にその内容が記されておりますが、これはヤコブ自身の祝福の言葉というよりも、後の人々があとから、ヤコブが語ったという形式をとったもので、あまり信仰的には意味のないところです。歴史的、考古学的には意味があるのかもしれませんが、われわれにはあまり意味があるとは思えませんので、そこは触れないでおきます。そしてヤコブは自分の子供達にこういいます。

 「『わたしはわが民に加えられようとしている。あなたがたはヘテびとエフロンの畑にあるほら穴に、わたしの先祖たちと共にわたしを葬ってくれ。そのほら穴はカナンの地のマムレの東にあるマクペラの畑にあり、アブラハムがヘテひどエフロンから畑と共に買い取り、所有の墓地としたもので、そこにアブラハムと妻サラとが葬られ、イサクと妻リベカもそこに葬られたが、わたしはまたそこにレアを葬った。あの畑とその中にあるほら穴とはヘテの人々から買ったものだ。』」そして聖書はこう書き記します。「こうして、ヤコブは子達に命じて、足を床におさめ、息絶えて、その民に加えられた。」

 ヤコブは後のヨセフもそうですが、どうしてもエジプトの墓には入りたくなかったようです。神が賜った約束の地カナンの土地に葬られることを執拗に望むのであります。ヨセフも死ぬ前に、兄弟達にこう頼みます。「わたしはやがて死にます。神は必ずあなたがを顧みて、この国から連れだし、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地に導き上られるでしょう。その時、あなたがたはわたしの骨をここから携え上ってほしい」と頼むのであります。この時もうエジプトには、偉大な人の墓はピラミットのように壮大な墓があったのかも知れないし、そして死体はみなミイラとして保存していたのかもしれません。ヤコブもヨセフもそういう大きな墓には入りたくなかったし、またミイラという形で自分の肉体を残しておきたくないということだったのかも知れません。それよりも神が与えくださった約束の地の小さなマクペラの洞穴に入りたいと切実に願ったようであります。そして先祖たち共に葬られ、その民に加わりたいと願ったようであります。

 ちなみに、ヨセフは百十歳で死んだと記されております。これは比較的短い年齢のようであります。ヤコブがエジプトの王パロから「あなたの年はいくつか」と聞かれた時に、「わたしのよわいは百三十年で、わたしのよわいの日はわずかで、ふしあわせで、わたしの先祖たちのよわいの日と旅路の日には及びません」と言っている事に比べれば、そしてヤコブが実際に死んだのは百四十七年でしたから、それに比べればずいぶん短いのであります。そしてヨセフは自分の死のことを自分よりも上の兄弟たちに頼んでいるのであります。ヨセフは自分の兄さんたちよりも先に死んだようであります。

 さて、ヨセフは父ヤコブが死ぬと、父の顔に伏して泣き、口付けした。その死体に香油を四十日にわたって塗った。そしてエジプト人はこのヨセフの父ヤコブのために七十日の間喪に服したというのであります。これをみてもこの時ヨセフのエジプトでの地位というものがどんなに大きかったということがわかるのであります。そしてそのあと、ヨセフは王パロにヤコブの遺言にしたがって、マクペラの洞穴に父を葬りたいのでそこに行かせてくれ、必ず帰ってくるからと約束して、父を丁重にマクペラの洞穴に葬るのでりあます。

 さて、ヨセフの兄弟たちは父ヤコブが死ぬと不安になったというのです。「ヨセフはことによるとわれわれを憎んで、われわれが彼にしたすべての悪に、仕返しするに違いない」と思いだしたというのです。今までは父ヤコブが生きていたから、歯止めがあったのではないか、しかし今父が死んでしまったら、もうその歯止めがなくなるのではないかと思ったというのです。それで兄弟達は直接ヨセフに会うのを恐れて、言付けした。「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました、『おまえたちはヨセフに言いなさい、「あなたの兄弟たちはあなたに悪をおこなったが、どうかそのとがと罪をゆるしてやってください』。今どうかあなたの父の神に仕えるしもべらのとがをゆるしてください」とことづけたというのです。父ヤコブはそんなことは言っていないのです。兄弟達がただ父ヤコブの権威を利用してヨセフに訴えただけであります。これは彼らが卑劣にも嘘をここでついたということを非難するよりは、それだけ兄弟たちのヨセフに対して行った自分たちの悪と罪におびえていたかということを考えたほうがいいと思います。

 それを聞くと、ヨセフは泣いた、と聖書は記しております。おそらく情けなくてしようがなかったのではないかと思います。なぜ自分があれほどはっきりと兄弟の悪を赦す、もう自分は恨んでいない、だからもう自分をエジプトに売ったことを嘆くことも悔やむことはいらない、と言ったのにどうして信じてもらえないのかと思って情けなかったのだと思います。
 そして兄弟たちは直接ヨセフの前に来て、ひれ伏し、「このとおりわたしたちはあなたのしもべです。」と卑屈になるほどに、身を低くしたというのです。「わたしたちはあなたのしもべです」という訳でははっきりしませんが、ある訳では、「わたしたちはあなたさまの奴隷になります」と訳されているのであります。

 それに対してヨセフはなんといったか。「恐れることはいりません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変わらせて、今日のように多くの民の命を救おうと計られたのです。それ故に恐れることはいりません。わたしはあなたがたとあなたがの子供たちを養いましょう」と言って、彼らを慰めて、親切に語ったというのであります。

 「わたしが神に代わることができましょうか」ということはどう意味なのでしょうか。何故ヨセフはここで神の名をもちだすのでしょうか。それは次のヨセフの言葉が明らかにしています。「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変わらせて、今日のように多くの民の命を救おうと計られたのです」という言葉です。つまり前の箇所にもありましたが、「わたしがここに奴隷としてエジプトにつれてこられたのは、神の導きだったのだ、神が後に自分たちの家族を救うために、わたしを先にエジプトに遣わしたのだ。あなたがたのわたしに対する恨みではないのだ」ということであります。

 「神がなさったことなのだから、わたしはその神に代わって自分がエジプトに売られたことを今更あなたがたを恨むことも憎むこともできない。わたしがあなたがたの悪と罪を赦すのはただ自分の気持ちからではない、神がすべてを支配しておられるということを自分はよくわかったから、もはやあなたがたの悪を恨まないで、赦すことができるのです。わたしが神に支配しているのに、わたしがその神に代わって、自分の思いであなたがたに意地悪をすることができるでしょうか」という意味であります。

 もしこの罪の赦しがヨセフの気持ちからでただけのことであるならば、兄弟たちが感じたように不安だったと思います。人間の心は預言者エレミヤがいっているように、「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだ悪に染まっている。だれがこれをよく知ることができよう」ということになるわけで、ヨセフの気持ちからこの赦しの言葉がでているのであるならば、いつこの気持ちはひっくり返るかわからないだろうと思います。環境が変わればいつだってひっくりかえってしまうかもしれない。お父さんのヤコブが生きている時には、その父に免じて自分たちは赦されたかもしれないけれど、父ヤコブが死んでしまった今、ヨセフの気持ちがひっくり返るかもしれないと、兄弟たちは不安になり、恐れたのであります。

 罪を赦されるということは、本当に大変なことであります。それはなかなか素直に信じられないことであります。その時はうれしくて、ありがたいと思っても、本当にあの人は自分の罪を赦してくれるのだろうか、ゆるしてくれているのだろうかといつも疑いたくなるのではないでしょうか。それは自分がその立場に立って考えてみたら、人間が人の罪を赦すということは本当に難しいということをよく知っているからであります。

 人と人の関係においても、われわれは罪を赦すほうは、ひとたび赦そうと思ったら、案外もう赦したことをけろりと忘れ、その人の罪を忘れてしまうものかもしれませんが、罪赦されたほうはいつまでも、自分の罪は本当に赦されているのだろうかと不安になり、疑うのではないでしょうか。

 われわれはそのことを神との関係にまで持ち込んでしまうのではないか。神はイエス・キリストの十字架においてもうはっきりわれわれの罪を赦してくださったいるのであります。それなのに、われわれは一度はそのことを信じ、受け入れても、それをなかなか信じられないでいるのではないか。そんなうまい話はあるか、ただで赦しいただくなんてことがあるのだろうかと、われわれはついつい疑いだしたくなるのではないか。そうしては、つまらないことを考えて、せめてすこしでもお返しをしなくては申し訳ないなどと考えて、善行にはげもうなどといやしいことを考えだすのではないでしょうか。そうした疑い、そうした不安、そうしたお返しとしての善行を神がどんなに悲しむだろうか。どうしてわたしがお前の罪を赦すとう宣言をお前達は信じようとしないのかといって、神は悲しむのではないでしょうか。

ヨセフは自分の気持ちから兄弟たちの悪と罪を赦したのではないのです。神がもう兄弟たちの罪を赦している、神が兄弟達の悪を善に変えてしまっている、それならば、どうして自分が神に代わって、あなたがたの罪を糾弾できるだろうかというのです。

 ヨセフという人間はすぐ人の罪を赦せるような、そういう心の広い人間ではなかったことはすでに学んだところであります。彼は兄弟たちと再会したときに、すぐ意地悪をし始めるのであります。末の弟をつれてこいといって、兄弟達を困らせるのであります。ヨセフはすぐ兄弟達の罪を赦せたという心の広い人間なぞではないのです。
 
 四七章には、ヨセフという人間がどんなにこの世的に知恵にたけた人間かということを伺わせることが記されております。ききんが続いた時に、始め人々は銀をもって食物を買いにきた。ヨセフその銀をみな集め、その銀をパロの家に納めた。つまり王家の財産として蓄えさせた。そして銀がなくなると、人々は困りはててヨセフに泣きついてきた。その時ヨセフは「あなたがたの家畜をだしなさい。銀が尽きたのなら、あなたがの家畜と引き替えで、食物をわたそう」といって、そのようにして、すべての家畜が王の財産になっていくのであります。そしてその家畜もつきてしまうと、人々のもっている田地、つまり土地と引き替えに、食料を売る、そうして人々の土地もすべて王のものにしてしまうのであります。そうしてすべての民を王の奴隷にしてしまった。ヨセフは民にいいます。「わたしはきょう、あなたがたとその田地とを買い取って、パロのものとした。あなたがたに種をあげるから地にまきなさい。収穫の時は、その五分の一をパロに納め、五分の四を自分のものとして田畑の種とし、自分と家族の食料とし、また子供の食料としなさい。」
ヨセフがいかに知恵者であったかということがわかります。

 彼がいかに政治家であったかということがわかります。ヨセフがいかに搾取家であったかということがわかります。ヨセフは決してお人好しでもなかったし、清廉潔白な義人ではなかっようであります。ですから、ヨセフをイエス・キリストになぞらえて、義人であるイエス・キリストがわれわれの罪を身代わりに担ってわれわれの罪を赦したように、義人ヨセフが兄弟たちの罪を身代わりに担って、その罪を赦したというようにこの物語を読むことはできないと思います。ヨセフはただの人間にすぎないのです。すべてのことは神がなさった、神が支配し、神が導き、そして神が兄弟たちのたくらんだ悪を良きに変わらせたのであります。

 だから安心しなさい、とヨセフは兄弟たちに告げるわけです。「あなだかの罪を赦しているのが、もし自分の気持ちとか自分の思いやりであるならば、あなたがたも安心できないかもしれないけれど、あなたがの罪をゆるしているのは神なのだから、わたしはただその神に従っているだけなのだから、もう安心してください、もう恐れることはいりません」というのであります。

 ヨセフは兄弟たちにこう言って死んでいきます。「わたしはやがて死にます。神は必ずあなたがを顧みて、この国から連れだし、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地に導き上られるでしょう。神は必ずあなたがたを顧みられる。その時、あなたがたはわたしの骨をここから携え上ってください」といって、死んだのであります。ここでヨセフは二度にわたって、「神は必ず」と言う言葉を使うのであります。それがヨセフの信仰だったのであります。そしてこのヨセフ物語は大きな意味ではヤコブ物語の枠のなかで語られることによって、あのヤコブを選んだという不思議な神の選びを更に深めて理解させるのではないか。ヤコブは後にイスラエルと名前を変えられて、やがて選民イスラエルと発展していくのであります。その選民イスラエルはいつもこのヤコブ物語、ヨセフ物語を思いだしつつ、神の不思議な支配と導きを考えていかなくてはならないのであります。神がヨセフをエジプトの頂点に据えたのは、ただヨセフの立身出世のため、ヨセフの幸福のためではなく、他者の命を救うためだったように、神がイスラエル民族を選ばれたのは、ただイスラエルの民の繁栄のためではなく、全世界の 命を救うために選ばれたのであり、イスラエルの民こそ、全世界をとりなす祭司の国にするためだったのであります。

 パウロがこの選民イスラエルの救いを考えた時に、最後に語った言葉は神に対する賛美の言葉でした。
 「ああ、深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。だれが主の心を知っていたか。だれが主の計画にあずかったか。また、だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。万物は神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。」
われわれも創世記の説教を終えるにあたって、神に栄光を帰したい、そして神の深い知恵に信頼し、そのご計画の深さと高さと豊かさを信じていきたいと思います。自分たちのそれぞれのささやかな人生についてだけでなく、この全世界の歴史の運命についてもそのことを信じていきたいと思います。