「すべての人を憐れむために」 ローマ書十一章二五ー三六節

 二五節から、パウロはこう言います。「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです」といいます。

 ここは口語訳聖書では、「秘められた計画」というところは、「この奥義」となっております。奥義というのは、英語でいう「ミステリー」という言葉になったギリシャ語のミステリオンという言葉であります。

 この秘められた神様のご計画、ミステリーともいわれる神様の奥義とはなんなのでしょうか。それはひとことでいえば、今はイスラエルの民はかたくなにキリストを受けいれないでいるけれど、それは、それによって福音が異邦人に及ぶためであり、そしてそうなることによって、イスラエル人はそれを妬み、やがて、イスラエルの民もキリストを受け入れるようになって、すべての人が救われるようになる、そういう神の秘めたる救いの計画のことであります。

 それはひとことでいえば、三二節の言葉「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」ということであります。要するに、神は選民イスラエルはもちろんのこと、異邦人も、すべての人を救おうとしているのだということであります。

 神学用語で、「万人救済」という言葉がありますが、それは万人、すべての人が救われるという教義であります。そしてそのことは、賢い者にとっては受け入れがたいことのようなのであります。
 
 賢い人達、口語訳では、「知者」になっておりますが、賢い人たちは、救いについてはこう考えているようなのです。それは、やはり救われるのは、悔い改めて、神様を信じるようになって、はじめて救われるのであって、すべての人が救われるわけはない、やはり、そこには、救われる人と救われない人というのが存在するのだ、そういう差別があるのだ、そうして賢い人達は、自分たちにはそういう特権を与えられているのだ、そういうふうに、賢い人たちは救いということを考えているようなのであります。

 それをパウロは、賢い者たちのうぬぼれだというのです。賢い者たちにはうぬぼれがあるようなのです。それは自分たちは救われているといううぬぼれかもしれませんし、自分達には、神様の救いの計画はわかっているといううぬぼれなのかもしれません。

 しかし、パウロはそういう賢い者たちのうぬぼれを粉砕する神のひめられた救いのご計画、神のミステリー、神の奥義を語るというのです。それはすべての人が救われるのだということであります。

 神学では、この万人救済というのは、あまり好んで論じられないのです。あるいはあまり声だかに、語られない、主張されないといってもいいかもしれません。
このローマ書の十一章を素直に読んでいけば、、たとえば、一二節で「彼らの罪が世の富てなり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにすばらしいことでしょう」という言葉、そして三二節の「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それはすべての人を憐れむためだったのです」という言葉を読んでみれば、万人救済ということがこんなにも明確に述べられていることは明らかなのに、神学では、このことは声だかに主張されないです。

 それはなぜかといいますと、どうもそれでは地獄の存在を否定するとこになるからのようなのです。それでは最後の審判の緊迫性はなくなってしまうではないかということなのです。その裏には、それでは自分たちはなぜ一生懸命信仰に励んでいるのかというなにか世俗的な思いが感じられるのですが、万人救済は教会にとっては、都合の悪い説なので、キリスト教会にとっては、正統的な説にはなっていないようなのです。

 もう一つ、万人救済説をあまり主張できないという神学上の問題は、救いの問題をすべて人間側の考えで論じてもいいのかということにあります。つまり、だれが救われる、救われないかは、最後的には、神の権能に委ねるべきであって、人間が自分勝手に、すべての人が救われるのだなどといって、神様のもっている権能を奪うことは、それこそ、人間のうぬぼれではないか、それは神の権能に対する介入ではないかということなのです。

 それで思い起こす聖書の箇所は、創世記の一八章の記事であります。ここはアブラハムの甥ロトが住んでいるソドムという町が退廃して神に反逆しているので、神様は、そのソドムの町を滅ぼそうとするという記事であります。しかし神はこのことをアブラハムに隠しておいてよいだろうかと思われて、神はアブラハムにこのことを打ち明けるのです。
 アブラハムはそれを知って主の前に立ってこう訴えるのです。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をおゆるしにならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたはなさるはずはありません。そんなことは全くあり得ないことです。全世界を裁くかたは、正義を行われるべきではありませんか」と神に訴えるのであります。
 その町に五十人の正しい者がいたら、その町を滅ぼすことをやめてくださいと訴えるのです。

 それに対して神は「もしソドムの町に正しい者が五十人するならば、その者たちのために、町全体赦そう」といわれるのです。

 それに対してアブラハムはさらに食い下がります。「ちりあくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しいものに五人足らないかもしれません。それでもあなたは五人足らないために、町のすべてを滅ぼしなさいますか」と、訴えますと、主なる神は「もし、四十五人の正しい人がいたら滅ぼさない」といいます。
 するとアブラハムは、さらに食い下がって、もしかすると、「四十人しかいないかも、知れません」といいます。それに対して、神様も四十人いたら町を滅ぼさないといいます。

 そのようにアブラハムは食い下がって、「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、その町には十人の正しい人しかいないかもしれません」と、いいますと、神は「その十人の正しい者のためにわたしは滅ぼさない」と言われたのです。そうして、主はそうアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰ったと記されているのであります。

 ここのところをある人が説教していて、アブラハムはなぜ「十人の正しい者がいたら」というところで、神に食い下がるのをやめてしまったのか、もっともっと食い下がって、最後は「もし一人の正しい人がいてもその町を滅ぼしてしまうのですか。一人の正しいひとがいたら、その町を滅ぼさないと約束してください」、となぜ食い下がらなかったのか。それをしなかったところに、アブラハムの信仰的姿勢があるのだ、神が人間を裁くか裁かないか、神が赦すか、赦さないかは、最後の所は神の権限にかかわることであって、人間の権限にあるのはない、まして人間の権利などではない、だからアブラハムは人間が裁かれるかどうかという裁きと赦しに関しては、最後には神様に委ねたのだいっている」のであります。
わたしはそれを読んで、なるほどなあと思いました。

ですから、われわれ人間が万人救済、神様は最後にはすべての人を救うのだ、救ってくださるのだということは、われわれ人間があまり声だかにいうべきことではない、神の裁きと赦しの権限は最後のところは、神様にあるのだから、万人救済ということを、キリスト教の定理のようにして、教義として定着させてはいけないのだということであります。

 それにしても、この創世記の記事の記述は、慎重であります。といいますのは、「その十人の正しい者がいたら、その町を滅ぼさない」と、神はアブラハムに語り終えると、去っていかれた、そうしてアブラハムも自分の町に帰っていった、と記されているのです。つまり、この問答を打ち切ったのは、アブラハムのほうではなく、神がこの問答を打ち切ったということであります。

 神のほうで、裁きの権限は、神ご自身にあることを明らかにし、それを保持するために、アブラハムに「もし一人の正しい者がいたら、この町を赦してくださいますか」と、いわせなかったということであります。
 
 神はアブラハムに対して、「十人の正しい者がいたら、その町を滅ぼさない」と約束しました。しかしそのあと、神はアブラハムにもうそれ以上のことはいわせないで、その場を去っていかれたのであります。

 神は、ご自身のお考えでは、もうすでにこのときに「もし一人の正しい人がいたら、その町を滅ぼさない、その町を赦す、いや、もし一人の正しい人がいたら、すべての罪人を赦す」ということをすでに神のご計画のなかに潜めておられたのではないか。だから神はそこを去っていったのではないかと思うのです。

 パウロはすでにこういっているのです。「ひとりの罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです」といっているのであります。

 ソドムの町に十人の正しい人がいたら、その町全体を赦すといわれた神は、それどころの話ではなく、一人の正しいひとがいたら、すべての罪人、すべての人を赦すのだと神は決意し、その救いのご計画を実行なさったのであります。一人の人、イエス・キリスト、そのかたの従順な正しい行為によって、すぺての人、すべての罪人を救うというご計画をもっていらしたということであります。
 これこそ、神様の秘められた救いのご計画、神の奥義なのであります。

 「神の賜物と招きは変えられることはない」のであります。ここは口語訳では、「神の賜物と召しは変えられることはない」なっております。

 パウロは、万人救済、神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それはすべての人を憐れむためだった、という万人救済といってもいい教えをパウロは、イエス・キリストの贖いの救いを信じたからこそ、宣べ伝えることができたのであります。それはパウロの自分勝手な願望、人間のご都合主義から生まれた教理ではないのです。

 パウロは自分自身がそれによって救われた、その救いの経験から与えられた救いの論理なのであります。

万人救済という教理は、確かにある意味では、危険な教理であるかもしれません。救いの権能を自分たちが握っているとおごり高ぶっている教会の権威を失墜させる教えだからであります。
 すべての人がただ神の憐れみによって救われるのであるならば、なにも教会は必要なくなるし、信仰生活も無意味に思わせられるからであります。

 しかし、この万人救済という教えは、クリスチャン以外の人に向かって、すべての人は救われるんですよ、と、街頭にでもでていって、スピーカーで呼びかける教理ではないのです。そんなことをしてもなんの意味もないことであります。なんの関心も引き起こさないのです。

 この万人救済という教えは、実はすでに救われているわれわれクリスチャンにとっての大事な、救いのよりどころとなる教えなのではないか。これは信仰者以外の人に呼びかける教えではなく、信仰をもっているわれわれ自身に呼びかける教えなのではないか。

 われわれはそれほど自分の信仰に自信がないのです。いつもいつも本当に自分は救われているのだろうか、最後まで自分は信仰をたもっていけるのだろうか、最後に死ぬときに、南無阿弥陀仏と唱え出すのではないかと不安なのです。そういうわれわれにとって、神はすべての人を憐れむために、われわれをある時には不信仰に、あるときには、不従順のなかに閉じ込められるのだ、そうして最後にはその人を憐れむのだというパウロの言葉は慰めめであります、救いであります。

 すべての人は救われるのだと言う教えは、なによりもわれわれクリスチャンにとってしっかりと信じていかなくてはならない教えなのであります。

 パウロは最後にこういいます。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを窮め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか』」というのです。

 パウロは最後に「だれが神の定めを窮め尽くし、神の道を理解し尽くしせようか」というのです。これでは、パウロが今まで一生懸命に神の救いの計画について述べてきたことを、パウロみずからが、全面否定しいるような言葉なのではないか。

 これでは、パウロが、本当のところは、わたしにはわかりません、といっているようなものではないか。しかし、パウロはそのことをひとつも悪びれることもなく、堂々とのべて、「ああ、深いかな、神の知恵と知識との富は。その裁きは究めがたく、その道は測りがたい」と、心から神を賛美して、この箇所を終えているのであります。わたしはここを読むときに、パウロという人に対して、なにか一種のほほえましさ、パウロのユーモアすら感じずにはおられないのであります。

 本当のところ、万人救済などという教理は、間違っているかもしれない、しかし、そんなことはどうでもいいことだ、救いのことは、すべて神様にお委ねましょうと、パウロはわれわれにいっているような気がいたします。

 「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている。栄光が神に永遠にありますように」といって、われわれも神の前にひれ伏して、神を賛美したいのであります。