「種まきのたとえ」     マタイ福音書一三章一ー九節


 イエスはご自分の伝道の失敗について語るのであります。われわれが伝道の失敗について話をするのであるならば、わかります。牧師が伝道の失敗について語ることなら、珍しい事ではありません。そんな事は当たり前のことであるかも知れません。しかし、イエス・キリストは神の子なのであります。その神の子であるイエス・キリストが伝道の失敗について語るのであります。

 「種蒔きが種をまきに出ていった。まいているうちに、道ばたに落ちてしまった。すると鳥が来て食べてしまった。ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。実を結ばなかった。」
 
このようにして、イエスは伝道の失敗について語りだすのであります。自分がまいた福音の種はとうとう実をむすばなかった。あの人は今どこにいってしまったのだろうか、恐らくイエスは深い悲しみと嘆きの思いをもってこの種のたとえを語っているのではないでしょうか。
 
 大庭みな子という作家が、自分の母校であります津田塾大学の創始者津田梅子の伝記を書きまして大変高い評価を得ております。大庭みな子は直接津田梅子について習ったわけではないようですが、いろいろな資料を掘り起こして、津田梅子の伝記を書いたわけです。大庭みな子は、その事について、ある人との対談でこんな事を言っているのであります。

 その伝記を書かないかと言われた時、これは自分にあまり合わない仕事じゃないかと最初思ったというのです。なぜかといいますと、自分はどちらかというと、津田梅子と全く違って、ろくでもないことばかりして、低空飛行を続けていたし、ある意味ではドロップアウトの目で文学をやるという生き方しかしていないので、こういう立派な人を扱うということが自分にできるかしらと思ったというのです。そしてこういうのであります。「もっとも、そういう反逆者を育てるのは教育の運命みたいなものですわね。しょうがありませんわね」。それを受けて、その対談者の相手である河合隼雄という心理学者がこういうのであります。「反逆者が育たなかったら教育の価値はないですよ」。

 反逆者を育てるのは教育の宿命みたいなものだというのです。反逆者が育たなかったら教育の価値はない、というのです。この言葉は、牧会ということに携わっているわたしにとっても何かほっとする言葉だったのであります。

 イエスの選ばれた弟子からは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダがでるのであります。イエスほどの人がどうしてそんな事をゆるすのかと、不思議に思うかも知れません。しかし、それはイエス・キリストが本当の教育者だったからではないか。
 イエス・キリストが本当の教育者だったということは、イエスのなさった教育の方法、伝道の方法が、正しいやりかただったという事であります。それはどういう方法だったかといいますと、それは「言葉」による教育、伝道だったということであります。

 イエスは後に弟子達にこのたとえの説明をするのですが、一四節をみますと「種まきは御言葉を蒔くのである」と説明しております。

 イエスがおとりになった伝道の方法、あるいは教育の方法は、ビディオをみせたりして、人を心理的に追い込んで、人を洗脳するようなやりかたではなかったのであります。あるいは、イエスのなさった方法は、腕力とかで人をおどかすようにして、人を教育するスパルタ教育でもなかった。

 ある人が言っております。「スパルタ教育というのは、ケースによって差があるだろうけれど、意志強固な人間をつくるのではなく、時には逆に、依頼心の強い人間を造ってしまう。甘ったれた人間を造ってしまう。叱られなければ何もできない人間になってしまったという事ではないか」といっているのであります。

 人に命令されなければ、何もできない人間になってしまうのだというのであります。しかしイエスはそういう方法はとらなかった。御言葉、言葉を通して福音を語った。

 それは人格的感化を通して人に影響を与えるという事でもなかったのであります。勿論イエスほどの人なのですから、イエスは弟子達に人格的影響を与えなかった筈はないと思います。しかしイエスはできるだけそれは押さえようとしたのではなかったか。イエスは弟子達との間に、いつもある距離を置こうとしたのではなかったか。人格的な影響を与えるという事は、教育の方法としては、確かに大事な要素かも知れませんが、しかし、それはしばしば弊害をともなうのではないでしょうか。
 なぜかと言いますと、人格的影響というのは、しばしば相手の個性を押しつぶしてしまう事になりかねないからであります。人間はみな生まれた環境も性質も能力も違うのであります。ところが人格的影響を与えると言う事は、その先生が立派であればあるほど、その先生と同じような生き方を強いる、その先生とおなじようにならないといけないということに追い込んでしまいかねないのではないか。

 それは大変な無理を強いる事になる。自分の個性を押しつぶして、その先生の真似をしている事になるので、教育としては一番悪い教育になってしまうのではないかと思います。人格的影響を受けた人は、始終自分はあの先生のお世話になったのだ、あの牧師さんに救われたのだと、まるでその先生を神様のように奉る事になるのではないか、それは果たして立派な教育の成果といえるのか。

 イエスは、しかしあくまで、言葉で人を導こうとしたのであります。言葉はそれをしっかりと聞こうとしないと、その人の中に根をおろさないのであります。だからこの方法は一方的なものではなく、導かれる側の主体性がいつも大事にされるのであります。だからイエスはしばしば「聞きなさい」というのであります。「聞く耳のある者は聞くがよい」と言われるのであります。

 後に、十二弟子とそばにいた人が、このたとえの意味についてイエスに訊ね、イエスがこの「たとえ」を解説しております。

 その時、イエスは「たとえ」とは違った視点から、このたとえを解説しているのであります。つまり、「たとえ」そのものは、種をまいた農夫の立場から、道ばたに落ちてしまった種、石地に落ちてしまった種、いばらに落ちた種、そしてよい地に落ちた種と、種をまく農夫の側から、語るのに対して、その解説では、種をまかれた側、つまりイエスの御言葉を受けとめる事に失敗してしまった人間の態度からこの解説をするのであります。

 そして本当は、この解説の視点の方が事実に即した事であります。なぜならば、種を蒔く農夫は、種をわざわざ道ばたに蒔いたり、石地に蒔いたりするはずはないのであって、農夫はみな良い地に蒔こうとしている筈だからであります。その種を道ばたに落ちた種、石地に落ちた種にしてしまったのは、イエスの御言葉を聞いて、それを正しく受け止めることをしなかったわれわれ人間の方に責任があるからであります。

 御言葉を語るイエスの方では、この言葉を信じて受け入れて救われて欲しいと願って、福音の宣教に当たっているわけで、イエスの方に人を差別するつもりは一つもなく、従ってイエスの方からわざわざ福音の種を道ばたや石地やいばらに蒔くはずはないからであります。

 問題はいつも、それを受けとめるわれわれ人間の方だからであります。つまりその福音の種を実らせるかどうかの責任は、イエスの方にあるのではなく、われわれ人間の方に責任があるのであります。
 われわれがイエスのみ言葉を始めから受け付けないで、サタンに奪わせてしまって、その種を道ばたに落ちた種にしてしまうのであります。われわれ人間の方が、イエスの御言葉を、始めはすぐ喜んで受け入れるが、それをじっくりとしっかりと自分の中に受けとめようとしないので、困難や迫害に会うと、すぐそれを捨ててしまって、その福音の種を石地に落ちた種にしてしまうのであります。また、同じようにして、その福音の種をいばらに落ちた種にしてしまうのであります。

 ですから、福音が宣べ伝えられるという事実に即していえば、この「たとえ」の解説の方が正しい視点なのであります。
 しかしイエスは最初の「たとえ」そのものでは、ご自分を種をまく農夫にたとえて、自分の伝道について語るのであります。農夫ならば、種をまく時に、種がたまたま風に吹かれて、道ばたにとんでしまい、石地に飛んでしまい、そしていばらの中に落ちてしまうという事もあるのであります。それは農夫の責任なのかもしれません。

 しかし福音を宣べ伝えるという事から言えば、福音を石地にまくという事はない筈であります。福音の場合には、あくまでそれは福音を受け取る人の責任なのであります。福音を受け取る人の失敗なのであります。福音を宣べ伝える人の責任ではない筈であります。それにも拘らず、イエスは伝道の失敗を、あくまでご自分の責任として、とらえようとしているために、この様に農夫の嘆きと自分の嘆きを重ね合わせて、語っているのであります。

 人間の伝道者ならば、伝道のやりかたがまずかったというように、その伝道の失敗を伝道者の責任として感じなければならない時はいくらでもあると思います。しかし、ほかならぬイエスに伝道の失敗などあるはずはないのです。それなのにイエスはここで、すべての責任は自分にあるかのように、伝道の失敗を悲しみ嘆くのであります。ここにイエスの深い愛をわれわれは感じるのであります。

 人を愛するという事は、こういうことなのではないでしょうか。相手の失敗を自分の責任として深く感じて悲しみ、その責任を担っていこうとするのであります。子供が間違いを犯した時には、もうたとえその子供が成人に達していようが、親はああ自分の教育の仕方がわるかった、あの時もっと厳しくしつけておけばよかったのにと、嘆くのではないでしょうか。

 牧師にとっては、自分が洗礼を授けた人が、その人の側にどんな事情があろうと、教会を離れ、信仰を捨てていくのを見るときに、こんなに悲しい事はないし、こんなに責任を感じる事はないのであります。

 イエス・キリストはしかしセンチメンタルな人ではありませんでした。伝道の失敗をご自分の責任として深く受けとめながら、しかしそれだけにとどまっておられたのではないのであります。

 イエスは、「この伝道の失敗は、わたしの御言葉をしっかりと受けとめないお前たち人間にある」という事を厳しく語るのであります。それがこの「たとえ」の解説なのであります。イエスは伝道の失敗を自分の責任として深く受けとめ、そしてそのために深く悲しみ、嘆きながら、しかし福音を受けとめなかった人間の責任の所在も明らかにするのであります。御言葉をしっかりとお前達が受けとめないから実を結ばなかったのだと、責任の所在をはっきりさせるのであります。そうしないと、イエスおひとりがいたずらに嘆いても問題は一つも解決しないからであります。

 子供に対する親の立場もそういうものではないでしょうか。心の中では、子供の過ちを自分の責任として感じ、嘆きながら、しかし子供の責任は責任として、きちんと責任をとらせなくてはならないのであります。それがセンチメンタルでないという事であります。

 イエスはわれわれ人間の罪に対して、イエス自ら責任を担ってわれわれの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったのであります。それでは、われわれは自分の罪に対する責任はもうないのかと言えば、そうではなく、イエスがわれわれの罪を担ってくださったが故に、そのイエスの愛に支えられ、励まされて、われわれは自分の罪に対して深い責任を感じ、自分の罪と戦わなくてならないのであります。

 イエスが福音を種にたとえられた意味は大切であります。種というのは、その種がどんなに強力で優秀であったとしても、種はそれを受け入れる土がなければ、育たないからであります。福音という種は、極めて人格的なものだという事であります。それは暴力的にわれわれの中に入り込んでくるものではないのであります。イエス・キリストは、われわれがわれわれの方から、自分の堅い心の扉を、自分の方からあけるのを待って下さっていて、忍耐強く、われわれの外側から、われわれの心の扉をたたいてくださっていてくれるのであります。

 種は良い地でないと育たないのであります。良い地とは何か。イエスは実に簡単にその事を説明するのであります。「良い地にまかれたものとは、み言葉を聞いて悟る人のことだ」というのです。ここはマルコによる福音書では、「御言葉を聞いて受け入れる人のことだ」といっております。「受け入れる」「受け入れさえすればいい」と、きわめて、きわめて単純に言っております。そしてルカによる福音書では、「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で、御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人」といっております。

 マタイやルカは、少しわれわれ人間の受け入れ体制に言及しすぎているように思われます。「悟る」とか「立派な善い心」とか、「忍耐して」と少し面倒くさいことをいっておりますけれど、もともとは、マルコ福音書にあるように、「受け入れる」ということさえすれば良いと思うのです。なによりも「受け入れる」ということなのです。別に立派な心でなくてもいいのです、別に悟らなくてもいいのです、受け入れさえすればいいのです。

 マルコ福音書には、このあとこういうことを言っているのです。
 「神の国は次ぎのようなものだ。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次ぎに穂、そしてその穂には豊な実ができる」というのです。

 種はひとたび、土に蒔かれたら、ひとたび、土に根を下ろしさえすれば、種それ自体の力で、ひとりでに、口語訳聖書では、「おのずから」と訳しておりますが、本当に種それ自体の力が働いて、ひとりでに、おのずから、実を結ばせるのだというのであります。われわれの態度いかんにかかわらずであります。
 自分の心の態度よりも、種それ自体の力を信じることのほうが大事であります。

 確か、岩手県の盛岡にある県庁か裁判所の庭に、大きな桜の木があって、その木の根元は大きな岩なのです。つまり、その桜の種があるとき岩に付着したら、その付着した種がその岩を裂いて、その種は岩を割って、土にまで達して、大きな桜になったという名所があります。

 種それ自体の力というものは、岩をもくだくものなのだということであります。

 福音という種、聖書の言葉というものは、ひとたびわれわれの心にまかれたならば、その聖書の御言葉は、いつかその人の心のなかに根付くものであります。
だから、教会学校というものが大事だと思うのです。教会学校で学んでも、たいていは中学や高校に入る頃は、忙しくなって、教会から離れる例が多いと思います。しかしひとたび、教会学校で学んだひとは、大人になっても、いつかふと聖書の言葉を思いだして、教会に帰ってくるという場合が多いのであります。

 これはわたしの先生から聞いた話ですが、ある大きな教会の牧師のことですが、牧師仲間で、悪口をいって、あの先生の説教はたいしたことはないのに、どうしてあの教会では、毎年受洗者がでるのだろうという話になった。そうしたら、それはあの先生はともかく聖書の話をしているからだということになったというのであります。

 福音という種を受け入れさえすれば、そうしたら、もう種そのものの力が、種そのものの生命力が力を発揮して、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶというのであります。福音という種の力を信じていきたいと思うのであります。