「足ることを学ぶ」4章10−14節

 「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう」。ここは口語訳ではこうなっております。「さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたしを思う心が、あなたがたに今またついに芽生えてきたことである」となっております。

 これはある意味ではずいぶんもってまわった言い方に聞こえますし、何か傲慢にも聞こえる言い方であります。言っていることは、要するに、フィリピの教会の人々が自分のことを心にかけてくれるようになってうれしいということです。つまり、自分が親切を受けたこと自体がうれしいというのではなく、そういう心があなたがたの心に今またついに芽生えてきたことを喜ぶというのです。

 何かものをもらったのかも知れない、あるいはお金の援助を受けたのかも知れない。そのことがうれしいのではなく、そうしたことをするようにあなたがたがなったことがうれしいというのです。つまり、自分自身に関しては、何も助けてもらう必要はないのだ、といわんばかりであります。

 現に、一一節をみますと、「わたしは物ほしさにこういうのではない」というのです。ものをもらっていて、そういう言い方はないだろうと思います。

 確かに、ずいぶんもってまわった言い方かも知れませんが、しかし素直に考えてみれば、このパウロの言い方は本当にその通りだろうと思います。つまり、人からものをもらってうれしいのは、やはりものそれ自体ではなく、ものをおくってくれたというその心がうれしいのは間違いないことだと思います。

 たとえば、子供が就職して、最初の給料でなにかを買って親にプレゼントしてくれる、その時、親はそのプレゼントそのものよりも、今まで親から受ける立場にばかりいた者が、与える側にも立つようになったということ、他人のことも考えられるようになったことを喜ぶのではないでしょうか。今パウロの気持ちはそうした気持ちなのではないかと思います。

 自分が一生懸命愛し、心をかけてきた人が、今までは愛を受ける一方だった人が、ついに人を愛せるようになった、人のことも考えられるようになったことを知ることは本当にうれしいことであります。
 それは、自分に直接、いわば恩をかえすという形ではなくて、自分とは違う他人に親切をするようになったという事でもいいのです、他人を思いやる気持ちが芽生えてくるのを知ることはうれしいことだと思います。自分の子供がそうしたことをしているのを発見できることは親にとって無上の喜びだろうと思います。

 愛するということは、ただ一方的に、愛する側に立つということではないのです。自分が愛した人が、その愛に応えて、自分を愛してくれるようになること、つまり、お互いに愛し合うというところに、愛の本質があると思います。
 そういう愛をうみださないような愛しかたはとこか不健全な愛であります。自分だけがいつも犠牲的な立場にたって、愛し続けるというのは、大変ひとりよがりで、それこそ傲慢な愛ではないかと思います。

 わたしが以前いた教会で大変信仰に熱心な婦人がおりました。その人は子供を育てる時に、子供が親に反抗して親をぶちに来ても、絶対に抵抗しなかったということです。他人がみるにみかねて子供をしかりつけようとしますと、「いいんです、イエスさまが、右の頬をぶたれたらほかの頬をむけよ、とおっしゃっているから、自分はその通りにしているのだから、いいんです」といって、子どもからぶたれるまんまにしていたというんです。

 本人から聞いたわけではありませんが、それを見ていた人から聞いた話です。それを伝えた人は「さすがにクリスチャンだ」と感心してわたしにそう話していたのです。その婦人は確かに熱心な立派なクリスチャンで、決して傲慢でも偽善的でもなく、心の底から聖書の言葉通りに生きようとした人ですが、しかしわたしはそれを聞いて、何か違うのではないかと思ったものであります。

 イエス・キリストは確かに、右の頬をぶたれたら、他の頬を向けなさいといわれ、そして事実その通りに実践し、最後には十字架にご自分の命を捨てられましたが、自分を三度まで裏切ったペテロに対して、復活したイエスは、「ヨハネの子、シモンよ、あなたはこの人たちがわたしを愛する以上に、わたしを愛するか」と三度にわたって言われるのです。イエスがどんなに自分が愛されることを望んでいたかということであります。

 自己犠牲的な愛が尊いのは、互いに愛し合う愛をつくりだすためには、どうしても自己を犠牲にする覚悟で人を愛さないと、そういう愛を作り出せないからです。そういう愛を芽生えさせられないからです。右の頬をぶたれても、他の頬を差し出す覚悟をもって、相手を愛さないと、互いに愛する愛というのを生み出せないのです。自己犠牲的な愛それ自体が愛であるということではないのです。

愛の目的は、お互いに愛し合うようになることであります。
主イエスが「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」といわれましたが、しかし主イエスはその前に「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」といわれているのです。そしてそれに続けて、「友のために自分の命を捨てる、これ以上に大きな愛はない」といわれたのです。
 目的は互いに愛し合うことなのです。その最後の言葉も「互いに愛し愛なさい。これがわたしの命令である」といわれているのです。

 自分が心にかけている人が自分のことを心にかけてくれるようになってくれたこと、それを知ったときは本当にうれしいのであります。

 そして十一節から、パウロは「物ほしさにこう言っているのではありません」といった後、「わたしは自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」といいます。ここは口語訳では、「私は乏しいからこういうのではない。わたしはどんな境遇にあっても足ることを学んだ」となっていて、今日の説教題はそこからとりだしました。

 そしてパウロはこういいます。口語訳のほうがいいと思いますので、口語訳でいいますが、「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは飽くことにも、飢えることにも、富むことにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている。わたしを強くしてくださるかたによって、何事でもすることができる」といっております。

 われわれはこういうふうになれたら、どんなにいいかと思います。救われるということがこういうことになることならば、われわれも救われたいと思うに違いないと思います。どんな境遇にいても、満足することができる、足ることを学べたらどんなにいいかと思います。

 この「満足すること、足ること」という字は、当時ギリシャではやったストアの哲学者が好んで用いた言葉だそうです。

 ギリシャの哲学者のソクラテスがこういうことをいっているそうです。
 「ソクラテスは、ある時、人からどんな人が一番富んだ人ですかと聞かれた時、自分だけで満足できる人だといった。それは誰の世話にもならず、どんな物も欲しがらない、完全に自分だけで満足している生活ということだ」といっているそうです。

そして当時はやったストア派の教師達はこう教えたそうです。「誰の世話にもならず、どんな物も欲しがらず、完全に自分だけで満足するためには、自分の周りに対してできるだけ無関心になることだ、どんなことがあっても自分には関係がないのだといって、自分の心を周りのことから影響をうけないようにする、自分の心を周囲のどんなことにも動かされないようにすることだ」と教えたそうです。

われわれは確かに自分の周りのことで一喜一憂して、心動かされてしまいがちですので、もういっさい自分の周りのことに無関心になりたいと思うときがあると思います。しかしそういう生き方が果たして幸福な生き方か。それはまるで血も涙もない、砂漠の中で生きるようではないかとある人がいっております。

 しかし、パウロがここでいっていることは、それとは違うようであります。なぜなら、パウロはここでは、「わたしは自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」といっているからであります。「貧しく暮らすことにも、豊かに暮らすこともできる、あらゆる場合にも対処する秘訣を授かっている」といっているのです。
 自分の周りの境遇に影響を受けないように自分だけの世界に閉じこもって生きようとするのではなく、どんな環境のなかでも生きることができるといっているのです。

 パウロはフィリピの教会の人から贈り物をもらったことが大変うれしいといっているのです。あらゆる環境から自分の心を閉ざしてしまうのではなく、むしろ一二節をみますと「ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている」というのですから、決して自分のおかれている環境に心を閉ざしているのではないのです。

 どんな環境のなかにあっても生きることができるというのです。その秘訣を得ているというのです。それは何か。それは「わたしを強くしてくださるかたによって、何事でもすることができる」ということであります。「わたしを強くしてくかさるかた」とは、神様のことです。

 神を信じるが故に、どんな境遇にあっても、生きることができる、足ることを知ることができるというのであります。

 誰の詩だったか忘れてしまいましたが、「羽毛のような軽さてはなく、小鳥のような軽さをもちたい」という意味の詩を読んだことがありますが、羽毛というは鳥の羽のことです、羽毛は確かに軽いのですが、しかしこの軽さは環境に左右されてしまう軽さです。風が吹けば飛ぶし、風が吹かなければ、地面におちているだけです。しかし小鳥の軽さは、それ自体は羽毛よりは重いのですが、しかし小鳥は自由に大空をかけめぐることができる、そういう軽ろやかさ、そういう自由さをもって生きたいということです。パウロのもっていた自由さはそういう自由さであります。

とんな環境のなかでも、その環境に左右されないで、小鳥のように軽やかに自由にとびまわることができる自由さ、そういう自由さ、そういう身軽さをパウロはどのように授かったのでしょうか。

パウロは「いついかなる場合にも、対処する秘訣を授かっている」といっているのです。「授かっている」、その前のところでは、「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」と、「習い覚えた」といっているのです。つまり、パウロは初めからそういう強い性格をもっていたのではなく、信仰生活をしているうちに、それを身につけたというのです。

 パウロは自分の環境に決して左右されない人ではなく、自分のおかれている環境に左右されてしまう自分の弱さをよく知っている人なのです。 パウロは自分が重い病気になった時、この病気を治してくださいと必死に神に祈ったのです。自分の病気に左右されてしまうひとなのです。
 その時に神から得た答えは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」ということでした。

その重い病気のなかでも、神の恵みは十分に注がれている、満足にできるほどに与えられているのだ、そのお前の弱さのなかでも、神の力は十分に発揮できるのだ」というのです。

 パウロはこういう経験を積み重ねることによって、どんな環境のなかでも、満足できる、足ることを知っている、そして自由に生きることができるようになったのであります。

 その力は上から授かる力であります。自分自身はどんなに弱くたっていいのです。自分の性格が強くならなくたっていいのです。いつになっても、どんなに大人になっても、どきまぎしたっていいのです。
 しかしそうしたなかで、力は上から与えられという信仰さえあれば、どんな環境のなでも、われわれはあの小鳥の自由さで飛び回ることができるというのです。

パウロが「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」という時の「境遇」とは、それはただパウロの外の境遇だけではなく、実はパウロ自身が持っている自分の内側の境遇、つまり自分の身体の境遇、病気がちな肉体、あるいは、自分の性格という境遇も含まれていたと思います。

パウロの言葉にこういう言葉があります。ローマの信徒への手紙八章の三二節の言葉です。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡されたかたは、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」といっているのです。
神は御子イエス・キリストと共にわれわれにすべてのものを与えてくださっているというのです。

 ある人の説教では、ここのところで、「与えられないものがあつたとすれば、それは神が惜しまれたからではない。そのいっさいによって御子を賜ったことの意味がいっそう深く理解されるのだ」と言っているのです。

それはどういうことかといえば、与えられないもの、たとえば、指が本当は五本あるところを自分には四本しかないとすれば、それは神が惜しまれたから、一本を欠かしたのではない、その四本において神はすべてをその人に与えておられるのだということであります。その欠けた一本を通して、かえって神の恵みを知ることができるようになるためだということであります。

 それはパウロが自分の肉体の弱さということを通して、神はパウロにすべてのものを与えておられるということです。神の恵みは十二分に与えておられるということなのです。その弱さを通して、パウロはますます神に信頼し、神を信じていく力を与えられるからなのであります。それを宣べ伝える力を与えられたからであります。

 それがどんな境遇にも処する秘訣を授かっているということであります。
 それはヨブが自分の家族も、自分の財産もすべて失ったときに、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主なる神は与え、主なる神は奪う。主なる神の御名はほむべきかな」といったという信仰であります。

すべては神が与えてくださったものだ、それを自分の所有物としてしがみついてはならないということであります。神はいつでも与え、いつでもそれを取り去るのだという信仰であります。

 このパウロの言葉とちょうど対照的になるのが、旧約聖書の蔵言の言葉ではないかと思います。蔵言の三〇章の七節からの言葉です。
 「わたしは二つのことをあなたに求めます。わたしの死なないうちにこれをかなえてください。うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。飽きたりて、あなたを知らないといい、『主とはだれか』と言うことのないために、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです。」

パウロのどんな環境のなかでも自分は生きる秘訣を得ている、というのに対して、この箴言の言葉は、いや、自分は自分の環境にどんなに左右されてしまうかわからないから、自分を金持ちにもしないで、そうかといって貧乏にもしないでくださいと神様に願っているのです。
 この願いはわれわれにはよくわかるのではないでしょうか。

 これはまるで正反対のことのようですが、しかし共通しているのは、どちらも神に頼っているということです。

 自分は大変弱い人間ですから、どうか自分が正しく生きていけるような環境を与えてください、と、神様に頼り、神様に祈り願っているのです。そういう信仰があれば、神はまたどんな環境のなかでもわたしを強くしてくださる、その神を頼って、どんな環境のなかでも対処する秘訣を得ることができるのではないかと思います。