「時を知っている者として」 ローマ書十三章十一ー一四節

 「さらに、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」と、新共同訳では訳されておりますが、口語訳聖書では、「なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、このことを励まねばならない」となっております。

 そして原文をみますと、この口語訳のほうが原文に忠実であります。ただ原文では、「励む」という言葉はなく、ただ「そして、この事」という言葉があって、次ぎに「あなたがは時を知っている」という言葉が続くだけであります。それでは意味が通じないので、口語訳聖書は「このことを励まなければならない」
と意訳しているようであります。

 「あなたがたは時を知っているのだから」という、「時」とは何をさしているのでしょうか。その後の文章をみれば、「あなたがたは眠りから覚める時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」とありますので、この「時」というのは、終末の時、この世の終わりの時と考えて良いと思います。リビングバイブルでは、ここはもっとはっきりと、「今や、終末に近づいており」と訳しております。

 パウロの書いた手紙のコリントの信徒への手紙では、「時は縮まっている」といっている箇所もあります。そこでも新共同訳は「定められた時は迫っています」とやはり意訳して訳しております。

 内容的には、この「時」というのは、確かに終末の時であることは確かだろうとおもいます。しかし、聖書が「時」というときには、ただ終末のことだけを指しているのではなく、時というもの自体、時間といってもいいと思うのですが、時というのは、ただ人間が生まれてから、死ぬときまでの流れとしての時、そういう一本の流れに沿った時というだけではなく、時というのは、神が支配しておられるのだ、時は神が、この「時」というのを定めておられるのだと考えているのではないかと思います。

 その一番良い例が旧約聖書の「コヘレトの言葉」にある言葉であります。三章の一節から「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、」といわれているところであります。そこでは、「神はすべてを時宜にかなうように造り」とつづくのであります。ここは口語訳では「神のなさることは皆その時にかなって美しい」と、それこそ美しく訳されております。

 つまり、すべての時というのは、神が支配しておられのだという考えであります。

 われわれは時間というもの、時というものを、二通りに考えることができると思います。一つは、生まれてから死ぬまでの流れ、つまり、線としての時間、死というものをいつもずっと先のこととして、若い人にとっては、せいぜい六十才くらいになってから死ぬだろうと考え、老人にとっては、まだまださき、八十、九十ぐらになったら死ぬだろうというように、線の延長線上のずっと先のこととして考える、そのように時というものを考える。

 もうひとつは、死というのは、いつくるかわからない、生まれてすぐ来るということも考えられるし、明日死ぬかもしれないというように、死をずっと先の事として、線の延長線上の先の事として考えるのではなく、上から垂直に迫ってくる時、そういう時というのも考えることができるのではないかと思います。

 そしてここで言っている「時」というのは、この上から垂直にせまってくる「時」のことであります。ここでいわれている「あなたがたは時を知っているのだから」という「時」、「今がどんな時であるかを知っています」という「時」は、上から垂直に降りてくる時、神が支配している時のことであります。

 ヤコブの手紙のなかでこういわれているところがあります。「よく考えなさい。『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金儲けをしよう』という人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて消えて行く霧に過ぎません。むしろ、あなたがたは『主の御心であれば、生きながらえて、あのことやこのことをしよう』というべきです。ところが、実際は、誇り高ぶっています」といわれているのであります。

 つまり、時というものをいつまでも続く時として考えるなということであります。いつでもそれは上から遮断される時として考えなくてならないということであります。いつ命がとられから分からない時として考えて生きなさいということであります。いつも「明日のことはわからないのだから」という覚悟をもって今日一日を生きなさいということであります。

 それか「時」を知っている者の生き方であります。それは少し難しい言い方をすれば、終末というものをいつも意識して、覚悟して生きなさいということであります。

 ブルームハルトという牧師がおりますが、この人は終末的信仰というものをとても強く教えた人ということで、カール・バルトとか大変偉い神学者にとても大きな影響を与えた人だといわれているひとなのですが、その人はいつも自分の庭に一台の馬車を用意していたというのです。それはいつ主イエスが再臨してもよいように、いつでも主イエスのもとに駆けつけることができるように馬車を用意していたというのです。これはブルームハルトにまつわる逸話で、どこまで本当かどうかわかりませんが、それくらいブルームハルトという人が毎日を終末を意識して生きていたかということからで来た逸話だろうと思います。

 われわれはもちろんそんな生き方はできません。そんなことをしたら狂人と間違えられるだろうと思います。しかし、もしわれわれがそのように毎日を緊張をもって生きられたら、自分の人生も変わってくるだろうなとは思います。

 われわれは自分の人生がただのべつもなく続いていくのだと気楽に考えるのではなく、いつ自分の命がとられるかわからないという危機意識を持って生きる、われわれの時というものが上から神によって裁断されるものだという緊張を持って生きるということは大事だと思います。
 しかしそれと同時に、神はわれわれに明日という日も必ず用意してくださる、われわれは七十年、あるいは八十年ぐらいは生かしてもらえるという思いを持って生きるということも、れこもやはり神様を信頼して生きるという具体的なあらわれだと思うのです。

それはヤコブの手紙がいうように、「主のみこころであれば、生きながらえて、あのことやこのことをしよう」という生き方になるのだと思います。

 神様はわたしの命を今日とられるかも知れない、しかし神はまたわたしの命をあすをも用意しくださる、そのようにして生きていくことが「時を知っているものとして」の生き方だと思うのです。つまり、時は神が支配し、神は今日命をとられるかも知れないし、そして神は明日をもわれわれに用意してくださるかたとして信頼する、そのように、時について考えるということであります。

 そういう時を知っている者として生きようとするときに、どんな生き方になるのか、それをパウロは次ぎに述べるのであります。
 「あなたがたは眠りから覚めるべき時が既に来ている。今や、救いは近づいている。夜は更け、日は近づいた。だから闇の行いを脱ぎ捨てて、光の武具を身につけよう。日中を歩むように、品位をもって歩もう。酒宴、酩酊、淫乱、好色、争いと妬みを捨てて、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」という勧めの言葉になるのであります。

 「眠りから覚めるべき時がすでに来ている」とか、「闇の行いを脱ぎ捨て」ということは、習慣に引きずられていくだけの生活をやめて、今日はこうしようと決断して生きることということではないかと思います。同じことをするにしても、朝起きたときに、今日はこうしようと決断して何かをするということではないかと思います。

 同じことをするにしても、ただ習慣に引きずられて、ずるずるするのではなく、新しい思いをもってしていくということではないかと思います。

 光の武具を身につけるということは、パウロが他の箇所でいっているように、信仰と希望と愛という武具をつけて歩むということであります。ある人が言っておりますが、それは酩酊しているような生活ではなく、酒によっているような生活ではなく、覚めている生活、それはいつも自分のしていてることをよく知って、自分の責任がはっきりと分かっている生活のことだといっております。

 パウロは時を知っている者としてということで、他の手紙でこういっているところがあります。
 コリントの信徒への手紙第一の七章のところですが、「兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は、迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人の用に、世のことにかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきだ。この世の有様は過ぎ去るからだ。思い煩わないでほしい」といっているのです。

 「定められた時は迫っている」、ここは口語訳では、「時は縮まっている」と訳されています。要するに終末は近いということであります。だから、この世と深くかかわるなということなのでしょうか。この世のことは、ほどほどにつきあいなさいということなのでしょうか。

 あまり、物に執着するなということなのでしょうか。確かに、物にあるいは、お金にあまり執着するなということなら、わかるのですが、妻を持っている人は妻にあまり執着するなということなのでしょうか。泣く人はほどほどに泣きなさいということなのでしょうか。どうせ、この世の有様は過ぎ去るのだから、何事にもほどほどにしなさいということなのでしょうか。

 パウロは「喜ぶ人と共に喜びなさい」「泣く人と共に泣きなさい」といったばかりであります。光の武具を身につけるということは、信仰と希望と愛の武具を身につけることだと先ほどいいましたが、愛の武具を身につけるということは、ほどほどに愛しなさいということではないだろうと思います。あるいは、ほどほどに妻とつきあいなさいというのでは、とても責任を持って生きるということにはならないと思います。

ここの「世のことにかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきだ」というところは、口語訳では「世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきだ」となっております。「深入りするな」というのです。そしてさらに、文語訳では「世を用いるものは、用い尽くさぬごとくすべき」と訳されているのであります。

 結果的には、ほどほどにつきあいなさいということに似ているかもしれませんが、しかしそれは違うのだと、ある人がいっております。
 「諸君は、泣く者、喜ぶ者、世を用いる者、世と交渉のある者であっていい。むしろ、徹底的にそのような者であっていい。しかし、諸君が忘れてはならない一つのことがある。それはこの世の有様は過ぎ去るということ、それはことの世との交渉に影響を与えずにはおかないだろう。諸君はこの世の現実を、それが過ぎゆくという事実の光のなかで見るだろう。従って、諸君はこの世とどのように深く交渉する場合にもそれを絶対視したりはしないだろう。そうなると、もはや単に泣く者、喜ぶ者ではなく、泣かぬがごとくに泣き、喜ばぬごとくに喜び」ということになるだろうというのであります。

 つまり、この世の問題を絶対視しない、この世の問題を絶対化しないということだというのです。

 定められた時、終末は迫っている、この世の有様は過ぎ去る、そのようにわれわれがこの人生の時というものを考えるならば、この世の問題を絶対視しなくてすむ、この世の問題を絶対化しなくてすむ、結婚の問題でどうにもならなくなっても、それですべてがおわってしまうわけではない、なにかどんなに悲しいことがあっても、それで身も心も滅んでしまうわけではない、ということであります。この世の有様は過ぎ去るからであります。

 この世の有様は過ぎ去る、それはなにかわれわれにあきらめ、諦観的な人生を導くことになるかもしれません。どうせこの世の有様はすぎさるのだから、ほどほどにこの世とかかわろうという諦観的な人生を導くことになるかもしれません。
 
 しかし、パウロは光の武具を身につけなさいというのです。それは、つまり、信仰と希望と愛という武具であります。この世の有様は確かに過ぎ去る、しかしそれだらかわれわれはなにもかもあきらめて、ひねた思いにひたるのではなくて、この世の有様は過ぎ去るけれど、主イエス・キリストがもう一度来てくださってわれわれの信仰と救いを完成させてくださるということ、その希望と信仰と愛をもって終末を待ち望んでいきなさいというのであります。

 パウロはフィリピの信徒への手紙のなかで、「主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。なにごとにつけ、感謝を込めて、祈りと願いをささげ」といったあと、最後にこういうのです。
「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や、称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」と勧めているのであります。

 「すべて」というのですから、単にキリスト教なことだけではなく、すべてこの世で称賛に値するものがあればそれを心に留めなさいというのです。つまりこの世の問題に深くかかわって生きなさいということであります。この世の有様は過ぎ去るものであってもであります。

 このローマの信徒への手紙の一三章の一一節からの言葉は、古代の神父アウガスチヌスを回心させた言葉として有名であります。彼がミラノのある庭園でぼんやりしているときに、子供が近くで遊んでいた。その子供の声がとつぜん「取りて、読め」「取りて読め」という声に聞こえた。それで彼はかたわらにあった聖書をとりあげて、開いたところが、この箇所であったというのです。それまで彼はラマ教の信者で、肉欲的生活をしていたのですが、この箇所にであって、回心したというのであります。
 
 「あなたは今がどんな時であるかを知っている。眠りから覚めるべき時が既に来ている」という言葉をアウガスチヌスはこの時悟ったというのであります。われわれの人生にも、われわれの平凡な人生にもかならずそういう時というものが来る時がくるのであります。

「神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこういわれる。『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞き入れ、救いの日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」とパウロは他の箇所でいっているのであります。

 われわれの人生には、必ずそういう時というものがあるのであります。