「捕らえられて捕らえる」三章一二−一六節

 パウロは、一三節をみますと、「兄弟たち、わたし自身はすでに捕らえたとは思っていません。なすべきことはただひとつ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」と言っています。
 つまり、パウロは自分はどんなに一生懸命努力しているかといっているのであります。

 パウロはわれわれが救われるのは、人間のわざではない、人間の努力ではない、むしろそうした人間的な修養とか修業とか、努力とかをいっさい捨てて、ただ自分の手を空っぽにして、神からの恵みを受け取る事だ、われわれが救われるのは、ただ神の恵みによって救われるのだと言って来たのであります。そこには人間の努力などは入り込む余地はないのです。

 それなのに、ここでパウロはしきりに、自分がなすべきことは、目標を目指してひたすら走ることだと、言っているのてず。まえのところの一○節では、「わたしはキリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、なんとかして死者の中からの復活に達したいのです」といって、「なんとかして」という言葉をここで使うのです。

 われわれが救われるのは人間の努力ではないと言って来ているパウロが、ここで「努力」をもちだしている、その努力とはいったいどういう努力なのでしょうか。救われるためには、やはり努力が必要なのでしょうか。それはあのかつての律法を守るという努力、パウロがキリストにお会いしてふん土のように捨てたという律法的な努力とどう違うのでしょうか。

 それとも、救われるのは人間的努力ではないが、救われた後は、救われた後です、救われたあとは、それを維持するためには、やはり同じように努力をしないといけないというのでしょうか。

 もちろん、これは律法を守って、自分はこれだけ律法を守りましたといって、自分の正しさを主張するという努力ではないのです。

 この努力があの律法的努力とどんなに違っているかといいますと、パウロは一二節をみますと、「わたしはすでにそれを得たというわけではなく、すでに完全なものになっているわけでもありません。なんとかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです」と、大変奇妙なことを言っている事からも分かることです。

 自分はキリスト・イエスによって捕らえられている、だから、捕らえようとして追い求めているのだ、と言っているのです。もう捕らえられているならば、どうしてこちらで捕らえようと努力する必要があるのかという事であります。言葉を変えていえば、もう与えられているのに、どうして、なおそれを自分のものにするためにそれを獲得しようとする必要があるのか、という事であります。

 もし、ここで与えられたものが、たとえばお金とか、そういうものだったならば、それを更に獲得する必要はないわけです。せいぜい、与えられたお金を盗まれないように、金庫にしまう位の努力であります。

 しかしここで与えられたものは、お金ではないのです。救いなのです。どういう救いかといえば、神の恵みであり、神の愛なのです。愛されているという恵みなのです。愛されているということを自分のものにするために、いちばん良い方法はなんでしょうか。それは自分を愛してくれる人をこちらでも愛することではないでしょうか。

 愛されているという事を本当に実感できるのは、こちらでもその人を愛し始めた時ではないでしょうか。こちらがその気になれないならば、こちらがその人を愛せないならば、その人の愛を少しも感じられないし、かえってその愛は迷惑になるのではないでしょうか。

 それは、愛されるために、その人を愛するというのではないのです。その人から既に受けている愛を実感するために、その人を愛するのです。もう愛されているのです。それだから、その人を愛するのです。

 神の愛を受けておりながら、神を愛せないとしたならば、どんなに神から愛されたとしても、神の愛を実感できないと思います。

 申命記には、「イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」と言われております。「神を愛さなくてはならない」というのです。

 しかし申命記では、その前に「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選び、自分の宝の民とされた。主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない、あなたがたは他の民よりも貧弱であった。ただ主があなたがたを愛し」と言われているのでりあます。

 主なる神がどんなにお前を愛しているかというのです。それを受けて、だから、「心をつくし、精神をつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛しなさい」というのです。

 ここでパウロが「捕らえようとして努力しているのだ」というのは、神の愛に捕らえられているという事実があるからです。その神の愛を本当に自分のものにするために、こちらの方でも、心から思いをつくし、精神をつくし、力をつくして、愛さなければならないのであります。

 ここには確かに、努力しているのだ、とパウロは言っているのです。そして信仰生活に努力は必要なのです。しかしそれは努力しないと救われないという努力ではないのです。救われたから努力するのです。

 そのことをいつもいつも自分に言い聞かせながら、努力していくという努力であります。「救われているから努力するのだ」と、それを繰り返し繰り返し言い続ける必要があると思います。そうでないと、また再びあの空しい律法主義的努力主義に陥り、ある時は他人と比較して、自分の努力を誇ってみたり、ある時には、他人と比較して、自分の努力の足りなさに落ち込んでしまうということになるのです。

 特に、われわれ日本人は努力ということが好きなのです。「ガンバッテネ」というように、頑張るということが、挨拶代わりに使われているのです。頑張るというのは、ある人が言うには、「頑固に我を張る」ということで、もっともキリスト教的でない言葉なのであります。

 われわれ日本人は、そして特にクリスチャンは真面目で控えめな人が多いのではないかと思います。謙遜な人が多いのです。ですから、自分の行いによって救われるとはみんな思っていないのです。そんなに自信のある人はいないし、そんなに傲慢な人はいないし、ユダヤ人とは違って、そんなに我を張る人もいないのです。

 しかし、自分の行為を誇ると言う事はしないかもしれませんが、せめて、努力しないと救われないのではないかと思っている人は多いのではないでしょうか。行為義認ということは考えないかもしれませんが、努力義認主義に陥っている人は多いのではないでしょうか。

 河合隼雄の「宗教と科学の接点」という本を読んでおりましたら、こんな事が書いてありまして、びっくりいたしました。それは科学的な思考の背後にはそれぞれの宗教的な思考の影響を受けているという事を述べているところなのですが、その一例として、進化論という学説を取り上げている。

 ご承知のように進化論はダーウィンが唱えたものですが、そのダーウィンの進化論に対して、日本人の今西錦司が独自の進化論を唱えて注目されている。

 ダーウィンの進化論は、突然変異によって生じた個体が生存競争に勝っていって、適者生存を行って進化が生じるという説です。

 それに対して、今西錦司の進化論は「棲みわけ」論と言われていて、それぞれの個体は始めから棲むところを別にしていて、つまり生物的自然は、生存競争の場ではなく、種社会の平和共存する場で、それぞれの種類の違った個体がそれぞれ独自の進化をとげていったものだという説です。

 つまり、今西錦司はダーウィンの適者生存という競争原理を否定している。そして今西錦司はこう言っているというのです。
 「ダーウィンの進化論には、単なる理屈ではなくて、なにか西欧人の心底にアピールするものがあるのではなかろうか。ダーウィンの進化論は、適者生存という競争原理に基づいており、それは神様はつねにエリートの味方をしているということだ。そのへんのところが、キリスト教徒である西欧人には魅力的なのではないか。そして、ダーウィンの進化論なんかは科学的検証に耐え得ない学説なのに、未だに共鳴者が西欧の世界ではあるというのは、自分達のもっているキリスト教的自然観と合致するためにそれが正しいと思い込んでいるのではないか、それは西洋からみていたら分からない、東洋からみるからわかることなのだ」と、今西錦司は言っているというのであります。

 わたしは、ここを読んでいて、それこそあぜんとしたのであります。聖書のどこを読めば、「神様はつねにエリートの味方をしている」という考えが出てくるのかと思ったのです。聖書を素直に読んでいれば、神はエリートではなく、無きに等しいものを選び救われたのだとしか読めない筈なのです。

 パウロは「神は知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者
をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力なものを無力なものにするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者をあえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも神のみ前に誇ることがないためである。」と書いているのに、どうしてこんな誤解が生じるのだろうか。

なぜ、キリスト教では神はエリートだけに味方するという考えが出て来るのか、本当に西欧のキリスト教徒はそういう意識を持っているのだろうか。

 クリスチャンのなかにエリート意識があるとすれば、それはキリスト教の大切な教理の一つの「選び」という教理がそういう誤解を引き起こしてしまったのではないかと思うのです。

 教会のなかで、自分達は選ばれたものだと言うとき、何かエリート意識というものが感じられて、わたしは嫌だなど思う時がしばしばあるのです。これは結局はあの律法主義のおぞましい復活です。

 ちなみに、この選びというキリスト教の教理は、神はエリートだけに味方するという、エリートを選ぶという教理では絶対にないのです。

 選びの教理は、救いの優先権は神の側にあるという事、われわれ人間の方にはないという事、神が選んでくださった、そこにわれわれの救いの確かさがある、という教えなのです。それをわれわれは信じ、そこで、われわれが自分を誇るのでなく、そこで、われわれが本当に謙虚になる場所なのです。何故なら、神は無きに等しいわたしを選び愛してくだったことを知るからであります。

 「神はエリートだけに味方するのだ」という考えがなぜ起こるのか。それはプロテスタント教会が作り上げて来たものではないかと思います。

 クリスチャンというと、新聞記事などでは、必ず、あの敬虔深い真面目なクリスチャンがという形容詞がつくのです。そいういレッテルのはられかたをするのです。それでわれわれのほうでも、真面目で、品行方正でないとクリスチャンでないのだと思いこんでしまって、禁酒禁煙に励んでしまうのです。

 もちろん、禁酒禁煙が悪いわけではないのです。キリスト教会が日本の社会に果たした役割、禁酒禁煙とか、売春婦制度の廃止とか、それは大きな貢献をしたと思います。

 しかし一方では、救いは真面目な人間にならないと救われないのだ、神はエリートだけに味方するという考えを造りあけでしまい、そしてクリスチャン自身がいつのまにかそのように考えてしまっているのではないか。

ギデオン協会というのがあるのをご存じだと思います。これは信徒の運動ですが、全国の若い青年たちに聖書を無料で配布するという運動で大変良い働きをしているのです。
 以前は公立の学校でも、聖書を無料で生徒たちに配ることが許されたのですが、今日ではそうした宗教活動はゆるされないようであります。英語と対訳になっている新約聖書を無料で配布するという大変いい働きをしているのです。

 わたしが四国にいたときにも、そのギデオン協会の人たちから牧師たちが招かれて懇談の時をもったり、食事の接待を受けたことがありますが、しかしわたしはそのギデオン協会のありかたに一つの疑問をもっているのです。

 それはその協会員になるには、一つの条件というか資格というのがあって、その協会員になるには、何かの長でなければならない、管理職についていなくてはならない、あるいは医者とか教育者とか、あるいは店の店長とかでなければならないという規約があるということなのです。
 確か禁酒禁煙も掲げていたかもしれません。禁酒のほうはともかく、禁煙のほうはあったような気がします。

 つまり、その運動はエリートたちの運動なのです。ギデオン協会のギデオン
という名前は、聖書の士師記にでてくる士師という指導者の名前です。ギデオンは特別に神に選ばれた指導者で、その名にちなんで、ギデオン協会という名前をつけたのではないかと思います。

ギデオンという人の記事はこういう記事なのです。当時イスラエルはミディアン人と戦おうとしていたときに、神はイスラエルの中から少数の人たちを選んで戦わせたのです。多くの人数で戦って勝利したときに、これは神様のおかげではなく、自分達の人間的な力で勝利したのだと思ったら、人間は傲慢になってしまうので、それを避けたわけです。

 そのためにいわば少数の先鋭部隊を選んだ。その選び方はこうでした。人々を川につれだして、水を飲ませた。ある人々は、犬が川の水をなめるように、膝をかがめて水を飲んだ。ある者は中腰のまま、手で水をすくって水を飲んだ。

 多くの者は、膝をかがめて水を飲んだ。しかし三百人の人々は中腰のまま水を手ですくって水を飲んだのです。神はその三百人を選んでミディアン人と戦わせた。その指導者がギデオンなのです。

 それはどういうことかといいますと、敵がいつ襲ってくるかわからないのに、膝をかがめて水を飲むという行為は、大胆不敵な人間の態度で、敵なんかこわくないという人の態度なのです。自分の力を過信するという行為なのです。

 しかし、中腰のまま、水を手ですくって飲むという行為は、いつも敵を意識し、いざというときに戦う態勢を整えようとする人なのです。つまり自分の弱さをよく知っているが故に恐れとおののき、緊張をもっている人々なのです。神はその人々をもって戦いに臨ませたというのです。この人たちはもちろん、臆病な人たちではないのず。しかし自分の弱さを十分自覚している人たちのです。

 敵なんか恐れない大胆不敵な者を神は選んで戦いの臨ませたのではないのです。そんなことをしたら、彼らは戦いに勝利したときに、自分たちの力で勝利したのだと傲慢になっていくだけだからです。それならば、なぜ神が自分たちを誇らせないために、わざわざ少数の人を選んだかわからなくなります。

 つまり神が選ばれたのいわゆる優秀なエリートを選んだのではないのです。自分の弱さを知り、ただ神に頼って戦いに臨もうとする人を選ばれたということなのです。
 ギデオン協会の人々がそのことを十分自覚しているかどうか、わたしは疑問に思ったのです。

 パウロは「わたしはすでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者になっているというわけではありません。なんとかして捕らえようとして努めているのです」と言っています。

 ここを読みますと、何か信仰生活というのは、完全なものを目指して奮励努力していく生活だと思うかもしれませんが、竹森満佐一はこの言葉を説明してこう言っています。「ここでいう『完全』という字は、『十分に成育したもの』という意味だ、完熟したと言う意味で、成熟したという意味である。

 つまり子供に対して、大人という意味だ。自分はまだ信仰という点では、子供の状態だ、だからもっと成熟して大人になって、神の救いをますます完全に捕らえたいということなのだ。しかし、子供はどんなに不十分であっても人間であることはに変わりない。つまり、人間として欠陥があるのではない」といっているのです。

 ここにはある意味では確かに、完全を目指して歩んでいるんだという信仰生活の精進について述べているところかも知れません。
 しかしこれは律法主義的な完全を目指すという事とは違っているのです。いわゆる完全主義者になることを目標とすることではない。
 ある人の言葉に、人はしばしば神よりも完全になりたがると皮肉っていますが、そういう完全を目指すということではないのず。

 律法主義的な完全は、たとえば、百点とらなければ、あるいは九十点とらないと合格しないという完全主義です。
 しかしここでいわれている完全を目指すというのは、子供が大人になって成熟していくということを目指していく努力ですから、何も完全そのもの、百点をとるということが目標ではないのです。

 「後のものを忘れ、前のものに全身をむけつつ、神がキリスト・イエスによって上へと召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」と言っています。

 「後ろのもの」とは自分の事であります。自分を誇る気持ち、あるいは自分がみじめになった気持ち、そうしたことをどんどん捨てていって、ただ神の救いを信じて走っていこうという生き方であります。

 神の賞与なんてすから、神がほめて下さるというのですから、神は大人の誇らしげな百点よりも、百点てなくても、子供のけなげな走りかたの方をほめてくださるに違いないのです。パウロも最後に「わたしたちは到達したところに基づいて進むべきだ」と言っているのであります。百点でなくてもいいのです。六十点でも、四十点でもいいのです。
 よちよち歩きの幼子が親にほめてもらおうと、けなげに自分の足で歩いていこうとしている、その姿勢を思いだしたいと思います。