「とりなす」   創世記一八章一六ー三三節


 一七節をみますと、「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国は彼によって、祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」と言われたというのであります。

 そうして主なる神は、アブラハムの甥であるロトが住んでいるソドムとゴモラの町に悪がはびこっているために滅ぼそうとすることをアブラハムにあらかじめ告げておこうとしたというのであります。

 主なる神はアブラハムにご自分のしようとすることをうちあけたというのであります。ある人が言っておりました。「われわれが神を信じるということは、神に信じてもらうようになることだ」というのであります。「わたしが行うとすることをアブラハムに隠す必要があるか」と神はいうのです。そういう意味ではここでアブラハムは神に信じてもらっているのであります。

 相手を信じたら、相手からも信じてもらうようになることであります。そうでなければ、本当に相手を信じたことにはならないのであります。それは夫婦の間でも、親子の間でもそうだと思います。

 親は子がまだまだ子供だと思っている間はどんなに苦しいことがあっても、困難なことがあってもそれを子供に打ち明けるということはしないものであります。よけいな心配を子供させてはいけないと思うからであります。しかし子供が次第に大きくなっていくならば、親の心配を子にも打ち明けるようになるだろうと思います。そうして一緒に苦労を担って貰おうとするのではないかと思います。そのためには、子供が親を本当に信頼してくれている、信じてもらっているということがわからないとそれはできないことであります。

 また逆にそれまであまり子供が頼りなくて子供を信じられないでいる時に、しかし困難なことが起こって、せっぱ詰まって親の困難な問題を子供に打ち明けた時に、子供は親が親の苦労を自分にも話てもらえた、自分のことを信じてもらえたということで、子供もしっかりして来て、子供の方でも親を信じるようになるということもあると思います。ともかく、信頼関係というのは、そのように相互作用だということであります。相手を信じるということは、相手にも信じてもらえるようになるということであります。

 われわれが神を信じるということは、奇妙な言い方かもしれませんが、神に信じてもらうということでもあるのであります。そこまでいかないと、神を本当に信じたことにはならないのであります。

 神に信じてもらうということはどういうことか。それは、神さまから「お前ならば、わたしの喜び、わたしの悲しみ、わたしの苦労がわかるだろう」と、神にわかってもらうということであります。そうして神のいわば秘密をうちあけてもらえるようになるということであります。

 今アブラハムは神からその神の労苦をうちあけられるのであります。神が喜んでいるときに共に喜び、神が悲しんでいる時に共に悲しむということであります。神の喜びと悲しみを、神の心配を共有することができるようになるということであります。

 それでは神の喜びと悲しみとはなんでしょうか。それはルカによる福音書に主イエス・キリストがいわれているように、「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人にもまさる大きい喜びが天にあるであろう」と言われたように、神の喜びとは罪人のひとりでも悔い改めるということであり、神の悲しみとは、罪人が悔い改めないということなのであります。あるいはそういう悔い改めない人間の罪のゆえに、この世でいと小さい者のひとりが痛めつけられ、滅ぼされていくということなのであります。神の心配はそれ以外にはないのであります。

 神は今神の心配をアブラハムに告げようとされるのであります。それは神がどうしてもソドムとゴモラの罪を見過ごしにできないで、それを滅ぼそうとされるということであります。それをアブラハムに打ち明けるのであります。

 神は人間を裁くときに、何かコンピューターのように機械的にああここに罪がある、だから裁いてしまおう、などと裁くのではないのです。神がわれわれの罪を裁く時には、神はどんなに熟慮し、ためらい、どんなに心を傷めてそれをなさろうとするかということがわかるのであります。そのことがアブラハムにもひしひしと伝わって来たことと思います。

 アブラハムは今自分の甥ロトがいるソドムとゴモラの町がその罪のために滅ぼされようとしていることを主なる神から聞かされたのであります。すると彼はなんとかしてその町を滅ぼすことを思いとどまってもらおうとして、神にとりなしをするのであります。

 自分が滅ぼされることを回避してもらおうとして懸命になるのではないのです。自分の甥とはいえ、他の人のために必死に神にとりなそうとするのであります。神から信頼されたアブラハムの成長を見る思いがするのであります。人間の罪に対する神の怒り、神の悲しみ、神の心配を今アブラハムも今共有し、なんとかしようと必死になるのであります。
 
 口語訳、「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。たとい、あの町に五十人の正しい者があってもあなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」というのであります。

 この最後のアブラハムの言葉「全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」新共同訳「全世界を裁くおかたは、正義を行われるべきではありませんか」という言葉は、神に向かって言う言葉としては、ずいぶん不遜にも見える言葉ではないかと思われます。
 人間がまるで神さまをいさめているようにも聞こえるからであります。これはちょうど子供が親のやることをいさめるような言葉に聞こえます。

 そしてそれが親に対する子供の心配のあまりの言葉である時には、親はかえってその子供のいさめの言葉を聞いてうれしいのではないでしょうか。たとえば、親が病気になって、もうその病気にあきらめたようなことを親が言ったときに、子供から「そんなことでどうするのか、もっと大きな病院にいって診てもらったらどうか」と子供からたしなめられたら、親はうれしいのではないかと思います。

 ここではアブラハムは神の公義と正義に踏み込んで発言しようとしているのであります。これはある意味ではアブラハムが大人になった証拠であります。神に信頼されたアブラハムは罪に対する神の心配を共有しようとするのであります。神の正義にまで踏み込んで発言しようとしているのであります。そんなことで本当にあなたの正義は保たれるのですかと踏み込んでいるのであります。

 それは確かに不遜と言えば不遜でありますが、しかしそれだけアブラハムが神を信頼しているから、神にくってかかれるということでもあるし、神の義を心配しているということでもあります。ちょうど上司を本当に信頼していたら、部下は上司に対して何でも言える、何でも文句を言えるようなものであります。
 
 ここでアブラハムはソドムの町のために、というよりは、自分の愛するロトが住んでいるソドムのためにということで、ロトのためにということであるかも知れませんが、ともかくソドムのために神にとりなしているのであります。

 アブラハムはソドムの罪のために神にどういってとりなしたか。「あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」といってとりなすのであります。

 ソドムの町には、あるいはロトには、神から罪を赦していただく何の資格も権利も見あたらないのです。だからアブラハムは神の正義を引き合いに出して、「全地を裁く者は正義を行うべきではありませんか」と、なんとか赦しを引き出そうとしているのであります。

 旧約聖書をみますと、しばしば預言者がイスラエルの民に代わって神に赦しを乞うときも、「あなたの聖なる名が汚されないように」と言って神の聖なる名を引き合いに出して、赦しを乞うのであります。

 神は「もしソドムの町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のために町全部をゆるそう」といわれるのです。彼は神からその答えを引き出すと、「もしそのうち五人欠けていたらどうですか」「三十人の正しい者しかいなかった場合はどうですか」と問いつめていって、とうとう最後に「わが主よ、どうかお怒りにならないように、わたしはいま一度申します。もしそこに十人いたら」と言って、神から「十人の正しい者がいてもそのためにその町を滅ぼさない」という言質を得るのであります。

 アブラハムはなぜ「十人の正しい者がいたら」というところでとどまり、「もし一人の正しい者がいたら」というところまでいかないで、途中で、神を問いつめるのをやめてしまったのか。
 ある人の説明では、ここにアブラハムの信仰的姿勢があるというのです。やはり神が人間を裁くか赦すかは、なんといっても神の権限にかかわることであって、人間の権利ではない。だからアブラハムは人間の裁きと赦しに関して最後まで神を追い込めないで、最後は神に委ねたのだというのであります。その通りだと思います。

 しかしここはよくみますと、この問答を打ち切ったのは、アブラハムのほうではなく、主なる神のほうなのであります。三三節をみますと、「わたしはその十人のためにほろぼさないであろう」と、主は言われると、アブラハムから更に問いつめられるのを避けるようにして、「主はアブラハムと語り終り、去って行かれた。アブラハムは自分の所に帰った」と聖書は記しているのであります。

 聖書の書き方からすると、この問答を打ち切ったのは主なる神のほうなのであります。神の裁きと赦しの権限の最終決断はやはり神がもっておられるということをこのような形で神は示されたのではないかと思います。。

 アブラハムは今必死に自分の甥のロトがいるソドムの町のためにとりなしているのであります。
 ある人が、「もっとも困難な立場はとりなすということだ」と言っております。なぜそれが困難なのか。それはとりなす場合には、こちらがとりなそうとする相手はまだ自分のあやまちに気づいていない、悔い改めてもいない、あるいは悔い改めているとしてもそれが不十分なのです。もし本当に自分の過ちに気づき、悔い改めていたら、自分みずから、謝りにいくからであります。神に謝罪の祈りを捧げるからであります。とりなすということは、まだ自分の罪に気づいていない、まだ充分悔い改めていない本人に代わって、その人の罪の重大性に気づいている人が、あやまちを犯した者に代わって謝罪し、なんとか赦して貰おうとすることであります。

われわれは自分の過ちに、自分の罪に気づいたならば、ただちに相手に謝りにいくだろうとさきほどいいましたが、考えてみれば、自分の過ちに気づいてもただちに相手に謝りに行けない場合もあるかもしれません。それは自分の過ちがあまりにも大きくて、相手はこの自分の過ちを赦してくれないのではないかと恐れる時です。自分がどんなに謝罪しても相手にはわかってもらえないのではないかと思う時に、われわれは執り成し手を求めるのではないかと思います。

 過ちをおかして、傷つけてしまった相手が、この人を介在としたら、自分の過ちをゆるしてもらえるかもしれない、そういうように傷つけた相手が信頼している人を捜し求めて、その人に執り成しをしてもらうとするのではないかと思います。

 とりなしをしようとする人は、謝罪しなくてはならない相手からも、過ちを犯した人間からも、その双方から信用され、信頼されていなくては到底とりなすという仕事はできないものであります。だからとりなすということはもっとも困難な仕事なのであります。
 
 パウロはわれわれにとっての最大のとりなし手は、イエス・キリストの御霊だというのです。「御霊もまた同じように弱いわたしたちを助けてくださる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなしくださるからである」というのであります。

 われわれが祈れない時です。われわれがまだ十分に悔い改められないでいる時であります。そういう弱いわれわれを御霊が助けて、神に祈ることへと導いてくださるというのであります。そしてこの御霊こそ、父なる神が一番信用しているかたなのだというのです。「人の心を探り知るかたは、つまり神はということです、父なる神は御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は聖徒のために神の御旨にかなうとりなしをしたくださるからである」というのであります。

 御霊は父なる神からも信用されている、そうしてまた弱いわれわれのことを一番よく知ってくださっておられる、だからとりなしをすることができるのであります。われわれの罪と弱さをよく知っておられる御霊は、うめき、言葉にあらわせないうめきをもって、父なる神にとりなしてくださるというのであります。

 なぜ、御霊は、言葉にあらわせないうめきをもってとりなそうとするのでしょうか。それは罪を犯したわれわれの罪の大きさを考えるからであります。そしてその罪を父なる神にゆるしてもらうためには、御霊みずからが罪を犯したわれわれの罰を身代わりに引き受けようとしておられる、だから言葉にあらわせないうめくとしかいいようない祈りで父なる神にとりなすのであります。

執り成そうとする人は、場合によっては、過ちを犯した人が受けなくてはならない罰を自分が引き受けるという覚悟をもたなくては、執り成しはできないのです。たとえば、それが借金であるならば、自分がその借金を引き受けるという覚悟をもたなくては執り成しはできないものであります。

 イエス・キリストの御霊はその罰を自ら引き受けようとして、うめきながらわれわれの罪のためにとりなしをしてくださった、いや今も執り成しつづけてくださっているというのであります。

 アブラハムは、「十人の正しい者がいましたら、赦してくださいますか」と食い下がり、そして神から「十人の者がいたら赦す」という言質を得ますが、そしてアブラハムはそこで、引き下がりますが、それは論理的にいったら、当然、「一人の正しい者がいたら、赦す」ということであります。

神はその「一人の正しいものがいたら、その町全体を赦してくださいますか」ということをアブラハムには言わせないで、その問答を打ち切らせたのであります。
 それは「一人の正しい者がいたらその町全体を赦す」ということは単なる論理的帰結ではなく、それは神ご自身の並々ならぬ決意だからであります。

その一人の正しい者は、アブラハムにもまして、とりなす者となるのであります。

 それがあのイザヤ書五十三章で歌われております、「主のしもべの歌」「苦難のしもべの歌」であります。その最後の言葉は「彼が死に至るまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」と歌われているのであります。

 これはいうまでもなく、ひとりの人、イエス・キリストのことを予言した歌であります。パウロもまた「ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によっていのちを得させる義がすべての人に及ぶのである」と書くのであります。

 どんな組織のなかでも、一人の正しい人がいることによって、その組織が浄化されるということがあるのはわれわれもよく経験しているのではないかと思います。

 そしてその一人の人とは、ただ正しい人、正義感に満ちた人という意味での正しい人ではないのです。そのような正しさだけでは彼は多く人の不正を糾弾するだけに終始し、かえってその組織は壊滅してしまうかも知れません。

 その一人の正しい人とは、ただ正義を主張するだけでなく、みずから罪人と同じ立場にたって、その罪を自ら背負い、その罪をあがなってくれる人、そういう意味での正しい人でなくてはならないのであります。

 もし一人でもそういう人がその組織のなかに存在していたら、その組織は健全であり、回復する能力があるのであります。そうでなくて、ただやたらに人のあやまちを非難するだけの正義派だけではその組織は壊滅していくだけであります。

 イエス・キリストの御霊は今もなおわれわれのために、切なるうめきをもって、われわれの弱さを知り、われわれの罪をあがない続けてくださって、われわれが滅ぼされないように父なる神にとりなしてくださっているのであります。

 このひとりのかたがおられる限り、われわれは滅ぼされないことを確信できるのであります。それはなんとさいわいなことか。