「主の道を整える」  マタイによる福音書三章一ー一七節


われわれは御子イエスの誕生を祝うクリスマスをすごしました。

 神の子がこの地上にきたという事は、どういう事でしょうか。それは、東京で下宿している学生の所にいきなり親が来たようなものなのではないでしょうか。学生はいつも田舎にいる親に「金を送ってくれ」と手紙や電話で依頼していたのであります。しかし、いきなり親自身が東京の下宿を訪ねて来たのであります。それは学生にとって有り難いことだろうか、うれしいことだろうか。かえってそれは迷惑なことなのではないだろうか。何故ならそれは自分のだらしのない生活があらわにされてしまうことだからであります。学生の願いから言えば、ただお金だけを送ってくれた方がずっと都合がいいだろうと思うのです。

 われわれも自分の救いということを考えた時に、本当はそう思っているのではないだろうか。神様はいて欲しい、しかしその神様は、自分がお願いした時だけ姿を現し、自分の願いを聞いてくれるかたであって欲しい、そういう「打ち出の小槌」のようなかた、そういう神様を望んでいるのではないだろうか。
 
 しかし神はお金を現金封筒で送っているだけでは、ひとつも人間の救いにはならないと思われたのであります。多くの預言者を送り、預言者を通して神のみこころを伝えても、人間はひとつも悔い改めない、それでとうとう最後に神は神様の独り子イエス・キリストそのかたをわれわれの所に、この地上に送ったのであります。

 ですから、われわれが本当に救われるためには、ただ祈っていればいいというわけにはいかない。この地上にいらしたイエスというかたが何を語り、どのような生き方をし、そしてどのように死んだのか、そしてよみがえったのか、その事をいつも学ばなくてはならないのであります。

 それはわれわれにとって決してただ有り難いことではないのです。かえって迷惑なことであるかも知れない。自分のだらしなさ、自分の罪があらわにされていくことだからであります。

 イエスはある時、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うてわたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう」と言われたのであります。

 「福音のために」自分の命を失う者は、と言われたのであります。つまり、この神様がわれわれに与えてくれる喜ばしいおとずれ、福音を得るためには、イエス・キリストに従わなくてはならない。そして従う為には、自分を捨てなくてはならない。実際に自分を捨て切れるかどうかはともかくとして、少なくとも自分を捨ててみよう、そしてともかくイエスに信頼してイエスの言われた事を聞いて信じて、従ってみようという覚悟と決断が要求されるという事であります。それはわれわれの日常生活の、一杯散らかっている下宿の生活の一間に、自分にお金を出してくれる人をいれる、入っていただく、という事なのであります。

 ある人が「自分の実生活に犠牲を要求しないような思想は思想でない」と言っておりますが、われわれの実生活に影響を与え、われわれに犠牲を強いないような信仰は信仰ではないのであります。

 なぜ神はご自分のひとり子をわざわざこの地上に送ったのでしょうか。それはわれわれ人間をなんとかして救おうとしたからであります。もしわれわれ人間を裁こうとしたならば、わざわざ神のひとり子が地上に送る必要はないのです。あのノアの時の大洪水のように一気に洪水を起こせばそれですむのであります。
 
 しかし、神はそうをなさらなかった。パウロはローマの信徒への手紙のなかでこういっているのです。
 神はわれわれ人間の罪を忍耐して忍耐して、そしてその最後に神の義を示されたのだというのです。しかしその神の義というのは、堪忍袋の緒が切れて大洪水を起こして人間を裁こうとしたのではなく、忍耐の末に、徹底的に人間を救おうとしてイエス・キリストをこの世に派遣したということだというのです。
 それは神の愛がなによりも神の義であることをわれわれ人間に示すために独り子をこの地上におくったという事なのだというのです。
 
 さて、聖書は、主イエスがこの地上でいよいよ公に活動する前に、ヨハネという人があらわれて、イエスの道備えをしたのだと記しております。
 そしてそれは預言者イザヤが預言していた通りであったというのであります。そこでは、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」と預言されているのであります。
その主の道備えをしたのが、このヨハネなのであります。

 このヨハネという人は、どのような主の道備えをしたのでしょうか。主の道を備えるということ、神の子が現れる前に、その準備をするということはどういうことなのでしょうか。

 このヨハネはらくだの毛衣を身にまとい、腰に皮の帯をしめ、イナゴと野蜜とを食物にして、そして人里離れた荒野に現れて、罪の赦しを得させる悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていたというのであります。いかにも預言者の風貌をもって人々に訴えていたのであります。しかも場所は荒野であります。それで人々はその噂を聞いて、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが彼のもとにぞくぞくと出て行って自分の罪を告白したというのであります。
 
 しかしヨハネは、そういう真面目な悔い改めをしに、はるばると荒野にまでやって来た人々に向かって、「まむしの子らよ、迫つて来ている神の怒りから逃れられると思うのか」と激しく怒ったというのであります。 わざわざバプテスマを受けに来た人々に「まむしの子らよ、」といって、怒ったというのです。

 ヨハネは人間の悔い改めの実体を見抜いていたのであります。ただ自分の誠実さとか、自分の宗教的な感情から、自分の真面目さから、罪を告白し、バプテスマを受けたとしても、それだけではあまりたいしたことにはならない、それだけでは真の悔い改めにはならない事をヨハネは知っていたのであります。それがどんなに真面目であっても、自分の真面目さからという所には、結局は自分の都合に合わせてという所があるからであります。
 
 ヨハネは真面目に真剣に悔い改めるためにバプテスマを受けにきた人々にまずこういったのであります。
 「わたしよりも優れたかたが、後から来られる。わたしはかがんで、そのかたの履き物のひもを解く値打ちもない。わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは聖霊と火でバプテスマをお授けになるであろう」といったのであります。

 ヨハネは自分の水によるバプテスマの限界を宣べ伝えていたのであります。

 バプテスマのヨハネは人間として最高の真面目さと誠実さをもって神の正しさを説いた。そしてそのヨハネのすばらしいところは、そうしながら人間のもっている真面目さとか誠実さとか、人間のもっている正しさの限界も同時に知っていて、それを人々に説き、水によるバプテスマの限界を説き、人間の真面目な悔い改めの限界を示したという事であります。その様にして、神から来る本当の救い主であるイエスを証したということであります。

 主の道を整える、主の道を備える、準備するということは、そういうことであらります。

 私が以前いた四国の教会で経験したことですが、その教会で中心的な役割をしていたかたが亡くなった時のことを思い出します。
 そのかたは教会では役員もしていて、教会のいわば大黒柱的な存在でしたが、町の中でも医者として信頼があつく、戦後始めて行われた公選の教育委員長をしたくらいの立派なかたです。そのかたが脳溢血かなにかで倒れて、半身不随になり、しばらく病床生活をするようになりました。自分の死期を悟り、ある晩自分の家族を呼んで、ひとりひとりに最後の言葉を語ったというのです。いわば遺言をしたのであります。そしてこの地上でのお別れの言葉を語り、自分の死に備えた。あとからの奥さんからの話では、それはとても立派だったと、奥さん自身感動し、主人の死を覚悟したというのです。

 しかし不思議な事に、それからそのかたの病状はかえってよくなって、死ななかったのです。
 教会の礼拝にも何回か出られるようになったのであります。しかしまた病状がおもわしくなくなって、礼拝にも出られなくなったので、わたしが自宅にお伺いして、聖書を読んで話をしにいったのです。あるときに、こういわれました。「自分は今まで、信仰生活を真面目に忠実に守ってきたけれど、なにかとても空しくなった。聖書を読んでも、賛美歌を歌ってもむなしい」と言い出したのです。「自分の今までの信仰生活、教会生活はなんだったのだろうか」といいだしたのです。

 わたしが神学校卒業して最初の赴任した教会で、まだ若い牧師です、たいへんあわてました。それ以上にあわてたのは奥さんでした。奥さんはとてもとても信仰深いひとだったのです。一緒に祈るときに、「どうか神さまの栄光を汚さないようにさせてください」と祈ったりしておりました。

 わたしはしきりに、信仰というのは、こちらが、人間が神様を信じるということよりも、神様のほうでわたしたちをとらえてくださっていることなので、こちら側の、人間の真面目さとか信仰の深さなんかは問題ではないのですと話たのですが、それはなかなか分かってもらえなかったです。

 病気になってしまって、もう教会の役員もおりなくてはならない、教会のためになんの奉仕もできない、教会だけでなく、世間に対してもなんの役に立てない状態になってしまって、すべてがむなしいというのです。

 そういう状態がどのくらいつづいたかわすれましたが、あるときにお宅に伺ったときに、こういう話をなさいました。四国遍路のお遍路さんの編み笠には「同行二人」という字が書かれている。それは「どんなに四国の山のなかをひとりで歩いているときでも、弘法大師さまと一緒だよ」という意味の言葉だ、信仰というのも、どんなときにも、イエスさまが一緒だということを信じることだね、と、はれがましい顔していわれたのであります。それからそのかたは信仰をとりもどしたのです。

 その部屋には、大きな屏風があって、そこには詩編の二三編「たとえ死の陰の谷を歩むときにも、あなたがわたしと共にいてくださる」と書かれていたのであります。
 
 それから半年たったある日、その病人の枕元にいつも立てられている屏風の詩編の二三篇を、読んで欲しいと奥さんに頼み、奥さんがそれを読んでいるうちに、安らかに眠りについた。それで奥さんは今日は大丈夫だろうという事で、久しぶりにお風呂にもはいった。その時から、病状は急変して、それっきり眠るようにして、息を引き取ったのであります。それは真に静かな最期だったのであります。

 わたしはこのかたの死を通して、人間が死を準備するということは何か、という事をいつも考えさせられるのであります。いや、われわれ人間が死を準備するというだけでなく、生を準備する、つまり生きるということ、生を整えるということはどういかことかを考えさせられたのであります。

 人間がどんなに準備万端整えて死の時期をあらかじめ予想し、また別れの言葉を用意して、これで死の準備ができましたと、いったとしても、人間の方が死を備えることはできないという事であります。死はやはり神様が備えることなのであって、神が支配なさることなのであって、われわれ人間は、その神が備える死を受け入れる準備をしていく以外にないのだ、神が備えてくださる死をこちらも受け入れようとする事が、われわれ人間が死を準備するということなのだという事であります。

 あの詩編二三篇には、「たとい死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたが、神が共におられるからです」と歌われているのであります。

 そのかたは、最後には、幼子が母のふところに休むようにして、主のみ手の中で守られて死んでいったのであります。そのかたは大変真面目な誠実なかただったのであります。そして明治時代のクリスチャンらしい真面目さで、自分の死を精一杯準備しようとしたのであります。しかし神はそのかたのそうした真面目さを静かに押し戻して、神は神が最善の時だと思われたときに、そのかたを神のみもとにに引き上げたのであります。

もし、そのかたが自分の死期を悟り、家族のひとりひとりに別れの言葉を告げて、そして息を引き取って死んだならば、格好良い死に方だったかもしれません。あの人は本当に立派な死に方をした、クリスチャンとしてまことに立派だったと称賛されただろうと思います。しかし、神様はそういう死に方を許さなかったのではないか。

 死は人間が準備するものではない。死は、神が準備し、われわれ人間は、その神様が準備してくださる死を受け入れる、そのような死を受け入れる準備をする、それがわれわれ人間が死の備えをするということではないかと思うのです。

 「主の道を整える」「主の道を備える」ということはどういうことでしょうか。このことを言った預言者イザヤはこういったのであります。
このことが記されたいる第二イザヤといわれている預言書は「慰めよ、わが民よ慰めよ」という慰めの言葉で始まる預言書であります。あのヘンデルのメサイアの冒頭の歌の言葉です。
 それは長い間バビロンという異教の地で捕らわれていたイスラエルの民が神に赦されて自分の故郷に帰ることを慰めるために預言した預言書であります。しかしそこで預言されているのはこういう言葉であります。
 
 「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」といったのです。預言者イザヤがまず言ったことは、イスラエルの民、自分たちがバビロンから帰るための道を整えよ、といったのではないのです。なによりも神が通られる道を整えよといったのです。その神がまず通られる道を用意し、そしてそのあと捕囚の民イスラエルが赦されて帰る道が整えられるのであります。それがわれわれの救いの道を整えるということなのであります。

 ただ捕囚の民がイスラエルに帰還しても、なんの慰めにも救いにもならないのです。まず何よりも、神様にそこを通っていただく、神が先頭に立ってくださる、そしてそのあとに捕囚の民イスラエルが帰る、そうでなければ、なんの慰めにも、救いにもならないのだということであります。

 その預言のなかで、預言者イザヤはこういうのです。「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と言ったのです。
 預言者イザヤは、「慰めよ」と冒頭でいいながら、われわれはずれ死ぬのだと告げるのです。しかし、われわれはいずれ死ぬかもしれないけれど、神の言葉はとこしえに立つ、だから慰めになるのだ」と預言したのであります。 

 人間はいずれ死ぬのだ、しかし神は永遠だ、このことを信じることが主の道を備えることなのだと預言したのであります。

 バプテスマのヨハネは、人間として最高の真面目さと真剣さと誠実さをもって、主の道を備えようとしたのであります。しかしヨハネは真面目で誠実だったからこそ、自分の誠実さの限界を自ら悟り、「わたしよりも力のあるかたが後からおいでになる。わたしはかかんでその靴の紐を解く値打ちもない」と言って、神から遣わされた本当の救い主イエスを証したのであります、証できたのであります。

 その真面目さは、あのパリサイ人律法学者たちの真面目さとは違って、本当に謙遜な真面目さ、自分の限界をよく知っている人の真面目さであります。

 鎌田實というお医者さんがおりますけれど、その人の口癖は「がんばらない」という言葉です。それは末期ガンの患者をみてきて、そのひとたちはもういままで一生懸命ガンバッテきたのに、そのうえ、さらに「がんばってください」と求めるのは酷だというのです。「がんばらなくていい」ということは、もう努力しないでいいということではない、そうではなくて、それは、今までがんばってきたことに対するねぎらいの言葉だ、慰めの言葉だ、明日への希望だというのです。鎌田實さんは、「がんばらない」というと同時に、「あきらめてはいけない」ということも言ってきたというのです。「がんばらない」、それと同時に「あきらめない」ということが大事だというのであります。

 われわれにとって「あきらめない」ということは、主を信頼するということであります。その同じイザヤ書の五十二章の十一節には、こういう励ましの言葉があります。
「立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ、汚れたものに触れるな。その中を出て、身を清めよ。主の祭具を担う者よ。しかし、急いで出る必要はない。とんで行くこともない。あなたたちの先を進むものは主であり、しんがりを守るものもイスラエルの神だからだ」というのであります。もう、急ぐ必要はない、あわてて、とんでいく必要はないというのです。

 神がわれわれの先頭に立ち、またこの神がしんがりとなってくださるからだというのです。とぼとぼしか歩けない、われわれ、倒れそうに息絶え絶えになっているわれわれの一番うしろから、しんがりとなって、われわれを見守り、支えてくださるからだというのです。その主なる神が通ってくださる道をわれわれは備えていきたいと思います。

 この一年、この新しい一年、主を信頼して生きて行きたいと思います。