わたしについてきなさい」   マルコ福音書一章一六ー二十節


 イエス・キリストは「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信ぜよ」と福音を宣べ伝え始めました。しかし誰ひとりそのイエスの所に出かけていく人はありませんでした。あのバプテスマのヨハネが同じ言葉で宣教を開始した時は、ユダヤ全土とエルサレムの全住民がぞくぞくと荒野まで出かけていったというのに、イエスの場合には、そういう事は起こりませんでした。

 ヨハネはラクダの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていたというので、いかにも預言者風な風貌をしていたからかも知れません。ある意味では、ヨハネはアジテータ、人をあおりたてる扇動者であったのかも知れません。

 宗教家にとってそのようなアジテータ的な要素は必要であるかも知れませんが、しかし宗教家が一番陥ってはならない事は絶対にアジテータ扇動家であってはならないという事であります。

 イエスもある一時期、多くの群衆がイエスの後についていった事がありました。それはイエスが多くの病をいやし、パンの奇跡などをした時であります。しかしそういう時でもイエスは、しばしば群衆から離れようとして、「お前たちがわたしについてくるのは、パンの奇跡をみて、パンが欲しいからだろう」と皮肉をいって、かえって人々の反発を引き起こし、それ以来多くの弟子が去っていったというのであります。

 イエスがアジテータでなかったからか、イエスが宣教を開始しても、すぐ人々がぞくぞくとイエスの所にいかなかったと言う事もあります。

 しかしもっと本質的な意味では、イエスの所に行くというのは、われわれが自分の自由な意志で、自分の好みでイエスの所にいけばいいという事ではなく、イエスの所に行くという事は、イエスに招かれて、イエスに召されて、そのイエスの呼びかけに応えて、われわれがイエスの所にいくのだということであります。だから、バプテスマのヨハネのように、人々はイエスのことろにいかなったということであります。

 イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いていて、シモンとシモンの兄弟アンデレとが湖で網をうっているのをごらんになって「わたしについてきなさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたのであります。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従ったというのであります。まことにあっさりしたものであります。

 彼らはこの時始めてイエスに出会ったのだろうか、そんなに簡単に今までの職を捨て、イエスに従ったのだろうか。ゼベダイの子ヤコブとその兄弟の場合には、父ゼベダイを捨てて、とありますが、そんなに簡単に職を捨て、父を捨てて、始めて会った人に、簡単についていっていいのだろうか。それは軽率ではないか。

 ルカによる福音書ではもう少し劇的なイエスとの接触があった事を記しております。彼らが漁をしていてその日一匹も魚がとれなかった時に、イエスから沖に漕ぎだして、網をおろしてみなさいと言われて、網をおろしてみたらおびただしい魚がとれて、シモンはイエスの前にひれ伏し「わたしから離れてください。わたしは罪深いものです」と言ったというのです。

 その時、イエスは彼に向かって、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」と言って、それからシモン即ちペテロはイエスの弟子になったというのであります。

 本当の所、どちらが実際にあった事なのかわかりませんが、実際はもっと具体的な接触があったにせよ、その本質、そのエッセンスだけを取り出してみたら、イエスが「わたしについて来なさい」と言われ、わたしはただそれに応えて、それに従っただけだという事になるのではないかと思います。どんな事情があったにせよ、われわれが神に従うということ、イエスに従うということの本質は、そこにあるのであって、そのエッセンスをしっかりと抽出していなかったならば、われわれの信仰は大変あやふやなものになってしまうのではないかと思います。
 
 それにしても、彼らは「すぐに網を捨てて、イエスに従った」あるいは「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟において」という事は、われわれにとってはずいぶん気になるところではないでしょうか。一切を捨てて、という事、われわれにそんな強い決断ができるだろうか。イエスに従うという事は、そういう、一切を捨てて、という強い決断をしなくてはならないのでしょうか。

 しかしここをみますと、彼らにそれほど強い決意、一切を捨てるのだという覚悟があったとは思えないのであります。形のうえでは、確かに今までの職を捨て、家族を捨てておりますが、それ以上に、イエスに従っていく喜び、イエスに「わたしに従ってきなさい」と声をかけられた喜びが強くて、ただ結果的に捨てたという事の方が実状なのではないでしょうか。

 この始めての出会いの時に、イエスから「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うてわたしに従ってきなさい」といわれたら、彼らはイエスに従えただろうか。恐らくそのような事を最初に言われていたら、彼らはとうてい従えなかったのではないでしょうか。そしてもしそのように言われて、よし自分を捨て、自分の十字架を負うて、イエスに従うんだなどと覚悟して、イエスに従っていたら、その気負いが邪魔をして本当の意味でイエスに従う事はできなかったのではないでしょうか。

 ペテロたちは、自分は一切を捨ててイエスに従ったのだと妙に自覚した時がありました。ある金持ちがイエスの後に従えないで、去っていった後、ペテロは「私たちは一切を捨ててあなたに従いました。ついては何がいただけるでしょうか」といったというのであります。

 その時イエスは恐らく悲しそうな思いをした筈であります。イエスはその時にそういう弟子達を始めはほめましたが、最後に「多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるだろう」と厳しく言われたのであります。

 イエスに声をかけられ、イエスに招かれて、自分はそれに応えて従っただけなのだという思いでなく、自分が自分の決意で一切を捨ててイエスに従ったのだという事に重点がおかれますと、もし何かの事で挫折しますと、あるいはイエスを裏切ってしまうことになると、その自分の挫折にこだわり、自分の裏切りにこだわり、そういう自分の意志の弱さにこだわり、イエスから離れていってしまうのではないでしょうか。

 イエスを裏切ったイスカリオテのユダは、自分の裏切りにこだわり自殺しましたが、同じようにイエスを裏切ったペテロは復活の主に呼びかけられると、またイエスに従うことができたのであります。

 大事なのは、自分の決意の強さとか清さとか、自分の決意の純粋性とかではなく、イエスの招きであり、呼びかけの方だからであります。イエスは自分のそうした弱さを全部知っていてわたしに声をかけ、呼びかけてくだっさったという所にあるからであります。

 よく言われる事だし、事実としてもそうだと思う事は、クリスチャン ホームで育てられた人の信仰の強さであります。その人たちは自分がイエスに従ったという意識とか自覚というのは薄いと思うのです。いつのまにか従っていたというのが本当のところだろうと思います。

 それに比べると青年の時いろいろ悩んだ末にクリスチャンになった人は、はっきりと決断をし、一切を捨ててという思いもあったかも知れません。しかしそういう人は何かの事でつまずくとその挫折感から立ち直るのは容易ではないのであります。自分の挫折にこだわつてしまうのではないでしょうか。

 大事なのは、こちら側の決意の強さとか、一切を捨てなくてはならないとか、捨てるとかという事ではなく、イエスが自分を呼んでくださっている、招いてくださっているという事に気づくということなのであります。

 キリスト教では、救われるという事は、選ばれることだとよく言われます。イエスも「父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません」と言っております。しかしこの選びというのは、われわれが何か委員長を選ぶというような選抜ということではないのであります。

 イエスは、シモンとシモンの兄弟アンデレを、その二人とも弟子にした。ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをお選びになっているのであります。これは大変おもしろい事であります。もしイエスの選びという事が、選抜と言う事であるならば、この兄弟のうち一人を選んだという方が劇的で、われわれは選びの厳しさにうたれるのではないかと思います。

 われわれは旧約聖書のカインとアベルの記事を知っております。神はアベルの供え物はよしとしましたが、なぜかカインの供え物はかえりみなかった。それでカインはアベルを殺してしまったのであります。

 またあのヤゴフとエサウの兄弟の話を通してもわれわれは神の選びの不思議さにうたれるのであります。

 兄弟のうち一人をイエスが選ばれたのであれば、その方がずっと印象的であります。しかしイエスは兄弟ふたりとも召したのであります。つまり神の選びという事で聖書が言おうとしている事は、われわれの救いはいつも神の側にその優先権があるということなのであります。神が呼びかけがあり、わたしはただそれに応えるという事なのであります。それが選びという事の意味であります。
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 イエスが「父を知る者は子が選んだ者のほかない」と言った後、すぐ続けて「すべて重荷を負うて苦労しているものは、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」というのであります。「すべて」というのです。どんな人も来なさいと招いておられるのであります。つまり、神の選びとは、神の招きのことなのであります。それは選別という意味ではなく、招きという意味なのです。

 それでは、あのヤコブとエサウの場合はどうなるのか。パウロはそれについてこう言っているのであります。「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」というのは、「神の選びの計画が、わざによらず、召したかたによって行われるために、兄は弟に仕えるであろうと、彼女に仰せられたのだ」というのであります。

 そしてそれは神の「わたしは自分の憐れもうと思うものを憐れみ、いつくしもうとする者をいつくしむ」という事のあらわれで、ゆえに、それは、「人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである」というのであります。

 パウロはその事を通して、われわれが救われるのは人間の行いやわざによるのではなく、ただ神の憐れみによる、それを信じる信仰によるというのであります。そこにわれわれの救いの確かさがあるのだというのであります。

 イエスはシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとその兄弟ヨハネを、その兄弟二人とも選ばれたのであります。

 イエスはシモンとその兄弟アンデレが海で網を打っているのをごらんになった。ゼベダイの子ヤコブとヨハネが舟の中で、網を繕っているのをごらんになった。そして彼らを召した。「ごらんになった」よく見ておられた。

 ひところ、キリスト教の愛は、人間的なエロースの愛ではなく、アガペーの愛であるとよく言われたものであります。アガペーの愛とは、価値のないものをも愛する愛だ。それに対して、われわれ人間の愛はエロースの愛であって、価値のある者、自分にとって価値のあるものを愛する愛だと言われたものであります。しかし本当にそうだろうか。

 もしわれわれが神様からそのように愛されたとしたらうれしいだろうか。お前は何の価値もないけれど愛してあげるんだと言われて、うれしいと思うだろうか。そう言われたら、ひとつもうれしくはなく、われわれは絶望してしまうだろうと思います。

 神がわれわれを愛するのは、われわれが決して無価値だからではなく、われわれの中に、価値を見いだしてくださって、よくごらんになってくださって、われわれを選び、愛してくださっているからこそ、われわれは本当に有り難いと思い、慰められるのではないでしょうか。どんなに世間が自分の価値を見てくれなくても、神だけは神様だけは、自分をよくごらんになってくださって、選び愛してくださっているのであります。

 神のごらんになる目は勿論われわれの見る目とは違うのであります。神の価値観はわれわれ人間の価値観とはちがうのであります。われわれはただ自分にとって都合がよいかどうか、ただ自分に役に立つか立たないかという価値判断でしか選択しないかも知れませんが、神は違うのであります。

 神がダビデを選んだときに、こういうのです。「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」と神は言われて、そうしてダビデを王として選ばれたのであります。神はわれわれの中にかけがえのない価値を見いだしてくださって、われわれをよくごらんくださって、選んでくださっているのであります。

 神はすべての人を選ぶといっても、それは何か機械が選ぶように、無差別に、無表情に、選ぶわけではないのであります。ひとりひとりをよくごらんになって、感情をこめてごらんになって、選ばれたのであります。

 われわれがある人を選ぶ、そして愛するという事は、そういうことであります。ほかの人はどう評価しようが、わたしはその人の中にかけがえのないものを見いだしてその人を慈しみ、愛するのではないでしょうか。

 確かに、パウロは「神はこの世の弱い者を選び、この世で身分の低い者、軽んじられている者、すなわち無きに等しい者を、あえて選ばれたのである」と言っております。しかしそれは選ばれた者が、自分の選ばれた理由を考えたら、そう自覚する以外にないということであって、そして、だからこそ、「どんな人間でも神のみまえに誇ることがないためである」という事を自覚することが大切なのだとパウロはいおうとしているのであります。

 イエスはシモンとその兄弟アンデレが海で網を打っているのをごらんになって、わたしについて来なさい」と声をかけた。そしてヤコブとヨハネの場合では、舟の中で網を繕っているのをごらんになって声をかけておられるのであります。

 一方は、海で網を打っているという、いわば働きの真っ最中、一方はもう仕事を終わり、網をつくろっておられる姿をごらんになって声をかけておられるのであります。イエスはその人のそれぞれの働いている姿、休んでいる姿、その人の状況をよくごらんになって、その人にとって、一番ふさわしい時に、その人に声をかけ召しておられるということであります。イエスがわれわれを召す時、どんなに深くわれわれを見ておられるかという事であります。神はその人の状況をよくごらんになって、その人にもっともよい時に、呼びかけてくださるのであります。