「兄弟を罪に誘ってはならない」 ローマ書一四章一三ー二三節


 パウロは、「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」と勧めます。

 これは具体的には、教会のなかで「肉を食べない、野菜だけを食べる。それはなぜかというと、肉は偶像に供えられた肉ということもあるので、それを食べると偶像を拝んだことになりかねないので、肉を食べない」と決めて、そのように信仰生活を守っている人の信仰を躓かせてはならないという勧めであります。

 パウロは自分は肉を食べても自分の信仰が崩れることはない、肉をたべる、食べないは、自分にとっては、信仰的には自由なのだと思っているのだけれど、肉をたべたら自分の信仰の純粋性はそこなわれて、自分の信仰はだめになると思っている人がいるわけだし、その人の信仰を躓かせないために、パウロは、あえて、自分の自由を放棄して、肉を食べるのをやめるということであります。

 「つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前におかないように」という勧めの言葉は、信仰の強い人に対する勧めの言葉であります。今日の日本の教会の現状において、いえば、禁酒禁煙を守ることによって信仰生活を送っている人のまえで、信仰は飲み食いにおいては自由なのだといって、酒飲んだり、たばこを吸うというようなことはやめようということであるかもしれません。

 ともかく、信仰の強い人は、信仰の弱い人の前に、つまずきとなるものや妨げとなるものを置くのをやめようということであります。それは肉を食べないということで、自分の信仰を保とうとしている人の信仰をぐらつかせ、やがて、自分の信仰をわからなくさせて、信仰をダメにさせて、神から離れさせてしまう、そういう罪に誘うことなるからだというのです。

 強い人は、しばしば弱い人を躓かせてしまうのであります。それはもっとも悪質な罪なのです。

 主イエスは、「わたしを信じるこれらの小さい者の一人を躓かせる者は、大きな石臼を首にかけられて、深い海に沈められたほうがましである」といい、「つまずきをもたらす者は不幸である」といったあと、「もし片方の手か足があなたをつまずかせるならば、それを切ってすてなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかるほうがいい」というのです。

 つまり、ここでは、主イエスは、わたしを信じる小さい者、幼子を躓かせるものは、そんなことをしたら、地獄に投げ込まれるぞ、それは最大の罪を犯すことになるのだといっているのであります。

 つまずかせるということは、人が走っているとき、あるいは人が歩いている時に、ほんの小さい石ころをその前におく、そうすると走っている人、歩いている人はそれに躓いて転んでしまうということであります。そうして大けがをさせてしまうのであります。

 ほんの小さな石ころを目の前におくだけで、人をつまずかせ、大けがをさせてしまう。人を罪に誘ってしまい、その人を滅ぼしてしまうのであります。こちらはそれほど悪意という意識はないかもしれない。ほんの軽い気持ちであるかもしれない、こちらはなんのエネルギーも必要としない、しかし、それが弱い人をつまずかせ、大怪我をさせてしまうのであります。

 もし大人どうしの、いわば対等の力をもった人間どうしが批判し、裁き合うときには、批判する側、相手を裁くときには、必死な覚悟で相当なエネルギーをもって相手を批判し、裁かなければならないのです。そうでないと返り血をあびてしまう。逆に相手から裁かれてしまうからであります。命がけで、相手を批判し、裁かなくてはならないのです。

 しかし弱い人を躓かせるときには、こちらはなんのエネルギーもいらない、小さな石ころをころがすだけでいいのです。こちらは、裁かれるおそれもない、こちらはそれほどの悪の意識もない、すこし意地悪なこころがあるだけかもしれないだけであります。しかしそれが相手に対しては、致命的な怪我を与えてしまうのであります。

 だから主イエスは、わたしを信じるこれらの小さい者を躓かせるものは、最大の罪を犯したことになるのだというのであります。

 強い人が弱い人を躓かせるのは、軽蔑するという形で批判し、裁くということであります。強い人は、いつも弱い人に対して、自分は優位に立っている、上から下を見下ろしているのであります。軽蔑するのであります。

 信仰の強いと思っている人は、信仰の弱い人を軽蔑するという形で、人を裁いているのであります。

 日本の教会の現状でいえば、禁酒禁煙を守っている人のほうがどうも信仰の強い人だと思われて、それが守れない人は意志の弱い人で、信仰の弱い人だということになっていて、禁酒禁煙を守っているクリスチャンは、それを守れない人をそんな信仰ではだめだと軽蔑的な目で見てしまうのではないか。

 人を軽蔑するという形で、人を批判し、人を裁くのは、もっとも悪質な、もっとも罪深いことであります。主イエスはそういうのです。パウロも、「食べる人、つまり、肉を食べる人は、食べない人を軽蔑してはならない」というのであります。

 幼い子を躓かせることが、なぜ人間の犯す最大の罪なのかといいますと、主イエスはこういうのです。
「これらの小さい者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの父の御顔を仰いでいるからだ」と主イエスはいわれるのです。
 当時は、幼い子供には、それぞれ守護神である天使がついている、そしてその天使たちはいつも幼子に代わって、天の父なる神の御顔を仰いでいるというのです。そのように天使たちが必死になって幼子をまもろうとしてるのに、その幼子を躓かせるとは何事か」と主イエスは怒るのであります。

 それは、パウロが強い人に向かって、弱い人を躓かせてはならないというとき、「食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません」といったあと、「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」というのです。それは主イエスが、幼子には、守護神である天使が守っているというのと、同じことであります。

 主イエスが、幼子を躓かせてはならないといわれたときに、それは彼らの守護神である天使が幼子を守っているからだというのですが、その天使が幼子を守る時の守り方というのがおもしろいと思うのです。
 守護神である天使は、「彼らの天使たちは天でいつもわたしの父の御顔を仰いでいる」というのです。幼子の守護神である天使は、幼子が転ぶのではないかとはらはらして、幼子のほうを見ているのではないのです。幼子に代わって父なる神の御顔を仰いでいる、礼拝しているというのです。

 そのようにして、幼子の思いを天にいる父なる神に向けさせているというのです。幼子の信仰は頼りないのです。本当は幼子だけでなく、われわれ大人の信仰も頼りないのです。そういうわれわれの代わりに、われわれを守る守護神である天使は、われわれの代わりに天の父なる神の御顔を仰ぎ、礼拝している。いわばわれわれの頼りない信仰の代わりに、模範を示して、いつも天の父なる神の御顔を仰いでいるというのです。そのようにして、われわれに正しい信仰の道を示してくださって、われわれを守っているということであります。

 ところが、われわれ幼子の親はどうでしょうか、いつもいつも、幼子が転ぶのではないか、躓くのではないかとはらはらと幼子ばかりのほうに目を向けているだけなのではないか。そうしては思い煩っている。しかし大事なことは、われわれ大人がしっかりと神に顔を向けて、神を仰ぐ生活していく、われわれ大人が神を第一とする生活態度を示していく、それが本当の幼子を守ることだし、それが本当の幼児教育というものではないか。

 本当かどうかわかりませんが、ある人がいっておりましたが、北欧での幼児教育というのは、幼い子供に夜寝るときに、ひとりで寝室におくのだというのです。子供はその暗闇の寝室で、こわくて、淋しくて、泣きわめいても放っておく、そのようにして、人間の親などは頼りにならないものだ、頼りになるのは神なのだ、神に祈ることをそのようにして、小さいときから、親は子供に教えるのだというのです。それが一番大事な幼児教育だというのです。
  
 本当かどうかは、わかりません、そんなことをしたら、子供は精神的なトラウマを植え付けられのではないかと思いますが、しかし、これはある意味では、われわれに宗教教育というものの本質を教えてくれるのではないかと思います。

 二二節でパウロはこういうのです。「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心のうちに持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められる。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです」といっております。

 これらの言葉は、「疑いながら食べる人は」とありますから、肉を食べない、野菜だけを食べると心に決めた人が、何を食べても自由だ、自由だという、いわば信仰の強い人に誘惑されて、本当にそうだろうかと、疑いながら肉を食べてしまう人に対しての言葉だと思われます。

 つまり、肉を食べると自分の信仰は偶像によって汚されるかもしれないので、肉を食べないと心に決めた人は、その確信に基づいて、肉をたべないという行動をしなさい」ということであります。

 「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心のうちにもっていないさい」というのです。つまり、自分の抱いている確信、自分の信仰の生活の仕方、それは人に押しつけることでもないし、人の生き方をみて右往左往して、動揺してはならないということであります。

 それはある意味では、肉を食べても自分は平気だ、自由なのだと信じている人に対しても言える言葉ではないかと思うのです。その自分の確信を、その生き方を貫きなさいということではないかと思うのです。
 それはもちろん、人に見せびらかしたり、人を躓かせてはならないことですが、自分が自分なりに、その生き方のほうが、自分に合っていると思うならば、そうしなさいということだと思うのです。

一六節に「あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい」とありますが、「善いこと」というのは、信仰にとって飲み食いは自由だという「自由」ということであります。その自由なふるまいが、弱い人の信仰の仕方に躓きを与えないようにということであります。

 それぞれの人が、自分の信仰に基づいて行動すればいいということであります。

 新共同訳では、「あなたは自分で抱いている確信」と訳されておりますが、ここは口語訳聖書では、「確信」ではなく、「信仰」と訳されております。そして原文では、ピスティスという字で、信仰と訳されていいい字であります。
 新共同訳は、文脈からここを「確信」と訳しておりますが、ここは口語訳のように「あなたの持っている信仰を、神の御前に自分自身にもっていなさい」「すべて信仰によらないことは、罪である」と、ずばりと訳したほうがいいような気がします。

 「自分の抱いている確信」といわれても、われわれは自分の確信などというものは、頼りないものだということはよく分かっているのではないか。それよりも自分の神に対する信仰、というよりは、信頼、神がどんな自分の小さな信仰も、その生き方も受け入れてくださるという神に対する信頼、その神に対する信仰を神の御前で心のうちにもって生きるということが大事なのではないかということなのです。

 つまり、幼子を守る守護神である天使が、いつも父なる神の御顔を仰いでいるように、われわれはひとりひとりが神に顔を向けている、他の人が正しい生き方をしているかどうか、他の人が酒を飲んでいるのではないか、たばこを吸っているのではないかと人のことばかり気にして、批判しようとするような生き方をやめて、われわれひとりひとりが神に顔を向けていくという信仰が大事なのではないかということなのであります。

 いわば、信仰の強い人は、食べ物に関して、それ自体で汚れたものはないのだから、なにを食べても自由なのだという生き方をする。また信仰の弱い人は、自分はそんなに割り切れないし、自分は自由というものを自由に生きれるほど意志は強くない、だから一定のきまりをきめて歩んだほうが信仰生活はしやすいのだとおもって、肉をたべない、野菜だけを食べる、あるいは禁酒禁煙を守り通す生き方をするということであります。

 信仰の弱いひとは、信仰の強い人の自由さを尊敬し、敬意を覚えながら生きる。信仰の強い人は、信仰の弱い人のけなげな慎ましい信仰のありかたに、敬意を覚えて生きる、そのようにして、お互いに裁き合うのをやめて、お互いの生き方を尊重しながら生きるということではないか。

 「神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」「だから平和や互いの向上に役立つことを追い求めよう」ということになるのではないかと思うのであります。